umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

地下室の手記

「やっとくたばりやがった.俺はこいつみたいに内面のないやつは嫌いだ.おまえに内面はあるか」

―映画『冷たい熱帯魚』より

 

暗澹として内向的になってきたので,どんなふうにものを書けばいいのかということについての感覚が戻ってきた.よいことだ.世の中には言葉の二重の意味においてしか喋ることのできない人間というのが存在している.いつも念頭に死ぬことばかりを置いて暮らすこと,これも一種のお守りであり,祈りである.文章は,書けそうだったら,たぶん書いたほうがいい.沈鬱なときに存外しっくりくるフレーズが浮かぶなどというのはよく言われること(直近だと,古井由吉『人生の色気』にそんな話があった).書くとは孤独のことで,かってに思いがけないところまで連れて行かれることだ.まったく想像し得ない価値の転換のごときものを,筆を走らせながら感じとることだ.決して書かれ得ないものを,逆説的に体験することだ.余計なことを考えないで済んでいると,日記にも「なにも書くことがない」以外に書くべきことがなくて困っていたのだ.わたしには日記の構成するささやかな全体性に賭けているようなところがあるというのに.(どうでもいいが,このまえ大学ノートの一冊をまた使い切った際に日記を読み返していたところ,昔のほうがずっと字が几帳面であった.見習いたい)

 

自分ひとりでの摂食がまことに不得手で,涼しくなってからの主食がインスタントコーヒーといって差し支えないのであるが,ここのところ満足に眠ることもできなくなってきた.たいして食べず眠らずでもわりあいふつうに生活できるのだ.夜を徹して迎えた明け初めのような妙な高揚感がつねに身体を満たしているように感じられ,常時ペースを保ってうまく活字を読み進めることができた.しかしとうとう揺り戻しが来たのかもしれない.いつも独りでいて,自分のためだけになにかをし続けなければならない,というような強迫観念は,よほどよい条件下でないと満足されることはない.けっきょくのところ,経験に照らしてみても,特定の気分はせいぜい数日間くらいしか持続しないのである.

 

心と生活の平穏をこよなく愛している.先のよく晴れて陽の烈しかった日,布団を干し終えて横になり,ベランダの向こうに高い蒼穹を眺めていたわたしは確かに幸福であった.それでも,たほうでなにか無茶苦茶なことがしたいとも思うことがある.一発芸などの場(あるのか?)でおもむろに手首を切り裂くとか.まあ,数ヶ月前に指先を削いでしまった件でもう怪我はこりごりだし,しょせんわたしにはできないことだけれども.世の中で狂的だと言われているような行為は,おしなべて完全に明晰な意識で,当人なりに限界まで計算され尽くして為されるものであろう.『罪と罰』にしても,老婆の頭へ斧を振り下ろすその瞬間に向かって,作者の筆はいよいよ冴えわたり,その心理描写にはほとんど慄然とさせられるものがある.人を殺さずしてこれが書けるのだろうかと,初めて読んだときに感じたのを憶えている.むろん,その後にどんなにおぞましく生々しいことが待ち受けているかというのは,また別の話である.

 

他人の私的生活などに継続的な興味様のものを抱き続けることが社会のコツであるらしいが,わたしにはあまり(さいきんは特に)自信がなく,すぐに本が読みたいな,というような気分がどこからか浸食してくる.もっとも,とち狂った話があればわりに喜んで聞くのだけれど.ひとのすくないところに隠栖して一生を辞書を引くことなどに費やしたい.そういうのがやはり人間のあるべき姿ではなかろうか.毎日えんえんと同じように,何のためでもなさそうな地味な作業を,一種の奇矯な情熱をかたむけて続けること.昔のひとたちがある特定のテクストに膨大な註解をつけたように.自らの身辺から遠く隔たったものごとにたいする憧憬の念を持ち,ほんのわずかであれそれに奉仕することができるというのは,喜ばしいことに思える.

 

さて,すこし毛色が異なるが,さして役にも立たない地味な仕事といえば,ニコライ・ゴーゴリ『外套』はわたしの好きな作品だ.官吏アカーキイは万年九等官,来る日も来る日も与えられた文書を一字一句たがえずに清書するだけの業務をこなしている.すこし長いが,次の一節などすばらしい.青空文庫より引く.

 ペテルブルグの灰いろの空がまったく色褪せて、すべての役人連中が貰っている給料なり、めいめいの嗜好なりに従って、分相応の食事をたらふくつめこんだり、また誰も彼もが役所でのペンの軋みや、あくせくたる奔命や、自分のばかりか他人ののっぴきならぬ執務や、またおせっかいなてあいが自分から進んで引き受けるいろんな仕事の後で、ほっと一息いれている時――役人たちがいそいそとして残りの時間を享楽に捧げようとして、気の利いた男は劇場へかけつけ、ある者は街をうろうろしながら、女帽子の品定めに時を捧げ、夜会にゆく者は小さな官吏社会の明星であるどこかの美しい娘におせじをつかって暇をつぶし、またある者は――これが一番多いのだが――安直に自分の仲間のところへ、三階か四階にある、控室なり台所なりのついた二間ばかりの部屋で、食事や行楽をさし控えてずいぶん高い犠牲の払われたランプだの、その他ちょっとした小道具といったようなものを並べて、若干流行を追おうとする色気を見せた住いへやってゆく――要するにあらゆる役人どもがそれぞれ自分の同僚の小さな部屋に陣取って、三文ビスケットをかじりながらコップからお茶をすすったり、長いパイプで煙草の煙を吸い込みながら、カルタの札の配られるひまには、いついかなる時にもロシア人にとって避けることのできない、上流社会から出た何かの噂話に花を咲かせたり、何も話すことがないと、ファルコーネの作った記念像の馬のしっぽが何者かに切り落とされたといってかつがれたと伝えられている、さる司令官の永遠の逸話をむし返したりしながらヴィストにうち興じている時――要するに、この誰も彼もがひたむきに逸楽に耽っている時でさえ、アカーキイ・アカーキエウィッチはなんら娯楽などにうきみをやつそうとはしなかった。ついぞどこかの夜会で彼の姿を見かけたなどということのできる者は、誰一人なかった。心ゆくまで書きものをすると、彼は神様があすはどんな写しものを下さるだろうかと、翌日の日のことを今から楽しみに、にこにこほほえみながら寝につくのであった。このようにして、年に四百ルーブルの俸給にあまんじながら自分の運命に安んずることのできる人間の平和な生活は流れて行った。それでこの人生の行路においてひとり九等官のみならず、三等官、四等官、七等官、その他あらゆる文官、さては誰に忠告をするでもなく、誰から注意をうけるでもないような人たちにすら、あまねく降りかかるところの、あの様々な不幸さえなかったならば、おそらくこの平和な生活は彼の深い老境にいたるまで続いたことであろう。

 

わたしはたとえば,千羽鶴を折り続けるなどして糊口を凌ぐことができぬものかと願っている.以上,またそのうちに.いつか死ぬみなさんへ,ロシアより愛をこめて

明け方の肌寒い十月初め

台風が過ぎてからよい天気が続いているが,秋の長雨はまだ終わっていないのか,よくわからない.傘を差しながら出かけていくのは気が進まないけれど,暑いよりかは肌寒くて薄暗いくらいの気候のほうがいくぶんか気性に合っているように感じられる.加えて,どちらかというと薄着よりかコートやジャケットを羽織るほうが好きである.わたしにあまり書くべきことがあるとも思われないが,頭のなかでなにか糸口のようなものを掴んだ場合には,ともかく書き始めてみてもよいのかもしれない.みなさんブログを更新していらっしゃるようでもあるし.たぶん,性懲りもなく本のことになる.本は人間と違っておとなしく,おまけに頭がいいので,人間よりすぐれているのはたしかである.

 

教養のころからの友人で,いまは関西にいるひとから久しぶりに連絡をもらった.じきに東京へ戻る機会があるから,飲みに行こうということである.とかく嬉しいのは,彼がすぐにさいきん読んだ本の話を切り出してくれることだ.それでけっこう元気をもらった.そういえば,まえに話題にした木田元の自伝でも,ひとの思い出話のところで,とある年配の先生はいつでも,会って腰をかけるやいなや読んだ本のことについてとうとうと語り始め,そのジャンルの多種多様にわたることに驚いた,というようなくだりがあった.いまどき貴重なことであろうし,大切にしたい友人である.さてその本だが,フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』だ.

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

 

 感激した,とのことであった.わたしにとって印象深いのはその書き出しの部分が,受験生のときにくり返し読んでいた行方昭夫『解釈につよくなるための英文50』にとられており,邦訳の文庫を開くとよく頭に残っているフレーズが目に飛び込んできたことである.原文のほうを引いておこう.

   In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I’ve been turning over in my mind ever since.
   ‘Whenever you feel like criticizing any one,’ he told me, ‘just remember that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.’
   He didn’t say any more but we’ve always been unusually communicative in a reserved way, and I understood that he meant a great deal more than that. In consequence I’m inclined to reserve all judgments, a habit that has opened up many curious natures to me and also made me the victim of not a few veteran bores.

思いつきだが,いぜん持ちだした『風の歌を聴け』の冒頭の箇所は,こことずいぶん似通っていないだろうか.デビュー作は,フィッツジェラルドを意識して照応するように書き始められたのかもしれない. 

 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

もう一冊,わたしがいつぞや薦めていたカズオ・イシグロの『日の名残り』も読んでくれたとのことであった.これも初めて読んだのは受験生のころであったように記憶している.そのときはさほどなにも感じなかったのだけれど,時間を経て再読したときから好きな作品になった.いくどか読み返している.映画もよい.アンソニー・ホプキンスの悲しげな青い眼がよく合っていると思う.


The Remains Of The Day (1993) Trailer

 

読めないなりに辞書を引きつつ原書のページを繰ったりもしている.最後のほうから引用してみたい.ミス・ケントンとの再会ののち,夕暮れどきの海を望む桟橋のベンチで,横に座ってきた男とスティーブンスが交わす会話である.ところで,'first flush' は紅茶にもいうけれど,なにかイギリスらしさがあったりするのだろうか.

   ‘You must have been very attached to this Lord whatever. And it’s three
years since he passed away, you say? I can see you were very attached to
him, mate.’
   ‘Lord Darlington wasn’t a bad man. He wasn’t a bad man at all. And at least he had the privilege of being able to say at the end of his life that he made his own mistakes. His lordship was a courageous man. He chose a certain path in life, it proved to be a misguided one, but there, he chose it, he can say that at least. As for myself, I cannot even claim that. You see, I trusted. I trusted in his lordship’s wisdom. All those years I served him, I trusted I was doing something worthwhile. I can’t even say I made my own mistakes. Really - one has to ask oneself - what dignity is there in that?’
   ‘Now, look, mate, I’m not sure I follow everything you’re saying. But if you ask me, your attitude’s all wrong, see? Don’t keep looking back all the time, you’re bound to get depressed. And all right, you can’t do your job as well as you used to. But it’s the same for all of us, see? We’ve all got to put our feet up at some point. Look at me. Been happy as a lark since the day I retired. All right, so neither of us are exactly in our first flush of youth, but you’ve got to keep looking forward.’ And I believe it was then that he said: ‘You’ve got to enjoy yourself. The evening’s the best part of the day. You’ve done your day’s work. Now you can put your feet up and enjoy it. That’s how I look at it. Ask anybody, they’ll all tell you. The evening’s the best part of the day.’
   ‘I’m sure you’re quite correct,’ I said. ‘I’m so sorry, this is so unseemly . I
suspect I’m over-tired. I’ve been travelling rather a lot, you see.’

 

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

 

 いま活躍している作家の作品をなにか,と思って堀江敏幸の『雪沼とその周辺』を読んだ.時代遅れといわれてもしかたのないようなアナログな事物に惹かれるところのある向きにはおすすめしたい.連作短篇集であるが,そのなかの「送り火」を読み進めながら,この文章はどこかで見たことがある,と思ったところ,センター試験の小説で題材にされていたのであった.一段落を引く.見覚えのあるかたもいるだろう.

 触ってごらん,と言われるままに触れたその虫の皮はずいぶんやわらかく,しかも丈夫そうだった.使いこんだ白い鹿革の手袋の,ところどころ穴があいたふうの表面の匂いとかさつく音をこの書道教室に足を踏み入れた瞬間ふいに思い出し,匂いといっしょに,あのグロテスクな肌と糸の美しさの,驚くべきへだたりにも想いを馳せた.あたしは肌がつるつるさらさらして絹みたいだから絹江になったの,絹代ちゃんとこみたいに蚕を飼ってるからつけられた名前じゃないよ,と一文字だけ名前を共有していたともだちが突っかかるように言った台詞が,絹代さんの頭にまだこびりついている.生家の周辺を離れれば,養蚕なんてもう,ふつうの女の子には気味の悪いものでしかない時代に入っていたのだ.それなのに,墨の匂いを嗅いだとたん,かつてのおどろおどろしい記憶がなつかしさをともなう思い出にすりかわったのである.陽平さんにそれを話すと,墨はね,松を燃やして出てきたすすや,油を燃やしたあとのすすを,膠であわせたものでしょう,膠っていうやつが,ほら,もう,生き物の骨と皮の,うわずみだから,絹代さんが感じたことは,そのとおり,ただしい,と思いますよ,と真剣な顔で言うのだった.生きた文字は,その死んだものから,エネルギーをちょうだいしてる.重油とおなじ,深くて,怖い,厳しい連鎖だね.

 

 ここしばらく,ただでさえ収納が足りないのにかさが張るという理由で漫画を買うのを避けていたが(どうしても紙で欲しいので),『やがて君になる』の6巻はたのしみにしていたので発売してすぐに手に入れて読んだ.やはり期待を裏切らずおもしろい.画はきれいだし,お話はなかなか考えさせられるものがあるし,ときおり気楽な幕間もある.いま思えば,演技派(?)の人間がこれを好むのは当たり前であったか.この現実においてわたしではない何者かにならなくてはならない,という強迫の行き詰まりを迂回するひとつの手段は現実のメタに立つことで,この作品の場合にそれは演劇であった,と一面的にはいえるように思う.劇中劇というのは興味深い.

 

仄聞するところによるとなにやら depersonalize された同志が共感し合っているらしい,みなさんロカンタンが大好きなのですね.わたしは比較的フラットな気分で暮らしており,自我が安定しているように思えるが,それはそれで無の感じがより強かったり,と,なかなかうまくいかない.誰かみたいにお守りのごとく鞄に『嘔吐』を忍ばせておこうかしら.本がお守り,という感覚はとてもよくわかる.読みもしないものを何冊も持ち歩くのをやめられない.先日は彼におまえは原著を買って読めと言われたが,それも悪くないかもしれない.いや,もう本を買いたくはないのだけれども……. 

tranquilizer としての語学

すこしまえから,ほとんどすべて忘れたフランス語をやり直している.とにもかくにも,なにも余計なことを考える必要がなくて,かけた時間だけ成果が目に見えるもの,そういうものを無心にやっていようと思った.疲れたら積み上がっている本でもなんでも読めばよいのだ,そういうときなら,入ってくる活字を純粋に味わうことができるだろう.精神科でちんけな SSRI などもらって服んでいても仕方がない.フランス語はいいですよ,中世にフランス語から英語へ流れこんだ言葉は多いから,語彙にかんしては多少なりともラクができるし……(講談社学術文庫から翻訳が出ている,メルヴィン・ブラッグ『英語の冒険』はとてもおもしろいので薦めておく).

 

帰省したときに,テーブルの上に投げてあった木田元の『闇屋になりそこねた哲学者』を無聊にまかせて読み返していた.数年前に亡くなった現象学研究者のこの自伝は,戦後の混乱期から展けていく波乱に富んだ人生を伝えていておもしろい.そのなかで,大学での語学の勉強法に触れている箇所があるが,これがなかなかすさまじい.いま本が手元にないので,記憶を頼りに書くのを許していただきたいところだが,春先の数ヶ月間はひとつの言語を習得する期間と決め,来る日も来る日も根気よくずっとそればかりやって,ともかくも身につけてしまった,というのである.ハイデガー存在と時間』が読みたくて哲学科に来たのだからもちろん一年目はドイツ語だが,どうやらそれだけを読んでわかる類いの本ではないらしいということを悟り,二年目は古典ギリシア語,三年目はラテン語,さらに大学院に入ってフランス語を学んだ.木田さんに憑りついていた絶望感はこれによってかなり軽減され,精神が安定したという.哲学を始めるとまた絶望に襲われるようになった,とも書いていたが.

 

木田さんはたしか,似たような体験として坂口安吾にも軽く言及していたはずだ.こちらについては,ちょっと検索してやれば青空文庫がいろいろと出てくる.たとえば,『わが精神の周囲』から引こう.

私は二十一の時、神経衰弱になったことがあった。この時は、耳がきこえなくなり、筋肉まで弛緩して、野球のボールが十米と投げられず、一米のドブを飛びこすこともできなかった。
 この発病の原因がハッキリ記憶にない。たぶん、睡眠不足であったと思う。私は人間は四時間ねむればタクサンだという流説を信仰して、夜の十時にねむり、朝の二時に起きた。これを一年つづけているうちに、病気になったようである。自動車にはねられて、頭にヒヾができたような出来事もあったが、さのみ神経にも病まなかった。また、恋愛めいたものもあったが、全然幻想的なセンチメンタルなもので、この発病に関係があろうとは思われない。神経系統の病気は男女関係に原因するという人もあるが、真に発病の原因となるのは、男女関係の破綻が睡眠不足をもたらすからで、グウグウねむっている限りは、失恋しようと、神経にひびく筈はない。
 神経衰弱になってからは、むやみに妄想が起って、どうすることも出来ない。妄想さえ起らなければよいのであるから、なんでもよいから、解決のできる課題に没入すれば良いと思った。私は第一に数学を選んでやってみたが、師匠がなくては、本だけ読んでも、手の施しようがない。簡単に師匠について出来るのは語学であるから、フランス語、ラテン語サンスクリット等々、大いに手広くやりだした。要は興味の問題であり、興味の持続が病的に衰えているから、一つの対象のみに没入するということがムリである。飽いたら、別の語学をやる、というように、一日中、あれをやり、この辞書をひき、こっちの文法に没頭し、眠くなるまで、この戦争を持続する方法を用いるのである。この方法を用いて、私はついに病気を征服することに成功した。 

 

ところで,紙の辞書は書きこみつつ永らく使っているとだんだん愛着が湧いてきてたのしいものである.なにもする気が起きないときは,てきとうなページを開いて読んでいてもいい.三島の操るあの絢爛な語彙は,幼いころから国語辞典を読むことによって涵養されたものだと言われている.わたしは西脇順三郎が好きだが,斎藤兆史『英語達人列伝』によると,若いころに母語話者を驚嘆させるほどの英詩をものした彼は,中学生にして一冊の英和辞典のどこを訊かれても答えられないことはなかった,という.まあ,なにせわざわざラテン語で卒論を書いたひとなので,どんなとんでもない話があってもいいような気がしてしまうけれど.

 

おぼろげな記憶に依ってばかりでよくないが,憂鬱を振り払う手段のひとつは,誰も知らないような言語の,一生使うことのなさそうな単語を辞書でひたすら引くことだ,というようなことを書いていたのはエミール・シオランではなかったか(間違っていたら,誰か教えてください).それはともかく,ある程度のまともな辞書ならそうとうに細かな語彙まで載っているのがよいことで,別の語を引いているときにそれがふと目に入って気を惹いたりするのが(もちろん紙の話だが)愉快だったりする.このあいだは,英和に fortune cookie の項目があってすこし驚いた.おそらくその音の響きだけは誰でも(いやでも)知っているであろうが,まさか正式な語だとは(常識なのかしら).「(中華料理で出される)おみくじ入りクッキー.」(新英和中辞典)だそうである.このすぐあとで,アシモフの短篇集『黒後家蜘蛛の会2』を読んでいたところ,「省略なし」の話でフォーチュンクッキーが出てきておもしろかった.

 

さて,秋の仏検でも申し込むことにするか.終わり.

九月の初め,雨に冷えた日

なにをしていても現実感が乏しく,ただ底深い悲しみがすっかりわたしをひたしているような感じがしてだめなことが多い.堂々巡りの考えをいったん保留にしておいて,気力を絞ってとりあえずちゃんとした食事を摂り,小康の安寧において机に向かって筆を執るというのは,そんなに悪いことではないように思われる.頭のなかだけのことでなく,実地に手を動かすというひとつの作業を通して固着させていくこと,そして(ディスプレイにしろノートにしろ)白い地が文字で埋まっていくことの素朴なたのしみは,たぶん厳然としてある.どんなに甲斐のなさそうな考えも,ある量の文章になって,ページを蕩尽することができるというのは,けっこういいことである.まあ,書くまえにあったかもしれない甘美さのごときものは,えてして文字の形をとるにつれて卑近な現実感をまとっては失墜してゆくから,それはそれでひとつやるせないことなのだけれど(そうして生活をしなければならない,人間は習慣づけられた生活をして元気になるのだ).日記にはほとんど単純作業の愉悦と似通うところがあるのだが,ブログとなるともうすこし思考の強度が必要になる.

 

どうやら夏風邪をこじらせたらしい.わたしは蒸し暑いのも苦手だし,冷房や扇風機にさらされるのもそんなに得意でない.もともとの予定をキャンセルさせてもらって,しばらく臥せっていた.眠ることだけは得意なので,ずっと寝ていられる.ときおり降りしきる強い雨や雷鳴の音を,ぼんやりした意識で聞いていたような気がする.なんでも関西の実家に帰った友人のところに数人が集ってバーベキューをしたり酒を飲んだり花火を見たりしているらしいが,翻ってわたしのしたことといえば枕頭にあった『風の歌を聴け』をぱらぱら読んでいたくらいのものだ.まあ,夏の終わりにはふさわしい本ではないかと思うし,それはそれでそんなに悪くないのだけれど.いつでも,ただ活字を読んでいるだけでもたのしいというような純粋な状態でいたい.とても有名だが,書き出しを引いておこう.

「完璧な文章などといったものは存在しない.完璧な絶望が存在しないようにね.」

 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った.僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが,少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった.完璧な文章なんて存在しない,と.

 しかし,それでもやはり何かを書くという段になると,いつも絶望的な気分に襲われることになった.僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ.例えば象について何かが書けたとしても,象使いについては 何も書けないかもしれない.そういうことだ.

 8年間,僕はそうしたジレンマを抱き続けた.――8年間.長い歳月だ.

 もちろん,あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り,年老いることはそれほどの苦痛ではない.これは一般論だ.

 20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと,僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた.おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け,欺かれ,誤解され,また同時に多くの不思議な体験もした.様々な人間がやってきて僕に語りかけ,まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ,そして二度と戻ってはこなかった.僕はその間じっと口を閉ざし,何も語らなかった.そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた.

 

 


映画『ペンギン・ハイウェイ』 予告2

さて,別のこと.先日は話題の『ペンギン・ハイウェイ』を観てきた.とくに森見登美彦は好きなわけではなく,宇多田ヒカルの曲が聴きたかったというのが大きいのだが.なんだか都合のいい女がふたりも出てくるのがよくわからなかったし,二時間あるなかで筋も中だるみしている感じが否めなかったのだが,それでも最後の見どころはおもしろかったので,けっきょくはよしとなっている.やはりアニメーションにおいて視覚を愉しませる力はとても強い,ほとんど暴力といってもいいかもしれない.

 

本作であるが,たぶんいろいろなオマージュが仕掛けられている.アオヤマ君がスズキ君に向かって口にする「スタニスワフ症候群」や,草原に浮かぶ謎の水球を〈海〉と呼んで研究するあたりはレムの『ソラリス』であろう(タルコフスキーの映画を家で観てうとうとせずに通すのは,わたしにはなかなか難しい).アオヤマ君とお姉さんがチェスを指す「海辺のカフェ」は,そのまま『海辺のカフカ』であろう.それから,アオヤマ君とウチダ君が街を流れる川の源の突き止めようとして,最後にそれが街をぐるっと循環していることを発見するが,そのことを記した手書きの地図は,『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の,あの壁に囲われた印象的な「世界の終わり」の地図と重なるようにわたしには思えた(新潮文庫のものがいい).これには一角獣も出てくるし.そういうわけなので,ちゃんと小説のほうも読んで考えようと思い立ったのだが,これがまったく先へページを繰ろうという気にならなくてダメなのだ.一般的に,読みたくない本よりは読みたい本を読んだほうがいい,よってこの件は終わり.最後に宮沢賢治の『詩ノート』より,関係するようなしないような一篇を引いておく.

青ぞらのはてのはて
水素さへあまりに稀薄な気圏の上に
「わたくしは世界一切である
世界は移ろふ青い夢の影である」
などこのやうなことすらも
あまりに重くて考へられぬ
永久で透明な生物の群が棲む

 

 

また違う話.八月の終わりに家族で鳥取と島根へ旅行をしてきた.わたしは案外まめに(人間以外のものの)写真を撮る性質であるが,あとでその雑多なカメラロールをきちんと整頓してアルバムを作ったりできるほどにまめではなく,けっきょくクラウド上に堆く積もった大量の写真は下層のほうから忘れ去られていく.さしてあとで使うわけでもないのに,必ず同じものを数枚は撮ってよいものを選ぼうとする癖が乱脈さをより増しているのは間違いがない.それでも,今回は両親に頼まれて写真をてきとうにまとめて送ったので,だいぶすっきりした.一枚貼っておこう.羽田から鳥取コナン空港(すごい名前)へ向かう機内から富士山と富士五湖がきれいに見渡せた.窓側でないとなかなかこうはいかない.

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この旅行のあいだに,宿でさくらももこの訃報に接することとなった.わたしは昔から『ちびまる子ちゃん』のファンなので,なんとも残念な気持ちである(ちなみに,友人から同じ作者による『ちびしかくちゃん』というのを薦められて読んだが,強烈でした).いま,アマゾンのプライムビデオでアニメの第一期を観ることができるが,原作のアクの強いエピソードがそのまま見られてたいへんおもしろい.それにしても文通とかっていいなあと思いませんか.文通だよ文通,昭和だなあ.もう平成も終わろうというのに.わたしも文通とは言わないまでも長いメールのやりとりなどがしたい.誰かやってくれませんか.

 

追記.旅先で購った本を紹介しようと思っていたのに忘れていた.

 一冊目.鳥取県北西端から日本海へ伸びる弓ヶ浜半島のそのまた先端,境港市水木しげるロードにて.『高野聖』と『黒猫』のコミカライズも入っている.

 二冊目.四季折々に美しい姿をみせる日本庭園で有名であるらしい島根県足立美術館にて.横山大観もよかったけれど,個人的に榊原蘇峰がとても気に入ったので,この小さな図録を.

足立美術館ミュージアムショップ / 榊原紫峰

夢想するユニバーサル横メルカトル

 しかし,たとえ私たちの過去が,現在の行動の必要によって制止されるので,私たちにほとんどまったくかくされているとしても,私たちが有効な行動の関心を去って,いわば夢想の生活にもどるたびごとに,それは再び識域を超える力を見いだすだろう.(中略)ある種の夢や夢遊状態における記憶力の「高揚」は,ごく普通に見られる事実である.この場合,消滅したと思っていた記憶が,驚くほど正確に再び現われてくる.私たちは,完全に忘れていた幼少時の光景を,こと細かにすべてまざまざと再び体験する.習ったことさえもはやおぼえていない言葉を語ったりする.(中略)

 自己の生活を生きるかわりに夢みるような人間存在は,おそらくそのようにして過去の生涯の数限りない詳細な事情を,あらゆる瞬間にその視界から洩らさないであろう.また反対に,この記憶力を,その全所産とともに斥ける人は,その生活を真に表象するかわりに,たえず演じているであろう.彼は意識をもつ自動人形のようなものであり,刺激を適切な反応へと受けつぐ有用な習慣の傾向に従うだろう.第一の人は特殊なものはおろか,個別的なものからさえも,金輪際はなれることはあるまい.彼は各々のイマージュに時間における日付と空間における場所をそのままあたえながら,そのイマージュが他と異なっている点を見て,似ている点を見ないであろう.

 

ベルクソン物質と記憶』,田島節夫訳

 

本を読んでいると,ときとして悦ばしき一節に出会うものだが,うえの引用もそうで,とりあえず引いてしまった.迫害される(いつもの一人相撲かもしれないけれど)側の人間としては,よくぞ言ってくれたと膝を叩きたくなるような言葉を日常的に服用しなければ生きながらえることは叶わないのである.わたしはだいたいいつも余計なことをばかり考えて,つまりは夢みて,いる.わたしは先のことを考えるのが不得手だ,だってそれは真にわからないものだから.わたしは過ぎ去ったもののほうにずっと惹かれるところが多いが,そもそも書くということがその性向を明らかにしてしまっているように思う.思考は容易にあちこちへ飛び,どれも語りにくいゆえにいつ立ち消えるかわからぬ儚いものだから,ネタになりそうな題が浮かんだら素早く輪郭をスケッチせねばならない(話しておもしろがってくれるのはけったいな友人だけである).こういうのはとくに意思にかかわりなくふっと始まるものだから,現実の生活のほうはどうしても中断されがちだ.例えばいま,なにかを調べようと思い立ち,ブラウザを開いてキーボードへ手を置く,そのあいだの数秒にも満たない時間に忍び込むまったく別の思考が,検索窓に打ち込もうとしていたワードを忘れさせる.これは厄介で,別のことは考えまい,と考えることもたいてい同じ作用をもたらすのだ.生きるためになされるべき行為はそれと意識されることなく,ごく自然になされねばならない.わたしは機械になりきって,すぐれてもの的に動かねばならない.考えたら,身動きはとれない.

 

 今朝,私は今日が日曜日なのを忘れていた.外出して,いつものように通りを歩いた.『ウジェニー・グランデ』を持って行った.それから,公園の鉄柵を開けようとしたときに,とつぜん何かが私に合図をしているような気がした.公園は人っ子一人おらず,むき出しだった.しかし……どう言ったらいいだろう? 普段と様子が違って,公園は私に微笑みかけていた.私はしばし鉄柵によりかかっていたが,それからだしぬけに,今日は日曜日だと悟った.目の前の木々や芝生の上には,軽い微笑みのようなものが浮かんでいた.とてもそれは描写できないが,せめて非常な早口でこんなふうに発音してみるべきだったろう,「ここは公園だ,冬,日曜日の朝だ」と.

 私は鉄柵から手を放した.市民たちの住む家々や街の方を振り返って,小声で言った,「日曜日だ」.

このまえ結びに長く引いた箇所のすこしあと,『嘔吐』の一節である.読み返してみると,実にいい場面だ.件の友人はここに対する感度が異様に高かった(たぶん,彼もそのうちことの消息について筆を執るだろう.それにしても,あれだけ舐めるように読んでくれるなら,こちらも贈った甲斐があるというものだ).わたしはまだ,自分に向けて物語りだすほど人格が遊離してはいないはずだ,と,こう書いていてだんだん不安になってくる.「あの」感覚はもしかして「それ」なのか? そもそも執拗に日記をつけるというのはそういうことなのかしら…….なるべく負担にならないよう,あまり構成を気にせず淡々とつづるよう心掛けているのだが. それにしても,わたしがほんのすこしでもとりこぼしたくないと願うすべての過去は,わたしの筆を容赦なくすり抜けては消えていく.往々にして,書かれたものは,残したかったそれではまったくない.

無数の死んでしまった話に対して,それでも一つか二つは生きた話がある.この生きた話をすり減らすのが怖いので,あまり頻繁ではないけれども,それでも私はたまに用心深くそれを思い起こすことがある.私はその一つを拾い上げて,背景や,登場人物や,彼らの態度などを思い出す.だがとつぜん中止する.それが摩滅するのを感じたためだ.私は感覚のつながりの下に,一つの言葉があらわれるのを見たのである.その言葉が,やがて私の好きなさまざまなイメージに取って代わるに違いない.私は直ちに中止して,あわてて別なことを考え始める.思い出を疲労させたくないのだ.しかし無駄である.次に思い出すときには,多くの部分が凍りついているだろう.

 

友人に(といっても,数回会っただけだが)歌舞伎町でバーテンダーのアルバイトをしているひとがいて,彼はベルクソンをやっている.『物質と記憶』を薦めてくれたのも彼だ.まえに一度,入り組んだ怪しげな細い路地を抜けつつ飲みに行ったことがあった.アイスピックで大きな氷が砕かれるのをおそらく初めて目の当たりにしたのであった(そういえば,まったく別件だが,このあいだは氷がナイフですーっと切られるのを見た,あれはけっこう感動的だ).歌舞伎町では本と映画の話ができれば通用するからおまえは大丈夫だよ,などと言われたが,それがほんとうなのかはいまもってよくわからない.もっとも,足を運ばないから確かめようもないのだが.ただ,あの日となりに座っていた初老の男性が異様に本に詳しかったのはよく印象に残っている.白水社からベルクソンの個人完訳全集が出たという話題が出ると,そのかたは mémoire と souvenir の訳語の選択がいささか不満だ,というようなことを話していたように記憶している.

 

先日,朝早くに目を覚まして,コンビニへ飲み物を買いに出かけた.よく晴れていたが,まったく暑くはなく,むしろ涼しい.空気も乾いていて快い.道へ出ると,強い風が立った.瞬間,秋が来たのだと直感した.わたしはその匂いを知っていた.ある匂いを想起することは,ある程度は可能だろう.このあいだ,驟雨が過ぎたあとの濡れた街路の匂いを,わたしはおぼろげに思い出すことができる.しかし,一年越しの季節の匂いはすっかり忘れ去られている.秋風はとつぜんに,否応なしに,わたしの記憶の深層を揺り動かしてそこへ光を当てる.この嗅覚に昔のなにがしかの体験が結びついている,というようなことがあるとプルーストっぽいのだが,残念ながらそういったエピソードはないようだ.

 

失われた時を求めて』は,一応もってはいる.かつて「スワン家のほうへ」の途中で挫折していらい,部屋のインテリアに成り下がったけれど.プルーストベルクソンに影響を受け,『嘔吐』にもまた,それらふたりの影が色濃く残っている.そういうわけで,関心が近い領域へ向きつつあるいま,そろそろ再チャレンジしてもよいような気がしている.ところで,これはけっこういい話だと(かってに)思っているのだが,わたしのもっている井上究一郎訳のちくま文庫全十巻は,むかしの恋人に誕生日プレゼントとして贈られたものである(こう書いていると,ちゃんと当時読むべきであったと感じる).「こういうのは,古い訳のほうがいいでしょう」というようなことを彼女が言っていた憶えがある.たしかに,決して読みやすくはないが,格調高い訳文であるといえるだろう.たぶん六千ページ近くあるけれど…….より詳らかに思い出してみたいのだが,当時はまだまじめに日記をつけておらず,手がかりがない.ともかく,souvenir を主題とするこの作品,とりわけわたしがまさに所有するその十巻セットは,わたしにとっての,過去のある一場面にまつわる un souvenir になったというわけである.

 

ふと思い出したが,プルーストの大作が小道具として登場する映画でわたしが大好きなのが,(『気狂いピエロ』は措くとして)岩井俊二監督の『Love Letter』である.これはほんとうにいい作品だと思うのでみなさんに薦めておきたい.しんしんと雪の降り積むなかの,静謐な冒頭のシーンは有名であろうと思う.

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どうでもいいこと.「秋波」という語がある.手元の明鏡国語辞典によると,「こびを含んだ色っぽい目つき」のことで,「秋波を送る」などと使う.「もと,秋の澄みきった波の意から美人の清らかに澄んだ目もとをいう」らしい.わたしは,こういう自分の気に入る,あるいは気にかかる語を見つけてはストックするのがひとつのたのしみである.

 

タイトルはとある小説のもじりだが,別になにか意味があるわけではない.ただ語感で決めただけである.終わり.

熊野純彦『メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』

 

 内容紹介:

哲学者は、客観世界や言葉として認識される以前の「ありのままの世界」を見つめなおし、世界をめぐる経験を言葉に紡ごうと試みる。それは詩人の営為と似てなくはないか? 『知覚の現象学』を元に詩的な言語が可能となるような経験とは何か、その成り立ちを問う。


 わたしは熊野さんの書く日本語がすきで,ときおり著書を手にとるのであるが,今回この小さな本を図書館で借りてきたのは,上のリンクの選書にあたって立てられた軸の最後が「詩と思想の交錯へ」というものだったことによっている.この興味深い問題設定にかんして熊野さんの考えていたことを,ほんの一端ではあろうけれども,読んでみたかった.漢字をひらがなへ開く箇所が多いというのはよく言われることであるが,じっさい,やわらかな印象を与える抒情的な文体は,本書の副題の問いに分け入るだけの力をもっているのではないか,という期待も否みがたくあった.肝心のところについてはたぶん引用しかしないけれども,それは魅力あるテクストそのものに対する敬意の表明である,と懶惰の言い訳をしておく.

 

 一書はランボーを引いて始まっている.

また見つけたぞ!        Elle est retrouvée !
—なにを?—永遠を.      — Quoi ? — l'Éternité.
それは,太陽と混じりあう    C'est la mer mêlée
海だ.             Au soleil.

ひとの生はそれぞれにかぎりのあるものなのだから,永遠とはなにかを,ほんとうはだれも知らない.ひとりも見たことがないものについて,ただことばがある.ことばだけはあるのだから,永遠とはどのようなものであるのかを,ひとは問うことができる.答えのない問いに,詩人は,けれどもひとことで応えている.海と番う太陽こそが永遠なのだ.

詩のことばは見えないものを見えるようにする.詩は世界の風景を変貌させ,世界をめぐる経験を一新する.そうしたことばこそが詩であるとするならば,詩のことばは,哲学のことばとかよいあうものではないだろうか.哲学もまた,見えないものを見ようとするこころみであり,世界を見つめなおし,世界をめぐる経験に新たな光を当てようとするいとなみであるからだ.

世界とはなにか.経験とはなにか.世界を経験するとは,なにか.こうした問いに,一挙に回答が与えられることはない.問いは,だから,繰りかえし問われる.反復して問いが問われることそのものが,ある意味では問いに対する答えとなっている.詩は答えのない問いに答えを与え,その答えそのものが,やがて問いの反復となる.哲学もまた問うことそのものであり,問いのまえで立ちつくし,繰りかえし問いつづけるこころみにほかならない.哲学的な思考のいとなみは,そのかぎりで,詩人がことばを探しもとめる場面にほど近いものとなる.世界と,世界をめぐる経験のすべてが,そこに結晶しているような一語を語りだすために,いくえにも錯綜したことばのすじみちを,あらためて辿りなおさなければならない.そのとき哲学的思考が抱えこむことになる困難は,日常の風景を反転させて,世界の相貌を一変させる一行の詩句を探しあぐねる詩人の困惑と,その質において,ほとんどひとしいものとなる.

 

日常の言葉をすり抜けてゆく経験をめぐる思考,それがなお紡ぎだす言葉の成り立ちをめざして,本論では,主に『知覚の現象学』を繙いていくことになる.非常におもしろいことに,本書で紹介されるメルロ=ポンティの身体論の一部が(文字通り)身にしみるようにわかったのである.そうざらにある体験ではなかろうから,書き残しておきたい(というか,今回はただそれが書きたかっただけだ).なぜそういうことが起きたのか.メルロ=ポンティは,わたしがまさにそれを生き,アクチュアルに経験している身体を「現象的身体」と呼び,これとたんなる物体としての客観的な身体との差異を問題にするが,それが際だってあらわれるケースとして,通常の状態からの逸脱,典型的には身体の「欠損」に注目する.有名な(もしかすると『MGSV:THE PHANTOM PAIN』が浮かぶかたもおられるかもしれないが)「幻影肢」の現象である.手や足の切断を余儀なくされたひとたちのなかには,術後に回復してからも,あたかも欠損部位が存在するかのように感じ,そこに痛みを覚えたりするケースがあるのだ.そして実は,わたしは先日,不注意から左手親指の爪の先端を,いくらか肉ごと欠く怪我をしてしまったのであった.

 

幻影肢において,「身体は二重のしかたで経験されている」.

患者は,「現在的な身体 le corps actuel」においては手足が欠損していることを知っており,他方で,「習慣的な身体 le corps habituel」にあってその欠損を否認しているのだ.

『知覚の現象学』が引かれているのを,孫引きだが,ここにも示す.

私たちに手足の切断や欠損をみとめようとさせないものは,物理的であるとともに間人間的なものである世界に巻きこまれている「私」であり,その「私」こそが,欠損や切断にもかかわらず,じぶんの世界に向かおうとしているのであって,そのかぎりで切断や欠損を,だんじてみとめまいとしているのである.欠損の拒否とは,私たちが一箇の世界に内属していることのうらがえしであるにすぎない.私たちを,じぶんの仕事,関心,状況,じぶんが慣れしたしんだ地平へと投げこむ自然な運動に対立するものを,暗黙のうちに否定しているのである.たとえば,腕の幻影肢をもつとは,その腕だけがなしうる行動のすべてに対してなお開かれていようとすることであり,切断のまえに有していた実践的な領野を,それでも保持しようとすることなのである. 

 

四肢の切断に引き較べれば,爪はゆっくりにせよいずれ伸びてきてほぼ元通りになるのだし,痕も残らないでしょうと伝えられたのだから,たいして大げさなことではないのだが,爪は指の微妙な力の入れ加減を制御するために不可欠なものであり,誰しも知るように指先の感覚は鋭敏である.怪我をしてから一週間もすれば,もう痛みなどはまったくなくなったので包帯をとってしまおうとしたが,まさに患部が見えようというとき,えもいわれぬ悪寒が走り,伸びきるまではそのままにしようと決めたのだった(いま,思い出しながらこう書いていてもいやな感じがする).

 

わたしは,「習慣的な身体 le corps habituel」において爪の欠損を「だんじてみとめまいと」する.いわば幻影として,爪は依然としてそこにあり,欠けていない.患部に包帯を巻き,左手を自然なしかたで宙に浮べているかぎりでは,「現在的な身体 le corps actuel」においてもそうである.しかしながら,いったん患部を直接に目にしてしまえば,あるいはついうっかり親指を机や壁に押しつけてしまえば,爪は「現在的な身体」において欠けてしまう.二重の身体のあいだの乖離が一挙に起こり,前者ならば脂汗のにじみ出るような思いをし,後者ならばあの気持ちの悪い感覚が指先を走ることになる.

 

わたしはまさに怪我をしたその十数分後,病院の駐車場で血管迷走神経反射を起こして倒れ込み,歩けなくなってしまった.医学をほんのわずかすらも学んだことがないから極めていい加減なことを書くが,あの目まいを引き起こした原因の一端は,(もちろん血もぼたぼたと流したけれども)応急処置を終えて冷静になってのちに,身体の欠損をありありと意識することからくる強烈な違和感および恐怖感が荷っていたように思えてならない.わたしは左手親指へ幾重かに被せたガーゼをおさえるとき,その先端にわずかあるであろう「へこみ」を右手が触覚してしまうことをなにより恐れていた(ここまで一気に筆が走ったが,もしかすると完全に的を外しているのかもしれないという疑念は晴れない.識者のかたは教えてください).はてさて,以上のことは怪我の功名と呼べるような類いのものなのであろうか.

 

いささか性急であるが,結びへ移ってしまおう.

 詩のことばは,いわば永遠の現在において紡がれる.詩人がことばを撚りあげ,詩句を編みあげようとするとき,通常の意味での時間は流れていない.詩のことばは瞬間をとどめ,現在を永遠なものとして語りだすことができるのである.哲学のことばはこれに対して,あくまで時間のなかで紡ぎだされるほかはない.哲学者はいつでも,時間のなかで永遠に追いつこうとする.経験の総体を賭け金として,時間を永遠の模像として語りだそうとするのである.それは,だから,およそ完結することのありえないこころみとなることだろう.

 哲学者は詩人であろうとして,しかし最終的には詩人そのものであることはできない.だが哲学的思考の,その宿命は,哲学が知を愛すること(フィロソフィア)でありながら,哲学者自身はけっして知者ではないことの,ひとつのあらわれではないだろうか.だからこそ哲学的な思考は,不断に問いを繰りかえし,おなじ場所から絶えず再開されることになるのである.

 

台風は過ぎ去っていったのだろうか,外で低くうなっていた風も凪いだようだ.代わりに鈴虫の鳴く高く怜悧な声が聞こえてくる.枕に頭を横たえ,ぼーっとしてふと思考が止むのを自ら意識すると,室内で静かに空気をかきまぜる扇風機の音と,窓の外から透明に響く虫のそれとが,まったくの無音よりもむしろ世界を森閑に感じさせる.わたしはこういうときにほんの束の間,幸せだと思う.

道化を演ること,サルトル『嘔吐』再読

 部屋を出て,約束通りに喫茶店へ向かった.タクシーに向かって右手を挙げ,煙草に火を点け歩いた.それからタクシーなど見てはいなかったが,それはまるで普通に客を乗せるように,私の前に停車してドアを開けた.少し面食らったが,自分が手を挙げたのだから,この状況は仕方なかった.そのまま車に乗り込み,大まかな行き先を告げた.運転手は私の言葉を聞くと,バックミラー越しにこちらを見,本当にそこでいいのかと,しつこく念を押した.それは多分,目的地が酷く近いためだった.私はそれでいいのだと,何度も言わなければならなかった.運転手は何かを呟いたが,諦めたのか,やがてアクセルを踏んだ.

 運転手は不機嫌な態度を変えようとしなかった.私は喫茶店の近くに病院があったのを思い出し,「子供が生まれそうなのです」と言った.運転手は一瞬私を見たが,しかし彼の態度は変わることはなかった.私はそれから,早産であることや,心の準備ができていないことを,にこやかに話した.しかし運転手は,まるで汚いものでも見るように,私の顔を見ていた.

 

中村文則『遮光』

 

先日の都内某所の集まりにて,友人とわたしと,それから初対面のかたとですこし話をすることがあった.わたしにとってはさして関心のある話題ではなかったから,あいまいにうなずいたり生返事をしたりしながら,他のふたりのあいだの空間へ見るともなく視線を泳がせ,ときおり思い出したように右手のコップに口をつけた.意外なことに友人のほうは興味をそそられたようであって,相手の説明に明朗な声で応じ,会話は弾んでいた.自分自身のことも適宜もちだしつつ,うまく話を引きだしているようであった.まあ,彼の専門になにほどかは関連しそうな領野のことでもあるしな,と思いながら,わたしは蛇蝎のごとくきらいなグローバルという単語がとうとう発せられるのを聞き,いよいよどうでもよくなっていった.

 

打ち解けた雰囲気で互いの情報を交換し,会話は幕引きとなった.友人はとつぜん「反省会をするぞ」とわたしに耳打ちすると,隅のほうへと歩いていった.訝しがりながらついていくと,彼は煙草に火をつけて吸い込み,ため息のように長く煙を吐き出して目を伏せる.わたしが「ああいうの興味あるんだな」と言うと,さきほどより思いきりトーンの下がった声色で,平然と「あるわけないだろ」と言い放って苦笑いするので,いささか面食らってしまったのであった.

 

まったくたいしたピエロだと感服してしまう.まともそうな人間を過剰ぎみの演技で欺くこと,それに一種の愉悦を覚えることは,わからなくもないが,わたしにはどうしても徒労に思われてしまってうまくできそうにない(そういうタイプだからこういう場でいろいろ書き殴るのだ).しかしながら,あれができればいくぶんかは社会生活がうまく送れるようになるだろうから,すこしずつ見習わねばなるまい.彼らの特徴のひとつとして,大まじめな顔でとんでもなく大胆な嘘が吐けるというのがあり,とかく状況を都合よく運ぶのに長けているから,羨ましいかぎりである.ぜったいにばれるだろうと(わたしなどは)思ってしまう嘘に,ひとは案外騙されるようなのだ.

 

ちょっと余談.わたしが初めて会ったとき,まるで『禁色』の南悠一のようだと(過去の記事にて)評したひとがいたが,彼も来ていて,(驚くべきことに)どうやらわたしの見立てはさほど外れてもいなかったようだと確かめることに相成った.というのは,ほぼ不能(らしい)で美青年の彼は,適当にそこらの女を引っかけては三島由紀夫が市谷駐屯地を占拠して自決した事件のことについてとうとうと話し,相手の顔にしだいに広がる困惑の表情をたのしんでいたらしいのである.そうとうに面の皮が厚くていい性格をしているなと思わされる.余談終わり.

 

上に引いた『遮光』の冒頭は,どうも座りが悪く奇矯な印象を与えてくる,すくなくともある種のおかしなひとでないと書けそうにない一節だ.わたしと友人とは,以前ここの「子供が生まれそうなのです」のところでげらげら笑っていた.この素っ頓狂な虚言は,彼にとってはほぼ完全に共鳴してしまう一言のようであった.ところで,中村文則サルトルの『嘔吐』が好きなようで,『遮光』の扉にもある箇所を引いている(白井浩司訳である).

一挙に私は人間の外観を失った.彼らは,非常に人間的なこの部屋から,後ずさりして逃げて行った一匹の蟹を見たのだ.

サルトルが唐突に書きつける「蟹」というワードは,メスカリン注射による幻覚の影響があるといわれるが,ユーモラスであると同時になにか暗喩をはらむようでいてたいへんおもしろい.友人が読みたがっていたがまだもっていないそうなので,このたびプレゼントすることにした.たのしんでいただければ幸いである.

 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 内容紹介:

20世紀フランス文学の金字塔、60年ぶりの完全新訳!
港町ブーヴィル。ロカンタンを突然襲う吐き気の意味とは……
一冊の日記に綴られた孤独な男のモノローグ。

 

わたしが初めて『嘔吐』を知ったのは,たぶん,物好きなひとは知っている,アンサイクロペディアのこのページであったように思う.

https://goo.gl/pU4O

 「秀逸な記事」のひとつである「読書感想文に書くと親呼び出しにされる図書一覧」であるが,見てもらえばわかるように,なぜかいまは『嘔吐』が入っていない(記憶にあった谷崎の『春琴抄』と『痴人の愛』,埴谷雄高の『死靈』もなくなっている).「安全」の判定がなされたのであろうか,それはよいことなのか悪いことなのか.おぼろげに憶えているかぎりでは,冗談めかした雰囲気で冷評されていたようが気がするのだが,個人的には実に魅惑的な文章の連なる作品であると思う.

 

『嘔吐』は真正の哲学者の手になる稀有な小説であり,サルトルはこうした文学的に薫り立つ文体をも高度に操ることができたのだなあと感心させられる.他のあらゆる問題の手前にある問題,その得体の知れないなにかにひたひたと精神を冒されてゆくひとりの男の手記の形をとる(とらざるを得ないだろう).さいきん身の周りでよく話題に上る一書なので,このあいだからちまちまと読み返している.学部のころに読んだときは,やや苦しみながら無理に読み通した感があったが,今回はゆっくりと進むにつれて身に沁みとおるような箇所がいくつも散りばめられていることを発見する.わたしは自身が時とともに変わっていくことなどまったく実感することができないが,本を読むことを通じてそれが感じとられることもあるようだ.ある種の語りにくいことがらを語ろうとする言葉にたいする感受性の変化,そういったものを知ることも読書の愉しみのひとつであるらしい.もっとも,『嘔吐』がおもしろくなることを素直に喜んでいいのかはまた微妙なところであるが(しかし,この喜びは他のなにものにも代えがたい).

 

まず,書き出しからしてわたしにとってはほとんど感動的である(鈴木道彦訳を用いる).

一番いいのは,その日その日の出来事を書くことだろう.はっきり見極めるために日記をつけること.たとえ何でもないようでも,微妙なニュアンスや小さな事実を落とさないこと,とりわけそれを分類すること.このテーブル,通り,人びと,刻みタバコ入れが,どんなふうに見えるのかを言わなければならない.なぜなら変化したのはそれだからだ.この変化の範囲と性質を,正確に決定する必要がある.

 

さて,どこかを引いて終えたいが,なかなかひとつに決めがたく,ページを繰っていると目移りしてしまう.まえのほうから,長くとることにしよう.

 しかし選ばなければならない.生きるか,物語るかだ.たとえば私がハンブルクで,あのエルナという信用のならない女,向こうも私のことを怖がっていた女と同棲していたとき,私は実に奇妙な生活をしていた.しかし私はその内部にいたのであって,それを考えていたわけではない.そうしたある晩,ザンクト・パウリの小さなカフェで,彼女が手洗いに行くために私のそばを離れたことがある.私は独りきりで席にいたが,そのカフェには蓄音器があって,「青空」がかかっていた.そのとき私は,下船してから起こったことを自分に物語り始めた.私はこう自分につぶやいた,「三日目の晩,《青い洞窟》と呼ばれるダンス・ホールに入って行ったときに,私は半ば酔っぱらった大柄な女に目をとめた.それこそ,いま私が『青空』を聴きながら待っている女であり,間もなく戻って来て私の右側に座り,私の首に両腕をまきつける女である」と.そのとき私は,自分が冒険を体験していることを激しく感じた.けれどもエルナが戻って来て私の横に座り,私の首に両腕をまきつけると,私はなぜかよく分からないが彼女が厭わしくなった.いまはその理由が理解できる.それはふたたび生きることを再開しなければならず,冒険の印象が消えてしまったからなのだ. 

 人が生きているときには,何も起こらない.舞台装置が変わり,人びとが出たり入ったりする.それだけだ.絶対に発端のあった試しはない.日々は何の理由もなく日々につけ加えられる.これは終わることのない単調な足し算だ.ときどき,部分的な合計をして,こうつぶやく,旅を始めてから三年になる,ブーヴィルに来て三年だ,と.結末というものもない.一人の女,一人の友人,一つの町との訣別が,たった一度ですむことは絶対にない.それに,すべてが互いに似ているのだ.上海,モスクワ,アルジェは,二週間もいるとどれもこれも同じになる.ときおり――それもごく稀にだが――現在の位置を確認して,自分は一人の女と同棲しているとか,厄介な話に巻きこまれた,などと気づくことがある.それもほんの一瞬のことだ.そのあとには行列が再開し,何時間,何日という足し算を人はふたたびやり始める.月曜,火曜,水曜.四月,五月,六月.一九二四年,一九二五年,一九二六年.