umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

本の話をしたという話

ふだんレジ打ちの店員さんとしか言葉を交わさないわたしであるが,久しぶりに人間と会って,コーヒーを飲みながら(ほかのひとらは煙草も吸いながら)だらだらと書物やらなにやらについての四方山話をしたところ,(ちょろい性格をしているので)精神が虚無から躁になってたいへん気分がいい.以前も同じような理由で記事を書いたが,今日もそうしようかと思う.たまにこういうイベントでもないと,ここに投稿するモチベーションがなかなか湧かないものである.

 

はて,梅雨の晴れ間であったか,それとも薄く曇っていたのだったか,少しまえの天気を思い出すのでさえおぼつかない.ともかくカフェで落ち合う旨をとり決めて,約束の時刻にやや遅れ気味であったから,後楽園駅の改札を出てすたすたと足早に歩いていると,しだいにじっとりと汗がにじんでくるくらいの気温であった.いちど方角を間違えて真逆の方向へ歩いたりしたあげくにお店へ足を踏み入れると,喫煙席に見分けやすい先客の姿があった.冷房が体表の熱を奪っていくが,身体の内側までが落ち着くにはある程度の時間を要し,テーブルについてからもしばらくは汗が引いていかない感覚がある.

 

とりあえず,適当に鞄に入れてきた本やお互いに知っている本について,「この一節がめちゃくちゃいい」とか「この表現がとにかくいい」とか「ここは声に出して読むと調子がいい」とか,そんなことを言い合っていたような気がする.言葉の細部にやたらとうるさい友人をもってわたしは幸せであると思う,あんまりそういうひとっていないので.それと,まえに話題に上っていたので,中公新書高橋睦郎百人一首』を持っていったが,これについても昔話を交えてずいぶんと盛り上がった.彼の話を聞いていると,わたしが中高生のときに受けた国語教育はだいぶつまらないものだったような気がしてくる(どちらにしても,たいして興味を抱かなかったかもしれないけれど).あと,『枯木灘』の紀州弁を読み上げてはやたらとテンションが上がっていた,たぶん流れている血が中上健次と似通っているのであろう.中村文則がおもしろいという話をされ,『遮光』を薦められたので,千円以内の本は実質タダだからなどどわけのわからないことを言って笑いながらその場でポチった.

 

さて,ここまででだいたい三時間ほど.上述の友人があまり気乗りのしないらしい飲み会へ後ろ髪を引かれるようにして出かけていき(案の定というか,のちほど泥酔していたようである,面子の厳しい酒席ではとにかくアルコールを入れて,意識を曖昧にさせるか気分を高揚させるかすることがほぼ唯一の勝ち筋であることは言うまでもない),もう一人の,今日で二回目にお会いするひとともう三時間くらい喋っていた,よく話が途切れもせず続いたものだ(いま思い返すと,そんなに長居していたとは思えないほど時間の経つのが速かった).

 

ローベルト・ヴァルザーの名前が出たことが驚きであった.わたしはゼーバルトの『鄙の宿』に収められたエッセイでヴァルザーのことを知り,近所のブックオフにたまたま並んでいたその作品集を買うか買うまいか逡巡しているうちに売れてしまったのであるが.わたしの方では断片的に知っているだけとはいえ,こんな話の通じるひともそうはいまい.貴重な会合である.

 

たしかこの話題は,病気を昂進させるような書を選んで読むべきか否か,みたいな文脈で持ち上がったのだと思う.ようは,(周囲の人間らの読書事情も踏まえつつ)三島とかを根を詰めて読むとちょっと危ないよね,というような話.たしかに『金閣寺』や『豊饒の海』はそういう雰囲気を漂わせている.個人的には,これらももちろん好きではあるが,『沈める滝』や『愛の渇き』,あるいは戯曲を推したいところだ(『宴のあと』を読んでいないので読みたい,百円で見つけられないと買わないので).しかしまあ,こういうのを楽しめるのも二十代のうちという気もするし,病気を極めるというのもひとつの手かもしれない.「突き抜けた根暗」というのもまれではあるが,たしかに存在しているものだ,少なくともわたしはひとり知っている.蛇足だが,わたしは短篇『海と夕焼』がとても好きである,共感してくれる方がいると嬉しい.

 

もう一方の極として,古井の名前が出た.ここのところ猫も杓子も古井由吉であるが,ご容赦願いたい.二十代の青年ではやく年をとりたいと考えているひとはあまりいないはずであり,わたしもその例に漏れないつもりでいるのだが,古井の文章というのは実に不思議なもので,老年に差しかかるあたりからの作品をつらつら読んでいると,こういう年の食い方は悪くないかもなあという気分にさせられるものがあるのだ.だいたいどの小説を選んでもそんなに印象は変わらず,べつだん何かが起こるわけでもない,毎日決まった時間にやれやれといった風で机に向かって筆を執る生活が描かれるのだが,退屈でありながら奇妙に静穏な心地よさがある.

 

そんなこんなで,さしあたり目の前にはいつでも日常生活がぶら下がっているわけだし,人間嫌いは明日からまたおとなしくひとりで淡々と机に向かいましょうというありきたりな結論をもって,解散と相成ったのだった.終わり.