umindalen

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あつき日は心ととのふる術もなし心のまにまみだれつつ居り

このあいだの連休ですこし実家へ戻り,久しぶりに間近で生い茂る植物を見るような思いがした.きれいに晴れて,ときおり着衣の下を吹き抜ける風が汗を乾かしていく日であった.とくに柿の木は,年季が入ってごつごつした,あまり健康そうには見えない樹皮と裏腹に,先のほうから細い枝を長く伸ばし,若々しい黄緑色の葉をたくさん茂らせていた.昔から蕗も大きな葉を地面の上に広げて群生しているが,この煮物もずいぶんと口にしていなかったので,懐かしい味がした.雑草を片づけて,少々のトマトやきゅうりなどの野菜の苗を植えた.夏には実をつけることだろう.

 

ご近所さんの育てているラズベリーやブルーベリー,小ぶりないちごなどが青い実を結び始めている.気が滅入っていても,なんとか外に出るとこれらが目に入って少し救われるような思いがする.植物の力は偉大である.そういえば以前,友人から鉢植えでレモンの木を育てるとじっさいに実るし楽しいという話を聞いたことがある.部屋も明るくなるだろうか.

 

わたしは冬の生まれだからか,自分では寒い季節のほうが好きだと思っている.関東では雲ひとつない青空の広がる日がずっと続き,深く吸い込むと肺に沁みるような清冽な空気はからっとして気持ちがよい.たまに雪の降り積もる年もあるが,一夜にして窓の外の景色が一面に陽光をはね返す白で覆われてしまうのを目の当たりにするのは,幼少のときから少しも変わらず心躍る経験だと思う.夏は蒸し暑く,外を出歩くと汗が噴き出してくるのが不愉快であるし,実家にいたころは庭の雑草が日ごとに芽吹いては伸び,樹木は好き勝手にこんもりと繁り,また虫が,とくに蚊が多くて寝苦しくもあった(それにしても,あの蚊の鳴く音のなんと耳障りなことか).

 

それでも,季節の変わり目にあたるこの頃というのは,どうしてもじきに到来する夏に対して,なにか理想的な期待を抱きたくなる時期だ.といっても別にメディアの騒ぎ立てるようなひととの出会いとか,とくにそういうものではないけれど.季節というのも不思議なもので,内心わくわくしながらそれを待ち構えているうちに,気づけば終わりに差しかかっているというような,そういうたぐいのものである.よく春や秋は短くて,もう夏だ,もう冬だ,と言われるのを耳にするが,わたしにとっては,四季のどれも同じように短いように思われてならない.

 

道の向こう,建物の陰から立ち上がっている入道雲が目に入るとわくわくしてくる.あんなに厚みがあって陰翳がくっきりとわかり,まるでそびえ立つ山のような存在感を示す雲が見られるのも,これからの季節だけである.ほんとうはビルもなにもない,だだっ広い草原で,地平線の下から湧き上がるそれを眺めていたいような気もするが,とりあえず東京にいるなら仕方がない.それからもちろん,積乱雲は夕立を連れてきてくれる.外にいるとちょっと悲惨な目に遭うかもしれないが,屋内ならこれほど愉快なこともないと思う.猛烈な雨がたちまちアスファルトの熱を奪い,その叩きつけられる音が耳に心地よく響く.窓の外へぼーっと顔を向けていると稲妻の走るのが見えるかもしれない.昔から雷の好きな子どもだったように記憶している.雨雲が過ぎ去ると,雲間から光の帯が細く差し込んでくるのが見えるだろう.外に出れば,冷えて湿った外気がむき出しの温い肌にまとわりつき,雨と陽の入り混じった匂いが鼻をつくはずだ.

 

さて,雨ということで,書いているうちに『群青日和』を聴いたり『言の葉の庭』を観たりしたくなった.みなさんは夏の雨はお好きであろうか.そういえば,マルグリット・デュラスには『夏の雨』という小説があったのをたったいま思い出した,これはおもしろいです.まとまりがないけど終わり.タイトルは斎藤茂吉『白桃』より.