umindalen

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『未来のミライ』と,樹木のこと(と,シフォンケーキ)

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先日,たしかそのまえの晩にしたたか屋根を打つ夕立の音を体を横たえてうつらうつらしながら聞いた日,友人と連れ立って細田守の新作『未来のミライ』を観に行った.曇り気味で日差しは弱く,急に涼しくなったように感じられ(もう秋か!),出歩くこともさほど苦にならなかった.

 

わたしはヒネているので,いそいそと新作を目当てに映画館へ足を運ぶといってもさして本編に多大な期待を寄せているわけではなく,昔から好きな山下達郎の手がけたテーマ曲を聴きたかったのである.名作『サマーウォーズ』以来のタッグということだ.とはいえ,なにごとにつけニュートラルかそれよりちょっと下くらいの気持ちで出かけていくことによって,イベントをそこそこに楽しむ術を身につけているわたしにとっては,十分におもしろかった.たぶん,映画としてそんなに出来がよいわけではないし,ひとに薦めたりするようなものではないのだけれど,作画や演出の妙はたしかなものがあったし,そしてなによりわたしは,時間を重層的にみせることで豊かに展開する「血」の話が好きなのだろうと思う.また,それを象徴する「木」のモチーフについて,すとんと納得するようなところがあった.そういうすこし抽象度を高めた次元で,個人的には収穫があったといえる(ので,十分なのである).

 

いったん措いて,ぜんぜん関係のない話.劇場を出たあと,近くの行きなれたカフェでしばらく話をしながらのんびりと夕方を過ごしたのだが,本日のケーキがシナモンのシフォンケーキということで,目がないわたしは迷わずコーヒーとともに注文した.スポンジがふわふわとしていて,生クリームもしつこくなく,とてもおいしかった.ところでシフォンケーキというと,思い出される作品がふたつあり,わたしがシフォンケーキを好むことの一端を担っていると思われるものなので,紹介しておく.

 

ひとつはおそらく多くのかたが知っておられるであろう,『千と千尋の神隠し』の,終盤のワンシーンである.ゼニーバの家へやって来た一行にお菓子がふるまわれるが,テーブルについたカオナシは,まず紅茶を(胴の)口へ流し込むとケーキ(わたしはかってにシフォンケーキだと思っている)のお皿を手にとり,フォークで丁寧に半分に切ってから口へ運び,ゆっくりと咀嚼する.フォークが入るときのスポンジの弾力感の表現がとてもいい.画が全体的に丸っこいから,動きがとてもかわいらしく感じられる(紅茶を飲んだあとに口がすぼまるあたりも好きだ).いわゆる「ジブリ飯」のひとつであろう.

 

もうひとつは,2007年発売のニンテンドーDSのソフト『ウィッシュルーム 天使の記憶』である.地味な謎解きゲーなのだが,雰囲気がとてもよく,各登場人物の物語がおもしろくて,音楽も心地よい.一部で隠れた名作といわれていたりする.舞台は1979年のロサンゼルス,主人公は元刑事で今はしがないセールスマン,カイル・ハイド.三年前,警察を裏切った同僚のブラッドリーを銃で撃って以来,行方のわからない彼の消息を追い続けている.年の瀬のある日,カイルが仕事の依頼で訪れたのは荒野に一軒ぽつりと立つ寂れたホテル・ダスク.その215号室には,泊まる客の願いが叶うという噂があった…….というのがだいたいのあらすじ.夕食のシーンがあるのだが,カイルはリブロースステーキをきれいに平らげて満面の笑みを浮かべた(33歳である)あと,マスターからのサービスということで供された紅茶のシフォンケーキを,これまたおいしそうに食べる.皿を下げに来たローザにデザートの感想を尋ねられると,満足げな表情で「最高だ」と答えるのである.

 

閑話休題.映画のことだった.ネタバレを気にするかたはご注意ください.

未来のミライ - ネタバレ・内容・結末 | Filmarks よりあらすじを引いておく.

とある都会の片隅の、小さな庭に小さな木の生えた小さな家。ある日、甘えん坊のくんちゃんに、生まれたばかりの妹がやってきます。両親の愛情を奪われ、初めての経験の連続に戸惑うくんちゃん。そんな時、くんちゃんはその庭で自分のことを“お兄ちゃん”と呼ぶ、未来からやってきた妹・ミライちゃんと出会います。ミライちゃんに導かれ、時をこえた家族の物語へと旅立つくんちゃん。それは、小さなお兄ちゃんの大きな冒険の始まりでした。 待ち受ける見たこともない世界。むかし王子だったと名乗る謎の男や幼い頃の母、そして青年時代の曾祖父との不思議な出会い。そこで初めて知る様々な「家族の愛」の形。果たして、くんちゃんが最後にたどり着いた場所とは?ミライちゃんがやってきた本当の理由とは――

 

家族のアルバムをめくってみせるシーンがあるが,わたしのような,いまここだけを生きるのが得意でない人間にとって,昔からの写真が詰まったアルバムというのは魅力的な小道具に映る.それは一種の「生きてきた」ということの,手にとって見ることのできる証左であろう.もっともわたし自身は写真を撮られるのがきらいなので(魂が抜かれるから),文字に残すほうが性に合っているのだけれど.そして,くんちゃんにとってよりファンタジックな形で機能する「アルバム」があり,それが中庭に植わっている樫の木なのである.

 

彼には現実において数々のうまくいかないことが起こるが,そんなときに中庭へ出てくると,突如として家族がかつて生きていた過去へと時をこえる体験をする(未来のミライちゃんは正直さほど重要でないように思われる……).例えば,そうとうにしたたかで腕白な幼少の母とともに遊び,そののちに彼女が祖母にひどく叱られるのを聞く,そのことに関する共感と共苦.脚を負傷しながらも戦争を生き抜き,馬やバイクを乗りこなす曾祖父にたいする尊敬や憧憬の念.自らに近しいひとたちについて,こうした基本的な感情を抱くことにより,彼は現実の生活においてすこしずつ成長していく(ところで,共感という感情の構造には大いに興味がある.わたし自身が日常を生きることが,共感によって支えられる部分はかなり多いのではないか).

 

終盤,彼は「好きくな」かったミライちゃんの兄として生きること,すなわち家族の共同体に一員として参画することを決意する.樫の木のイメージを媒体として,綿々と紡がれてきた家族の歴史のページが次々に繰られていくが,このあたりの演出はすばらしいと思う(ただ,ミライちゃんの説明口調はいただけなかった).彼は,その無数の葉の一枚であることを自覚し,肯定的にとらえるのである.

 

樹木というものにはひとを惹きつける力がある.それは人間よりはるかに長い寿命をもち,またひとつところに根をおろして動くことがない.ということは,ある土地に居を構え,産まれては生き,死ぬことをくり返す血縁で結ばれた共同体と想像的に重ね合わせやすい.また,その相貌も特徴的であり,土地を貫流する血をしっかりとした幹が,積み重なる個々のエピソードを繁る枝葉が,それぞれ象徴するというような見方ができよう.伝統ある大樹ほど,それを見上げる者に,気の遠くなるほど永い時間の堆積を,一望のもとに把握させるような気持ちにさせる.それが樹木のもつ力ではないかと思う(こうして書いてみると当たり前のことだなあ).

 

最後に,大江健三郎の「雨の木」シリーズの最初の一篇『頭のいい「雨の木」』から長めの引用をとって終わることにしよう.

――「雨の木」というのは,夜なかに驟雨があると,翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて,雨を降らせるようだから.他の木はすぐ乾いてしまうのに,指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので,その葉に水滴をためこんでいられるのよ.頭がいい木でしょう.

 嵐模様のこの日の夕暮にも,驟雨がすぎた.したがっていま暗闇から匂ってくる水の匂いは,その雨滴を,びっしりついた指の腹ほどの葉が,あらためて地上に雨と降らせているものなのだ.パーティがおこなわれている斜め背後の部屋の喧噪にもかかわらず,前方に意識を集中すると,確かにその樹木が降らせている,かなり広い規模の細雨の音が聞こえてくるようなのでもあった.そのうち眼の前の闇の壁に,暗黒の二種の色とでもいうものがあるようにも,僕は感じた.

 そのように感じはじめてみると,ひとつの暗黒は巨大な徳利型のバオバブの樹のようであり,その暗黒のへりに底なしの奥へ落ちこんでゆくような,吸引力のある暗黒があって,そこにはたとえ遅い月の光があらわれても,山襞や海をふくめ,いかなる人間世界の事物も見出されぬだろうと信じられる,そのような暗黒.これは百年あるいは百五十年前,アメリカ大陸からここに移住してこの建物を作った者らが見た,その最初の夜の暗黒とおなじものだろう……,(略)