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金井美恵子『愛の生活・森のメリュジーヌ』

 

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

 

 内容紹介:

《わたしはFをどのように愛しているのか?》との脅えを透明な日常風景の中に乾いた感覚的な文体で描いて、太宰治賞次席となった19歳時の初の小説「愛の生活」。幻想的な究極の愛というべき「森のメリュジーヌ」。書くことの自意識を書く「プラトン的恋愛」(泉鏡花文学賞)。今日の人間存在の不安と表現することの困難を逆転させて細やかで多彩な空間を織り成す金井美恵子の秀作10篇。

早稲田文学2018年春号で,金井美恵子のデビュー50周年記念特集「金井美恵子なんかこわくない」が組まれていた.19歳であの『愛の生活』を書いてから50年なのかと,20代なかばのわたしが思うのもおかしなことだろうか.そういうわけで,鮮烈な処女作を含むこの初期短篇集を本棚から引っぱり出して読み返してみて,まったく色褪せることなくとてもよかったので,紹介してみたい.とはいえ,わたしはこの本についてどうこう論じられるほどの能力を持ち合わせないので,いくつかの作品について好みの箇所を適当に引用するに留める(傍点はボールド体で代えた).

 

  • 『愛の生活』

一緒に暮らしているFは朝いつものように仕事へ出かけたが,職場へ電話をしてみると休んでいるという.ありふれた物のありようや自他の行動を執拗に観察してはいいようのない不安に襲われる,そうしたどこか気だるい日常を描く.自らのすることを,あたかももうひとりの自分がつねに点検しているような感覚.颯爽とした硬質な文体は読んでいて実に小気味よく,格好がいい.書き出しを引く.

一日のはじまりがはじまる.

昨日がどこで終ったのか,わたしにははっきりとした記憶がすでにない.

昨日がどんな日であったかを,正確に思い出すことがわたしには出来ない.枕元の時計を見ると十時だ.昨日の夕食に,わたしは何を食べたのだったろう?昨日の夕食に,わたしが食べたのは,牡蠣フライ,リンゴとレタスのサラダ,豆腐のみそ汁だった.

以下,引用.

幸福はいつまでたっても幸福のままだ,という逆説的な不幸が現れて来る時,突然崩れ去る幸福な日常というイメージでしか,日常性を捉えることの出来ない人は,幸福のモロサを提出してみせたのではなく,事件が起って事態は一変するだろうという風に考える,一種のロマンチストでしょう? 

わたしはバッグにノートと万年筆をしまい,伝票を摑むと階段を昇って,会計場まで歩いて行く.カウンターのあたりには,いつも色とりどりの服を着た華奢な感じのウエイトレスが何を考えているのか面白くなさそうな顔でつっ立っている.アリガトウゴザイマシタ,という声に送られるのが,わたしはいやだ.わたしはいつも彼女たちに軽く会釈をしてしまう.その会釈に彼女たちが気づかないことを,わたしは軽く頭を下げながら願っている.

わたしがスパゲッティ・ミート・ソースを特に嫌いなのは,一つにはあの回虫を思い出すからかもしれない.ゆであげたばかりの,スパゲッティの温いぬめりは,あの回虫の隠花植物的な光沢に似ている.

わたしが見ているのに気づくと,若い男は少し狼狽え気味に口許でフォークをとめる.

わたしは彼を見て,回虫的に微笑を浮かべてやる.鈍感な微笑の返礼.彼はわたしの考えていることも,微笑の意味も知らないのだ.

―回虫って御存知?

男は思い出したように,スパゲッティの皿を覗く.

―似てるわね.それ.

彼は最後の二,三口ほどのスパゲッティを残したまま,物も言わずに席を

立つ.わたしは悪趣味だろうか?

 

これは引用だけ.

あの人の微笑の中には無数の意味が充たされていて,誰もそのすべての意味を完全に知ることは出来ない.彼女自身にとってさえ完全に知ることは出来ないだろう.ぼくたちは鏡の前に立ち,腕を彼女の胴と胸に巻きつけ,顎を彼女の肩にのせ,微笑みに充たされた意味をひとつひとつ発見して行く.彼女の微笑の最大の意味は愛であり,その中にしのび寄って来る死,悪意とからかいの針,優しさ,苦痛,空虚,悲しみ,それから燃えあがる意志―.ぼくが微笑の意味をひとつひとつ言うたびに,彼女は身体を小刻みに震わせて笑った.そんな時あの人の身体は手の中から逃げようとしてもがく子猫のように生々と弾み,腕の力を強めなければ,あの人はぼくの腕をすり抜けて笑いながら走っていってしまいそうだった. 

彼女は眼をさまし,微笑みを浮べてぼくを見つめ,〈あなたは夜の間中,うなされていたわ.きっと悪い夢を見ていたのね?かわいそうに〉と言った.〈やっぱり,夢だったんだ.あなたがいなくなってしまうなんて,悪い夢に違いないもの〉彼女はぼくの髪を愛撫しながら言った.〈わたしはあなたの前からいなくならないわ.あなたがわたしの全てを知ろうとしないかぎり,わたしたちは一緒よ.いつも,いつも,永遠に二人だわ〉ぼくは悪い予感に全身を貫通され,震える声で彼女を問いつめた.〈あなたの全てを,ぼくは知りたい.どうして知ろうとしてはいけないのです?〉彼女は初めて浮べたきっとした表情と厳しい口調で答えた.〈あなたはわたしを愛しているのでしょう.わたしを愛するということは,あなたの眼がわたしだけを見るということ,わたしにしか視線を注がないことだと最初に言ったはずです.その為にあなたは無数の眼をすてて,森へ入っていらしたはずです.それに,あなたはまだわたしの全てを知る資格も権利も持ってはいないわ〉 

 

  • 『兎』

「あたし」の父親は食用の兎を飼っていて,月に二度,その一匹を絞め殺してはごちそうを作っていた.父親と「あたし」以外の家族はこの儀式を忌むべきものとみなし,ふたりは晩餐を物置小屋の小さなテーブルで行っていた.ある日,他の家族が忽然と姿を消してより,ふたりは外へ出かけることもせず,来る日も来る日も兎料理をお腹いっぱいに食べては好きなだけ眠る生活を送るようになる.父親はますます太り,体調は悪化し,いつの間にか兎を殺す役目は「あたし」に回ってきた.「あたし」の感覚は次第に常軌を逸していく.

最初はとてもいやだったのですが,すぐにあたしは,殺すことも楽しみの一つだってことを理解できるようになったのです.まだあたたかい兎のお腹に手を入れて,内臓をつかみ出す時は幸福でした.肉の薔薇の中に手をつっ込んでいるみたいで,あたしはうっとりして我を忘れるほどでした.指先に,まだピクピク動いている小さな心臓の鼓動が伝わったりする時,あたしの心臓も激しく鼓動しました.もちろん,兎を抱いて首を絞める時にも,内臓に手をつっ込むのとは違った快楽がありました.首を絞める時の快楽をもっと強烈に高めるために,あたしはいろいろな方法を試してみたものです.兎は耳をつかんでいるととてもおとなしいし,あの柔らかでまっ白なくりくり太った生き物を自分の手で殺すのは,とても残酷なことのように思われたのですが,だんだんそれが甘美な陶酔に充ちた快楽に変って行くのが,はっきりわかりました.手の力を少しずつ強めて行くと,兎は苦しがって脚を蹴るものだから,それがあたしのお腹にあたり,とても興奮しました. それから指の中で兎の首が完全に折れたのがわかり,それと同時に激しい痙攣が兎の身体をかけぬけるのが,あたしのお腹に伝わるのです.はじめのうちは膝に兎をのせて絞め殺していたのですが,胸に横抱きにして,脇腹に腕を思いきり押しつけるようにして殺すやり方もためしてみました.これもわりあい感じがよかったのですけれど,ちょっと油断すると腋の下からするりと兎が逃げてしまうので,あまり良い方法ではありませんでした.結局,あたしが一番満足を味わえた方法は,兎の身体を股の間にはさんでおいて,首を絞める方法でした.これはかなり気に入って,しばらく続けていたのですが,そのうち,裸の脚が直接兎の毛皮に触れていたら,もっと気持がいいだろうと思いつき,いつもは殺す時ブルージンズをはいていたのをスカートにして,スカートをまくりあげて股の間に兎をはさんでみたのです.そして,兎殺しの血の秘儀が全裸で行なわれるようになるまでに,長い時間は必要ではありませんでした.