umindalen

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死ぬことを持薬をのむがごとくにも我はおもへり心いためば

自殺を思うことは,すぐれた慰めの手段である.これによってひとは,かずかずの辛い夜をどうにか堪えしのぐことができる.

ニーチェ善悪の彼岸』信太正三訳 

 「使やしないよ.僕は使やしない.あの時の話のように,ただ自由を持っていたいだけだ.これさえあればいつでもと思うと,これからの苦しみに堪える力になりそうなんだ.そうだろう.僕の最後の自由というか,唯一の反抗というかは,それしかないじゃないか.しかし,僕は使わないと約束するよ.」

川端康成『山の音』(青酸加里についてのくだり)

 

さいきんとみに思うが,ひとと面と向かって自分の考えるところや思うところをわかってもらうことほど難しいことはない.ほとんど絶望的といってもいい.なにかを期待しているとほぼ間違いなく裏切られる(だから,期待しない訓練をせねばなるまい).やはり執拗に詰めて文字として書くほかなさそうに思われる.書くこととはなにか,さまざまに箴言めいた言説はあるが,そのひとつとして「復讐」であるというのがあるのは,間違いないであろう.つけ加えて,書くこととはすぐれて「迂回すること」でもある.

 

どうでもいいこと.わたしは部屋の掃除が苦手であるが,立つ鳥跡を濁さずというやつで,これが終わったら死ぬのだと真剣に考えているときれいに片づけられることがわかってきた.これを読まれる方々もライフハックとしてぜひ実践してみてほしい.しかしこれも,自らに生命保険をかけてしまうのと同じ態度であるから弱いといえば弱いけれど.

 

あるとき寝入ったまま二度と目が覚めなかったならばどんなによいだろうと思うことはしばしばあるであろう(?).ここのところ愉快な夢を見ることが多い(メモをとろうにも内容は起きたそばから揮発していく).往々にしてわたしには夢の世界のほうが魅力的に映る.

 

さて,自殺を想うことだった.そういえば,いぜん睡眠薬をしこたま呑み下した知人がいたけれど,けっきょくそれは未遂に終わった.今時は芥川のようにバルビタールに溺れて死ぬこともできないから世知辛い.自殺というとわたしには入水が頭に浮かぶ.おそらくそれは,梶井基次郎『Kの昇天―或はKの溺死』の印象深い抒情と,いつかとっぷり日の暮れた由比ヶ浜を散歩したときの,あの見晴るかす限りの漆黒とを合成したものに惹かれるところがあるからであろう.これは小品であるが,目に浮かんでくる情景は美しい.砂浜は満月によって蒼く照らされ,海には夜光虫が光っている.そこで「K君」は,行きつ戻りつしながら自分の月光による影をしつこく観察しているのだ.そうしてじっと見つめていると,「見えて来る」ものがあるという.青空文庫より引く.

自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を溯って、それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。

そのときは表情を緩め,いくらやっても「おっこちる」のだと彼は言うが,遂にあるときすっかり昇っていってしまった,というわけだ. 魂が月へ近づくにつれ,身体のほうは海へと入っていく.

 

この記事は仙台への小旅行先で宿泊したホテルで思いついた.わたしはどうもホテルのよく効いている暖房が得意でない.別に暑いわけではないが,無性に不安になるのだ.かといって切ってしまうと寒い.明け方までろくに眠れず,気が触れそうになりながら呻いていたが,ふとだいたいこういうことを書こうと浮かんだので,急いでメモをとった.気が触れそうになることにも効用はあるのかもしれない.タイトル(啄木『一握の砂』より)をこんな風にしておくと,そもそも主な路線があいまいなので,なにを書いても脱線の感があまりなくて気が楽である.