umindalen

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道化を演ること,サルトル『嘔吐』再読

 部屋を出て,約束通りに喫茶店へ向かった.タクシーに向かって右手を挙げ,煙草に火を点け歩いた.それからタクシーなど見てはいなかったが,それはまるで普通に客を乗せるように,私の前に停車してドアを開けた.少し面食らったが,自分が手を挙げたのだから,この状況は仕方なかった.そのまま車に乗り込み,大まかな行き先を告げた.運転手は私の言葉を聞くと,バックミラー越しにこちらを見,本当にそこでいいのかと,しつこく念を押した.それは多分,目的地が酷く近いためだった.私はそれでいいのだと,何度も言わなければならなかった.運転手は何かを呟いたが,諦めたのか,やがてアクセルを踏んだ.

 運転手は不機嫌な態度を変えようとしなかった.私は喫茶店の近くに病院があったのを思い出し,「子供が生まれそうなのです」と言った.運転手は一瞬私を見たが,しかし彼の態度は変わることはなかった.私はそれから,早産であることや,心の準備ができていないことを,にこやかに話した.しかし運転手は,まるで汚いものでも見るように,私の顔を見ていた.

 

中村文則『遮光』

 

先日の都内某所の集まりにて,友人とわたしと,それから初対面のかたとですこし話をすることがあった.わたしにとってはさして関心のある話題ではなかったから,あいまいにうなずいたり生返事をしたりしながら,他のふたりのあいだの空間へ見るともなく視線を泳がせ,ときおり思い出したように右手のコップに口をつけた.意外なことに友人のほうは興味をそそられたようであって,相手の説明に明朗な声で応じ,会話は弾んでいた.自分自身のことも適宜もちだしつつ,うまく話を引きだしているようであった.まあ,彼の専門になにほどかは関連しそうな領野のことでもあるしな,と思いながら,わたしは蛇蝎のごとくきらいなグローバルという単語がとうとう発せられるのを聞き,いよいよどうでもよくなっていった.

 

打ち解けた雰囲気で互いの情報を交換し,会話は幕引きとなった.友人はとつぜん「反省会をするぞ」とわたしに耳打ちすると,隅のほうへと歩いていった.訝しがりながらついていくと,彼は煙草に火をつけて吸い込み,ため息のように長く煙を吐き出して目を伏せる.わたしが「ああいうの興味あるんだな」と言うと,さきほどより思いきりトーンの下がった声色で,平然と「あるわけないだろ」と言い放って苦笑いするので,いささか面食らってしまったのであった.

 

まったくたいしたピエロだと感服してしまう.まともそうな人間を過剰ぎみの演技で欺くこと,それに一種の愉悦を覚えることは,わからなくもないが,わたしにはどうしても徒労に思われてしまってうまくできそうにない(そういうタイプだからこういう場でいろいろ書き殴るのだ).しかしながら,あれができればいくぶんかは社会生活がうまく送れるようになるだろうから,すこしずつ見習わねばなるまい.彼らの特徴のひとつとして,大まじめな顔でとんでもなく大胆な嘘が吐けるというのがあり,とかく状況を都合よく運ぶのに長けているから,羨ましいかぎりである.ぜったいにばれるだろうと(わたしなどは)思ってしまう嘘に,ひとは案外騙されるようなのだ.

 

ちょっと余談.わたしが初めて会ったとき,まるで『禁色』の南悠一のようだと(過去の記事にて)評したひとがいたが,彼も来ていて,(驚くべきことに)どうやらわたしの見立てはさほど外れてもいなかったようだと確かめることに相成った.というのは,ほぼ不能(らしい)で美青年の彼は,適当にそこらの女を引っかけては三島由紀夫が市谷駐屯地を占拠して自決した事件のことについてとうとうと話し,相手の顔にしだいに広がる困惑の表情をたのしんでいたらしいのである.そうとうに面の皮が厚くていい性格をしているなと思わされる.余談終わり.

 

上に引いた『遮光』の冒頭は,どうも座りが悪く奇矯な印象を与えてくる,すくなくともある種のおかしなひとでないと書けそうにない一節だ.わたしと友人とは,以前ここの「子供が生まれそうなのです」のところでげらげら笑っていた.この素っ頓狂な虚言は,彼にとってはほぼ完全に共鳴してしまう一言のようであった.ところで,中村文則サルトルの『嘔吐』が好きなようで,『遮光』の扉にもある箇所を引いている(白井浩司訳である).

一挙に私は人間の外観を失った.彼らは,非常に人間的なこの部屋から,後ずさりして逃げて行った一匹の蟹を見たのだ.

サルトルが唐突に書きつける「蟹」というワードは,メスカリン注射による幻覚の影響があるといわれるが,ユーモラスであると同時になにか暗喩をはらむようでいてたいへんおもしろい.友人が読みたがっていたがまだもっていないそうなので,このたびプレゼントすることにした.たのしんでいただければ幸いである.

 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 内容紹介:

20世紀フランス文学の金字塔、60年ぶりの完全新訳!
港町ブーヴィル。ロカンタンを突然襲う吐き気の意味とは……
一冊の日記に綴られた孤独な男のモノローグ。

 

わたしが初めて『嘔吐』を知ったのは,たぶん,物好きなひとは知っている,アンサイクロペディアのこのページであったように思う.

https://goo.gl/pU4O

 「秀逸な記事」のひとつである「読書感想文に書くと親呼び出しにされる図書一覧」であるが,見てもらえばわかるように,なぜかいまは『嘔吐』が入っていない(記憶にあった谷崎の『春琴抄』と『痴人の愛』,埴谷雄高の『死靈』もなくなっている).「安全」の判定がなされたのであろうか,それはよいことなのか悪いことなのか.おぼろげに憶えているかぎりでは,冗談めかした雰囲気で冷評されていたようが気がするのだが,個人的には実に魅惑的な文章の連なる作品であると思う.

 

『嘔吐』は真正の哲学者の手になる稀有な小説であり,サルトルはこうした文学的に薫り立つ文体をも高度に操ることができたのだなあと感心させられる.他のあらゆる問題の手前にある問題,その得体の知れないなにかにひたひたと精神を冒されてゆくひとりの男の手記の形をとる(とらざるを得ないだろう).さいきん身の周りでよく話題に上る一書なので,このあいだからちまちまと読み返している.学部のころに読んだときは,やや苦しみながら無理に読み通した感があったが,今回はゆっくりと進むにつれて身に沁みとおるような箇所がいくつも散りばめられていることを発見する.わたしは自身が時とともに変わっていくことなどまったく実感することができないが,本を読むことを通じてそれが感じとられることもあるようだ.ある種の語りにくいことがらを語ろうとする言葉にたいする感受性の変化,そういったものを知ることも読書の愉しみのひとつであるらしい.もっとも,『嘔吐』がおもしろくなることを素直に喜んでいいのかはまた微妙なところであるが(しかし,この喜びは他のなにものにも代えがたい).

 

まず,書き出しからしてわたしにとってはほとんど感動的である(鈴木道彦訳を用いる).

一番いいのは,その日その日の出来事を書くことだろう.はっきり見極めるために日記をつけること.たとえ何でもないようでも,微妙なニュアンスや小さな事実を落とさないこと,とりわけそれを分類すること.このテーブル,通り,人びと,刻みタバコ入れが,どんなふうに見えるのかを言わなければならない.なぜなら変化したのはそれだからだ.この変化の範囲と性質を,正確に決定する必要がある.

 

さて,どこかを引いて終えたいが,なかなかひとつに決めがたく,ページを繰っていると目移りしてしまう.まえのほうから,長くとることにしよう.

 しかし選ばなければならない.生きるか,物語るかだ.たとえば私がハンブルクで,あのエルナという信用のならない女,向こうも私のことを怖がっていた女と同棲していたとき,私は実に奇妙な生活をしていた.しかし私はその内部にいたのであって,それを考えていたわけではない.そうしたある晩,ザンクト・パウリの小さなカフェで,彼女が手洗いに行くために私のそばを離れたことがある.私は独りきりで席にいたが,そのカフェには蓄音器があって,「青空」がかかっていた.そのとき私は,下船してから起こったことを自分に物語り始めた.私はこう自分につぶやいた,「三日目の晩,《青い洞窟》と呼ばれるダンス・ホールに入って行ったときに,私は半ば酔っぱらった大柄な女に目をとめた.それこそ,いま私が『青空』を聴きながら待っている女であり,間もなく戻って来て私の右側に座り,私の首に両腕をまきつける女である」と.そのとき私は,自分が冒険を体験していることを激しく感じた.けれどもエルナが戻って来て私の横に座り,私の首に両腕をまきつけると,私はなぜかよく分からないが彼女が厭わしくなった.いまはその理由が理解できる.それはふたたび生きることを再開しなければならず,冒険の印象が消えてしまったからなのだ. 

 人が生きているときには,何も起こらない.舞台装置が変わり,人びとが出たり入ったりする.それだけだ.絶対に発端のあった試しはない.日々は何の理由もなく日々につけ加えられる.これは終わることのない単調な足し算だ.ときどき,部分的な合計をして,こうつぶやく,旅を始めてから三年になる,ブーヴィルに来て三年だ,と.結末というものもない.一人の女,一人の友人,一つの町との訣別が,たった一度ですむことは絶対にない.それに,すべてが互いに似ているのだ.上海,モスクワ,アルジェは,二週間もいるとどれもこれも同じになる.ときおり――それもごく稀にだが――現在の位置を確認して,自分は一人の女と同棲しているとか,厄介な話に巻きこまれた,などと気づくことがある.それもほんの一瞬のことだ.そのあとには行列が再開し,何時間,何日という足し算を人はふたたびやり始める.月曜,火曜,水曜.四月,五月,六月.一九二四年,一九二五年,一九二六年.