umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

古井由吉『槿』

 

 
槿 (講談社文芸文庫)

槿 (講談社文芸文庫)

 

 

 古井由吉という名前を初めて聞いたのは(恥ずかしながら最近のことで),数か月前に友人から新潮文庫の『杳子・妻隠』(引用はこれによる)を手渡されたときである.古井はこの『杳子』によって1971年の芥川賞を受け,今や日本文壇の長老となった.さっそく読んでみて,驚くほかはなかった.率直に言って,こんな文体に触れたことがなかったのである.筋を簡単にたどるだけならどうということはない,すこし神経症の気のある女と,それを放っておくことのできない男との,青年期の恋愛の物語だ.要約すればすべて消えてなくなってしまうような,そういう類のお話.しかしながら,人間の精神的な部分について,正常と異常とのあわいを揺れ動くさまをこんなに見事に描くことができるのかと,妙に感心してしまったのを憶えている.

 

なにげない生活の一場面にどこかおかしな女がひとり入り込んできて,そこにゆくりなく日常の陥穽は口を開き,世界はその場面を軸として再構成される.不思議にふるまうのは人間だけではなく,その場の情景すべてが奇妙な印象を与えるようになってしまう.この小説において精神の違和を描きとっているのは,そのひとの外面の客観的な描写でも,そのひと自身の内面の告白というわけでもない.どこか親近性のある,けれども透明な第三者との交流を通して,彼の見ている世界が彼女を中心にすべて裏返ってしまう,そうした方法によって可能になっているものなのだと思う.

 

杳子の最後の台詞が印象に残っている.彼女は「健康人」である姉の,「いつだって,なにもかも,おんなじ」なふるまいに打ちのめされ,とうとうSに向かってこう言い放つ.

「明日,病院に行きます.入院しなくても済みそう.そのつもりになれば,健康になるなんて簡単なことよ.でも,薬を呑まされるのは,口惜しいわ……」

 

前置きが長くなってしまった,本題は『槿』である(この字はムクゲであるが,アサガオと読ませる).『杳子』より13年後,古井45歳の作で,谷崎賞作品であり,昭和文学のなかでも傑作のひとつに数えられるらしい.わたしは河出書房新社の『古井由吉自撰作品 五』(引用はこれによる)でこれを読んだが,この巻の解説は保坂和志が担当しており,それは次のような一文で書き出される.

古井由吉の書いたものを解説するとは,解説する自分,さらには解説という行為そのものが馬鹿みたいな気分にどんどん浸食される.

身も蓋もない書き方であるが,(それなりに苦労しつつ)『槿』を読み終えてみれば,まさしくその通りだと思わざるをえない.『杳子』よりも会話文は少なく,改行も減ったことによってさらにねちっこさを加えた地の文の描写は,どの場面をとってきてわかりやすく説明しようと試みても,どだい圧縮は不可能であり,無理に掬ってみれば水のように指のあいだをつたい落ちる,そういう性質のものである.そういう点において,この作品の全体はうまく批評に解体されうるものではなく,古井の文体はその固有の世界を拓いているように思われる.

 

さて,本作の主人公である杉尾は「四十を越した」中年の男で,妻帯しており,二人の娘がいる.「学校を出て十年の職」は捨て,それからはものを書く仕事をしている(だから,彼は一応は古井の写しである).物語は彼の子どものころの短い回想から書き出される.名調子であると思うし,好みである.何箇所か抜き出してみる.

腹をくだして朝顔の花を眺めた.十歳を越した頃だった.厠の外に咲いていたのではない.

 

縁先の鉢植の前に尻を垂れて初めは花を見てもいなかった.ただ腹の内を測っていた.おさまっているのがかえってあやうく感じられた.小児にとって夏場の死はまず腹の内にあった.

 

あの朝,十歳の小児が露に濡れて,自分は生き存えられないような体感を抱えこんで股間には重苦しい力を溜めていた.

「色に似あわず青く粘る臭気」を伴い,「粘りながらやはりどこか線香の鋭さをふくん」だ朝顔のモチーフは本作のところどころに現れてくる.

 

それにしても,この書き出しからもなんとなく察せられることであるが,どこまでいっても後ろ暗い雰囲気を湛え,重苦しく湿っぽい小説である.とりあえずは『杳子』と対照させることにすると,『杳子』における日常的な空気の明るさ,透明度はほとんど消え去っている.『槿』で場面に光が差し込んでいるように感じられるところはあまり見られないし,つねに靄の立ち込める仄暗いどこかで,話が進んでいくような感じがする.さらに比較して言うならば,本作によりいっそうの重厚感や重層性を加えているのは(もちろん長篇であるということもあるが),それぞれの人物が抱え込んでいる自らの過去,生きてきた時間の重みといったものであろう.過去はもはや,記憶に頼って想起するという仕方でしか到達することが叶わないのであり,そしてそこには曖昧さや妄想,思い込みといった要素が容易に入り込んでしまう.人物によって語られることと,実際に起こったこととの隔たりは謎のまましばらく中空に留め置かれ,とくに気にせず続けられる会話のなかに消えていく.それでいて,聞く側も語られた内容に影響を受けないわけにはいかないから,製作される過去はさらに錯雑としたものになっていく.一方で,会話を幾度か繰り返すうちに,はっきりしなかった昔の記憶が次第に明瞭な輪郭をもつようにもなっていく.

 

主な登場人物として,杉尾と数寄な縁で結ばれることになった女性が二人出てくる.殺人事件があったのだと言い張ってきかない居酒屋の女将もそうとう奇妙なひとであるが,ここでは措いておく.まずは冒頭近く,病院に献血をしに行った杉尾は,同じく献血をしていた三十過ぎの女に出会うが,帰り道で体調を崩しているらしい彼女に腕を掴まれる.これが井出伊子である.杉尾は井出をおぶって彼女の木造アパートまで連れて帰るのだが,そこで彼女は藪から棒に

「一度きり,知らない人に,自分の部屋で,抱かれなくてはいけない,避けられないと思ったんです」

 などと言い出す.さすがに首を横に振った杉尾に,井出は,それではお礼に,部屋の中の気に入ったものを持って行ってくれと言い,杉尾はそれを受けて「張出しの内でいつのまにか青い花を咲いた朝顔の鉢植」に手をかけて部屋を後にすることになる.

 

すぐ次の章では,杉尾は妻から,学生のときの旧友が亡くなって通夜が執り行われることを告げられる.その席で会ったのが,故人の妹にあたる萱島國子である.杉尾は遠い昔の,國子についてのおぼろげな記憶を手繰り寄せていく.少し長いが,その回想を引いてみる.

門のくぐり戸の内でごとんと厭な音がして細い足音が遠ざかり,玄関の戸があいて少女の声と,兄らしい声が重たるくかさなった.踵を返すのもあらわな気がして杉尾は夜道をまっすぐに進んだ.林の縁まで来て,頭上からおおいかぶさる大木の,奇怪な枝振りを見あげ,我に返ったものだ.取っ憑いていたものが落ちて遅ればせに,死にたいような,いや,すでに死んで目を蛾のように蒼く光らせて闇の中をさまよっている心地がした.しょろしょろと長い立小便をした.

少女はついと腰を引くと甘い笑みを斜めにそむけ,後ずさりにくぐり戸の内に消えた.戸を閉めたあともしばらく,すぐ内に立って息をひそめていた.髪のにおいが門の外の薄闇の中にまで漂った.

この場面は杉尾の想起として,少しずつ形を変え作中に繰り返し現れる.どうやら杉尾と國子とのあいだに重要ななにかが起こったところのようだが,描写はいたって曖昧であるし,真相はなかなか明らかにならない.この國子という女も変わったところがあり,読み進んでいくと,杉尾を呼び出して,かつて狂人のようになった兄に,杉尾と寝たんだろうと激しく責められたことがある,と語るのだ.それがいつの間にか,少女のころに杉尾に犯されたことがある,という思い込みに転化していく.

 

また別の旧友である石山が,入院している病院から國子へ唐突に電話をかけたり,杉尾が井出と國子とは顔見知りであることを井出から告げられたりしながら,物語は少しずつ進んでいく.

女のとりとめのない浮世離れした話しぶりに対し,杉尾はそれを細部まで問い詰めるようなことはせず,いつも中途半端についていく.読んでいる側は,杉尾が女に「手を触れた」のかすら,注意して読まないと見落としてしまいそうになる.

 

『槿』の世界にあっては,杉尾の側に特別ななにかがあるようには思われない.空っぽで,なにを考えるでもなく,淡々と行為をするだけという印象を受ける,それも周りの状況に流されるようにして.このあたりに中年の男の陰惨さを読み取ることができるだろうか,ある種の諦念,そしてすこしく依怙地になり,我を通すことへの,自らがもっともよくわかっているはずのみっともなさ,そういう陰惨さを,ある程度は古井本人の思いに重ねるように.しかし,その男の目から眺められた女,さらにはその女を含む全世界,はそうとうに異常なものと映っている.これをさほど不自然とも感じさせずに読ませてしまう筆力は見事なものではないかと思う.

 

つらつらと気の赴くままに書いてきたが,やはりしようのないことのような気がしてきた.適当にページを繰って行を目で追っていくうちに,どこでも古井の筆致は解釈しようとする者のはるか先を行ってしまうようである.これを読んで興味をもっていただけた方に,本作を手にとってもらえれば幸いである.