umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

名刺代わり

そこそこの数の記事を書きためれば,このブログは名刺代わりになって便利なのではないか,というようなことを考えていた.この歳にもなれば,積み上げてきた経験は各々そうとうに異なるものであるから(なのにいつでも人間とはその身一つとしてわれわれの知覚に現れる,これもずいぶんと不思議なことである),価値観の違いも大きく,初対面の人間と適切な距離をとりつつうまく付き合えるようになるにはある程度の時間が必要である.それもだいたいは表面的なものに終始しがちというのが実情ではあるまいか.かといって,自分のことについて周りに知らしめるために,昔からの Twitter アカウントを見せることなど気恥ずかしくてできるわけがない(ほとんど妄言で構成されているので).作家であれば,ぜひこれを読んでからわたしに会うようにしてほしい,というような一書があるのではなかろうか.これはそのひとが思考や想像に費やした多くの時間を注ぎ込んでいるという点で,優れた自己紹介の形式に思われる.それからこれはすこし違う話だが,人間そのひと自身と,そのひとの書いたものという分裂はひとつのおもしろいテーマであるとずっと考えている.わたしもなるべく継続して書いていきたい.

 

書いているうちにぽんぽんと頭に浮かんでくることを文章の合間に挿入していくと,通して読んだときにリズムが悪くなっていたり,散漫に感じられたりしてうまくないのかもしれない.それでも,今は泡沫のごとき思考の飛跡をすらキーボードがすばやく辿りなおしてくれるから便利だと思う.そういえば,出典が定かでないのだが,坂口安吾は頭に次々ひらめく書きたいことに手のほうが追いつかないからと速記を習得しようとしたが断念したというようなことをいつか読んだ覚えがある.サルトルは占領下のパリのカフェで『存在と無』を書き継いだが,彼もまた書きつけるべき想念の浮かんでくるあまりの速さに,インク壺にペン先を浸すのさえもどかしいと感じたそうである.

 

話をもとに戻そうとしてみる.わたしはひとの読んでいる本,あるいはひとの本棚にたいして異様なまでに興味をそそられるが,それはそれらがそのひとの人となりをいくぶんか担うものだと考えているからであろうか.わたしがよく知らないひとのことを知ろうとするに際し,自らの場合をそのまま他者へ投影するからかわからないが,あまりそのひとのふるまいや口にする言葉を信用していない節がある.そのひとがひとりでいるときにしていることこそを信用しようとし,そのひとつとして読書があるのかもしれない.顔を知っている人間の書いたものに関しても強く読んでみたいと感じるが,これも同じ心理によるのか.あるいは,誰かがものを書かねばいられない状況というものにも(自分に引き寄せる形で)興味をもつ.前提としてすこし加えると,たぶんわたしはかなり人間に関心を寄せるほうではないかと思う.正直なところ,(実在の)人間に興味がなさそうに見えるひとを羨ましく思っているようなところがある.しかし,そういう点で自分に嘘をついても仕方があるまい.

 

それにしても,ほんの手短に片手間に行われる,いわゆる「自己紹介」ほど中身がなく,形骸化しているものもない.そんなに簡便に「自己」が「紹介」できてはたまったものでないと思う.そういう場では結局のところ,広く世間に受け容れられている技能や特技がもてはやされるだけだ.だんだんと社交ぎらいの僻みが出てきてしまうので,もうそろそろ筆を擱こう.社交が厭というのは,他者と会って話す際の果てしない博打性が好みでないからなのかもしれない.おまけにこの賭けはたいていの場合,わたしが負けるようにできているのだから.