umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

話し言葉と書き言葉

わたしはどうにも会話をするのが不得手であると自分で思っているのだが,これはそもそも話し言葉の特質のようなものによっているのではないかと,なんとなく思ったので書き留めておく.

 

大学の友人たちとはどうせ無茶苦茶な言葉の応酬しかしないので,そういうのはとりあえず棚に上げるとして,一般的に会話の場面では,そこを支配する空気を白けさせたり緊張させたりするようなコード外の言葉の使用は基本的に禁じられている.そしてたいていの場合,わたしはまさにその抑圧されがちな言葉で語られる内容にしか興味がないのだ.だから日常会話,話すために話しているような話にはついつい上の空になってしまったりする(ただし,その内容にまじめに参画せずとも外側から笑いをとれるゆえに許される形式というのが存在し,それを皮肉とか諧謔とかと呼ぶ).

 

このコードによる制約は,もちろん多人数であるほど強く,一対一のときにはある程度まで緩和されるだろう.さらに,小説など読んでいると,ひと昔前までは手紙のやりとりというコミュニケーションが頻繁にあったらしいということがわかる.これはもちろん書き言葉の形式であって,ひとりでゆっくりと考えて文章を練ることになるが,そうしていると,その内容がしだいに広がりをもち,豊かになっていくということは,じっさいに書かれているかたならよくご存じのことと思う.こうした方法では,(ものぐさでなく筆まめでなければならないが)会話の場面でとりこぼしがちな大切なことが伝達されうるのではないか,という気がする.手紙をしたためることと,SNS 上のメッセージのやりとりとでは,同じ書き言葉でもずいぶん性格が異なるのではないか,というのはさすがにわたしの懐古趣味か.

 

さて,こうした理由のゆえにわたしは社交の場が苦手なのだと思うのだが,それでもじっさいに出かけていくと,顔を合わせるひとたちとなるべく理解し合いたいと感じる.しかしなんといおうか,わたしのほんとうに話したいことは,会話においていつもまとまった言葉の連なりを成してくれない.それが場のコードをくぐり抜けるかどうか,どうしても不安につきまとわれる.それでもなんとかしてたどたどしく話すうちに,どこか細かな誤解を積み重ねているのではないか,という感覚はぬぐいがたくある.このあたりがもどかしく,結果として帰り路では重箱の隅をつつくような,しようのない反省をくり返すことになる.

 

その点,共通した本の話ができると,これは実に喜ばしいことである.たぶん,口語から漏れ出たあらゆることがらが本に書かれているのではないかと思う(だからもしわたしが話したいことを話すときは,書き言葉を使って長く話すことになるような気がする).お互いにある一冊の本を読み通した,というのを知ることは,世間の言葉づかいを離れて,ひとつの筋を通して考えられたことがらが長々とつづられている,それを一応は共有しているということであろう.あまり大っぴらには口にしづらい世界のとらえ方のひとつを誰かと分かち合っているということ,それはやはり嬉しいことである.

 

書いていてわたしは救いようもなくめんどうな人間だと思った.ほんとうはこんなことなどいっさい書きたくはないような気がしている.話すということは(ふつうは)さして労力を使わないけれど,書くことには(それを公表することも含めて)つねに一定の負荷がかかる.だからこそ書かれた言葉にはある種の価値があるのだと思うし,わたしはみなさんが筆を執って,すこしく内面に言及した文章を読みたいとつねづね願っている.終わり.

 

追記.あけすけな例を思いついたので.ちょっとでも小説を読むなり映画を観るなりするひとなら,そのなかでひとが自殺するなり法を犯すなりすることは誰でも知っている.(世人のすきな)村上春樹が描く人物なんてめちゃくちゃあっさり首を吊るではないか.これをもうすこしだけでも現実の人間のほうへ引き寄せて,自死を口の端へ上らせつつ,明るくへらへらと生きていってもよさそうなものだ.どうしてそんなにまじめなふりを装わねばならないのか.わたしはなべてまじめな話が苦手だ.世間的には話し言葉(現実)と書き言葉(虚構)とは互いに交じり合わないようなので,わたしはここで至極まっとうなことしか書いていないつもりでいるのだが,やはり異常の烙印を押されて迫害されるのであろうか.どなたかジャッジをお願いいたします.