umindalen

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洒落と散文

Twitter を彷徨していると,ときおりほとほと感心させられるようなセンスあふれる呟きに出会うことがある.たいていは諧謔の一行である.諧謔は短ければ短いほどよいが,それはおもしろさを説明するのがより難しくなるからであろうか.発信する側と受け取る側とのあいだで共有されている文脈を絶妙に把握して書かれるシニカルな一言には,つい口角が上がってしまうし,反射的に like をつけざるを得ない.ほんとうはいくつかお気に入りを引いてみたいのだが,さすがにそれはまずかろう.わたしのアカウントの Likes でも見ていただければ,嗜好の一端が垣間見えるかもしれない(いや,やっぱり見なくていいです).

 

玄妙なる一行が羨ましく思えるところはたくさんある.まず気取りがないところがいい.散文を気取らずにつづるのは,よほど道化を演じてみせなければ不可能である.短い文では,自分をさらけ出すようなみっともない真似はしなくて済む,孤高の表現である.加えて軽やかさ,明るさというのも感じられる.高橋睦郎がどこかで,自分は重いほうへ重いほうへ思いがけず進んでしまうから軽妙さは羨ましい(谷川俊太郎を評してのことだったか,間違っていたらすみません),というようなことを言っていたのを思い出す.真面目さから抜け出すのにもっとも優れた手法はユーモアであろう.

 

わたしもひとと話すときは多分に皮肉屋になっていると思うが(というか口を開くと皮肉ばかり言いたくて困るのだが),どうも書くこととなるとうまい洒落は浮かんでこない.そういうセンスのあるひとを妬ましく思ってしまう.散文はあれこれ考えて付け加えながら書いているとどんどん長くなっていく.そうしていると(わたしにとっては)自然な流れとして深刻で真面目な方向へ文章が傾斜しがちであり,そういったものはあまり好まれない.顔を背けられないように軽やかに書くのは難しい.泥臭くて勝算のなさそうな相対化を続けねばならないというのは,散文のある種の宿命かもしれない.だが一方で,散文は世界の全体を覆い尽くせるのではないかというような夢想を抱かないこともない.

 

ところで,この記事の内容は入浴中に思いついたので,すぐに書き留めることができずにけっこう焦った.防水のタブレットでも購入することを検討すべきであろうか.それより一等困るのは眠っているときで,すなわち夢のなかであるが,こればかりはどうしようもない.わたしはひとりでいるとだいたいいつも上の空でこんなことばかり妄想しているのであるから,考えてみると笑える話ではある.