umindalen

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ブログを書く

どうしてブログを始める気になったかと言えば,ある程度まとまった量の改まった文章を,ひとの目に触れうる(だから,批判されうる)形で書くということは大切であろうと考えたからという,月並みな理由による.Twitter で短い思いつきを,別にただの冗談であるからという留保をつけて放言するのは楽であるが,それだけではやはりよくない気がする.日記をここ一年間ほどつけていて,そこではできるだけきちんとした日本語で自らに誠実に雑感を記すことにしているが,到底ひとに見せられるものではないし,ノートに手で綴っているから,書き散らしたのちにあちこち線を引っ張って推敲をするのは気が引ける.というわけで,文章を書くにしても多様な場があるものである.あちこちへ手を拡げると,このことについてはここで書くことにしよう,というようなことを余計に考えねばならないので,それもまためんどうではあるが(わたしの友人には,すべてひとつところに,例えば日記に,まとめて書いておかなければ気が済まない,というような奇妙な潔癖性を理解してくれるひとがいると思っている).Twitter のアカウントをわけているときの厄介さと同根である.そこではどうしても,読むひとに対してまた自身に対して,分裂した人格をどう扱いどう捌くかという問題が生じてくる.

 

いちいちこんな細かいことまで自らが納得いくように言葉で規定しないと気が済まないのは不幸なことであるが,なんにせよこだわるということは大切であろう.細かいことへのこだわりと,そこへ向けて最良の表現を探し,いつもすこしだけ理想とずれていくそれを手繰り続ける分析癖,そうしたものがなければこんなブログなど書きはしまい.やや自らに言い聞かせるように,「神は細部にやどる」と信じている.さて,こういうことを考えていると,わたしには埴谷雄高『死靈』の自序が思い出されてくる.名文を長く引くというのはいつでも後ろめたいものであるが,許していただきたい(講談社文芸文庫による).

一種ひねくれた論理癖が私にある.胸を敲つ一つの感銘より思考をそそる一つの発想を好む馬鹿げた性癖である.極端にいえば,私にとっては凡てのものがひややかな抽象名詞に見える.勿論,そこから宇宙の涯へまで拡がるほどの優れた発想は深い感動からのみ起ることを私は知っている.水面に落ちた一つの石が次第に拡がりゆく無数の輪を描きだす音楽的な美しさを私は知っている.にもかかわらず,私は出来得べくんば一つの巨大な単音,一つの凝集体,一つの発想のみを求める.もしこの宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶して,しかもその一語をきっぱり叫び得たとしたら――そのマラルメ的願望がたとえ一瞬たりとも私に充たされ得たとしたら,こんなだらだらと長い作品など徒らに書きつづらなくとも済むだろう.私はひたすらその一語のみを求める.けれども,恐らくその出発点が間違っている私にはその一つの言葉,その一つの宇宙的結晶体はつねに髪一筋向うに逃げゆく影である.架空の一点である.ついに息切れした身をはたと立ち止まらせる私は,或るときは呻くがごとく咏嘆し,また或るときは限りもなく苛らだつ.そして,ついにまとまった言葉となり得ぬ何かがそのとき棘のような感嘆詞となって私から奔しり出る.即ち,ach と pfui! 私にとって魂より奔しり出る感情はこの二つしかなく,ただそれのみを私は乱用する.

 「胸を敲つ一つの感銘より思考をそそる一つの発想を好」んだ埴谷は,「この宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶」するような一語を求めたが,それはついに「髪一筋向うに逃げゆく影であ」った.その過程であるところの「だらだらと長い作品」が『死靈』であり,わたしのすきな本のひとつである.