umindalen

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吉本隆明『エリアンの手記と詩』

軒場の燕の掛巣などを

珍らしげに確かめていたおまえの影よ!

 

おまえは何かを忘れてきたように

視えたものだ!

抱えこむような手振りで

けれど何も持つてはいなかつた

あずけるような瞳で

けれど何も視てはいなかつた

それから

亀甲模様の敷石によろめいたりして

おまえの肢は重たそうだつた

 

誰も知らなかつたろう

あふれるもの想いが

おまえの影を浸していることなんか

風が思いがけない色彩をして

おまえを除けていつたことなんか……

 

いつか友人にこれを薦めたことがあったが,酒の席であったし,たしか夜通し飲んでいたはずだからどうせ憶えていないであろう.ここに書き留めておけばそのうち目に触れることになるだろうから,都合がよい.面と向かって以前にも一度したことのある話をくり返すのは間が抜けている.

 

 本作は戦後詩壇を代表する詩人である吉本隆明の,最初期の長篇散文詩である.くり返し読み込んだ作品なので,愛着がある.これを読まれる同年代の方々に自信をもって薦めたい.わたしは吉本隆明の詩が好きで,まえから詩全集を手元に揃えたいと思っているのだが,費用と置き場所のことを考慮するにいまだ果たせずにいる.詩を紹介するにあたって下手な解説を添える愚を犯したくはないが,本作ならばいささかやり易かろうと思われる.詩であることに間違いはないのだが,読んでいくとストーリーがあるということが明確にわかり,なかばは小説のようでもあるのだ.上に引いたのは主人公エリアンが最後にものする詩の一部で,いわば「詩中詩」である.

 

本作はとにかく暗い,どうしようもないほどに暗い.まったくおどけたところもなく,まじめで思い詰めている.若き日の詩人が,絶望と深刻さのどん底で綴っているような印象を受ける.ある程度,吉本本人の遍歴に重なるところもあるようだ.思いをのせた硬質で怜悧な言葉は,壮烈にひたむきさや切実さを伝えてくれる.全体を総合すると一種のビルドゥングスロマンのような構成になっており,わたしの感覚ではヘッセの小説,例えば『トニオ・クレエゲル』や『デミアン』などと雰囲気が似通っているように思える.

 

十六歳のエリアンは,イザベル・オト先生のところで詩を教わっていて,そこで一緒のミリカを秘かに恋している.「如何に細い計算をしても意識は死の方へ流れてい」くような気質のエリアンは,オト先生もやはりミリカを恋していることを告げられ,ある日ついに小刀で咽喉を突くが,死にきれない.病院で目覚めたエリアンは,傷が癒えたら都を離れることを心に決め,退院すると遠い北国へ旅立つ.そこで孤独を噛み締めつつどうにか暮らすうちに成長したエリアンは,都のミリカへ便りを送る.オト先生からの年長者としての便りと,病を得たミリカからの便りが最後に添えられている.先生の慈しみにあふれた助言は胸を打つものであり,とくに「イエスではなくパウロのように生きなさい」というくだりは印象深い.気に入った箇所を引いているときりがないし疲れるので,オト先生の詩をだけ引用して終わろう.

 

お聴きよ!

おまえの微かな魂の唱……

夜更けの風の響きにつれて

さだかならぬ不安を呼び寄せている

 

〈エリアン!〉

みしらぬ愛の戦きをいつ覚えた?

未だ言葉も識らないのに

どうやつて伝える?

 

さりげない物語が

異様なおまえの重たさを運んで

いつたどり着くのか

 

なりわいも苦しさも知らぬ

ひとりの少女のところへ!

 

〈エリアン!〉

おまえは未だわからないのだ

おまえの求めているものが

天上のものか地にあるものか

 

それから

おまえの想うひとりのひとが

はたして

そのように美しい魂なのか……