umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

夢想するユニバーサル横メルカトル

 しかし,たとえ私たちの過去が,現在の行動の必要によって制止されるので,私たちにほとんどまったくかくされているとしても,私たちが有効な行動の関心を去って,いわば夢想の生活にもどるたびごとに,それは再び識域を超える力を見いだすだろう.(中略)ある種の夢や夢遊状態における記憶力の「高揚」は,ごく普通に見られる事実である.この場合,消滅したと思っていた記憶が,驚くほど正確に再び現われてくる.私たちは,完全に忘れていた幼少時の光景を,こと細かにすべてまざまざと再び体験する.習ったことさえもはやおぼえていない言葉を語ったりする.(中略)

 自己の生活を生きるかわりに夢みるような人間存在は,おそらくそのようにして過去の生涯の数限りない詳細な事情を,あらゆる瞬間にその視界から洩らさないであろう.また反対に,この記憶力を,その全所産とともに斥ける人は,その生活を真に表象するかわりに,たえず演じているであろう.彼は意識をもつ自動人形のようなものであり,刺激を適切な反応へと受けつぐ有用な習慣の傾向に従うだろう.第一の人は特殊なものはおろか,個別的なものからさえも,金輪際はなれることはあるまい.彼は各々のイマージュに時間における日付と空間における場所をそのままあたえながら,そのイマージュが他と異なっている点を見て,似ている点を見ないであろう.

 

ベルクソン物質と記憶』,田島節夫訳

 

本を読んでいると,ときとして悦ばしき一節に出会うものだが,うえの引用もそうで,とりあえず引いてしまった.迫害される(いつもの一人相撲かもしれないけれど)側の人間としては,よくぞ言ってくれたと膝を叩きたくなるような言葉を日常的に服用しなければ生きながらえることは叶わないのである.わたしはだいたいいつも余計なことをばかり考えて,つまりは夢みて,いる.わたしは先のことを考えるのが不得手だ,だってそれは真にわからないものだから.わたしは過ぎ去ったもののほうにずっと惹かれるところが多いが,そもそも書くということがその性向を明らかにしてしまっているように思う.思考は容易にあちこちへ飛び,どれも語りにくいゆえにいつ立ち消えるかわからぬ儚いものだから,ネタになりそうな題が浮かんだら素早く輪郭をスケッチせねばならない(話しておもしろがってくれるのはけったいな友人だけである).こういうのはとくに意思にかかわりなくふっと始まるものだから,現実の生活のほうはどうしても中断されがちだ.例えばいま,なにかを調べようと思い立ち,ブラウザを開いてキーボードへ手を置く,そのあいだの数秒にも満たない時間に忍び込むまったく別の思考が,検索窓に打ち込もうとしていたワードを忘れさせる.これは厄介で,別のことは考えまい,と考えることもたいてい同じ作用をもたらすのだ.生きるためになされるべき行為はそれと意識されることなく,ごく自然になされねばならない.わたしは機械になりきって,すぐれてもの的に動かねばならない.考えたら,身動きはとれない.

 

 今朝,私は今日が日曜日なのを忘れていた.外出して,いつものように通りを歩いた.『ウジェニー・グランデ』を持って行った.それから,公園の鉄柵を開けようとしたときに,とつぜん何かが私に合図をしているような気がした.公園は人っ子一人おらず,むき出しだった.しかし……どう言ったらいいだろう? 普段と様子が違って,公園は私に微笑みかけていた.私はしばし鉄柵によりかかっていたが,それからだしぬけに,今日は日曜日だと悟った.目の前の木々や芝生の上には,軽い微笑みのようなものが浮かんでいた.とてもそれは描写できないが,せめて非常な早口でこんなふうに発音してみるべきだったろう,「ここは公園だ,冬,日曜日の朝だ」と.

 私は鉄柵から手を放した.市民たちの住む家々や街の方を振り返って,小声で言った,「日曜日だ」.

このまえ結びに長く引いた箇所のすこしあと,『嘔吐』の一節である.読み返してみると,実にいい場面だ.件の友人はここに対する感度が異様に高かった(たぶん,彼もそのうちことの消息について筆を執るだろう.それにしても,あれだけ舐めるように読んでくれるなら,こちらも贈った甲斐があるというものだ).わたしはまだ,自分に向けて物語りだすほど人格が遊離してはいないはずだ,と,こう書いていてだんだん不安になってくる.「あの」感覚はもしかして「それ」なのか? そもそも執拗に日記をつけるというのはそういうことなのかしら…….なるべく負担にならないよう,あまり構成を気にせず淡々とつづるよう心掛けているのだが. それにしても,わたしがほんのすこしでもとりこぼしたくないと願うすべての過去は,わたしの筆を容赦なくすり抜けては消えていく.往々にして,書かれたものは,残したかったそれではまったくない.

無数の死んでしまった話に対して,それでも一つか二つは生きた話がある.この生きた話をすり減らすのが怖いので,あまり頻繁ではないけれども,それでも私はたまに用心深くそれを思い起こすことがある.私はその一つを拾い上げて,背景や,登場人物や,彼らの態度などを思い出す.だがとつぜん中止する.それが摩滅するのを感じたためだ.私は感覚のつながりの下に,一つの言葉があらわれるのを見たのである.その言葉が,やがて私の好きなさまざまなイメージに取って代わるに違いない.私は直ちに中止して,あわてて別なことを考え始める.思い出を疲労させたくないのだ.しかし無駄である.次に思い出すときには,多くの部分が凍りついているだろう.

 

友人に(といっても,数回会っただけだが)歌舞伎町でバーテンダーのアルバイトをしているひとがいて,彼はベルクソンをやっている.『物質と記憶』を薦めてくれたのも彼だ.まえに一度,入り組んだ怪しげな細い路地を抜けつつ飲みに行ったことがあった.アイスピックで大きな氷が砕かれるのをおそらく初めて目の当たりにしたのであった(そういえば,まったく別件だが,このあいだは氷がナイフですーっと切られるのを見た,あれはけっこう感動的だ).歌舞伎町では本と映画の話ができれば通用するからおまえは大丈夫だよ,などと言われたが,それがほんとうなのかはいまもってよくわからない.もっとも,足を運ばないから確かめようもないのだが.ただ,あの日となりに座っていた初老の男性が異様に本に詳しかったのはよく印象に残っている.白水社からベルクソンの個人完訳全集が出たという話題が出ると,そのかたは mémoire と souvenir の訳語の選択がいささか不満だ,というようなことを話していたように記憶している.

 

先日,朝早くに目を覚まして,コンビニへ飲み物を買いに出かけた.よく晴れていたが,まったく暑くはなく,むしろ涼しい.空気も乾いていて快い.道へ出ると,強い風が立った.瞬間,秋が来たのだと直感した.わたしはその匂いを知っていた.ある匂いを想起することは,ある程度は可能だろう.このあいだ,驟雨が過ぎたあとの濡れた街路の匂いを,わたしはおぼろげに思い出すことができる.しかし,一年越しの季節の匂いはすっかり忘れ去られている.秋風はとつぜんに,否応なしに,わたしの記憶の深層を揺り動かしてそこへ光を当てる.この嗅覚に昔のなにがしかの体験が結びついている,というようなことがあるとプルーストっぽいのだが,残念ながらそういったエピソードはないようだ.

 

失われた時を求めて』は,一応もってはいる.かつて「スワン家のほうへ」の途中で挫折していらい,部屋のインテリアに成り下がったけれど.プルーストベルクソンに影響を受け,『嘔吐』にもまた,それらふたりの影が色濃く残っている.そういうわけで,関心が近い領域へ向きつつあるいま,そろそろ再チャレンジしてもよいような気がしている.ところで,これはけっこういい話だと(かってに)思っているのだが,わたしのもっている井上究一郎訳のちくま文庫全十巻は,むかしの恋人に誕生日プレゼントとして贈られたものである(こう書いていると,ちゃんと当時読むべきであったと感じる).「こういうのは,古い訳のほうがいいでしょう」というようなことを彼女が言っていた憶えがある.たしかに,決して読みやすくはないが,格調高い訳文であるといえるだろう.たぶん六千ページ近くあるけれど…….より詳らかに思い出してみたいのだが,当時はまだまじめに日記をつけておらず,手がかりがない.ともかく,souvenir を主題とするこの作品,とりわけわたしがまさに所有するその十巻セットは,わたしにとっての,過去のある一場面にまつわる un souvenir になったというわけである.

 

ふと思い出したが,プルーストの大作が小道具として登場する映画でわたしが大好きなのが,(『気狂いピエロ』は措くとして)岩井俊二監督の『Love Letter』である.これはほんとうにいい作品だと思うのでみなさんに薦めておきたい.しんしんと雪の降り積むなかの,静謐な冒頭のシーンは有名であろうと思う.

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どうでもいいこと.「秋波」という語がある.手元の明鏡国語辞典によると,「こびを含んだ色っぽい目つき」のことで,「秋波を送る」などと使う.「もと,秋の澄みきった波の意から美人の清らかに澄んだ目もとをいう」らしい.わたしは,こういう自分の気に入る,あるいは気にかかる語を見つけてはストックするのがひとつのたのしみである.

 

タイトルはとある小説のもじりだが,別になにか意味があるわけではない.ただ語感で決めただけである.終わり.