umindalen

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tranquilizer としての語学

すこしまえから,ほとんどすべて忘れたフランス語をやり直している.とにもかくにも,なにも余計なことを考える必要がなくて,かけた時間だけ成果が目に見えるもの,そういうものを無心にやっていようと思った.疲れたら積み上がっている本でもなんでも読めばよいのだ,そういうときなら,入ってくる活字を純粋に味わうことができるだろう.精神科でちんけな SSRI などもらって服んでいても仕方がない.フランス語はいいですよ,中世にフランス語から英語へ流れこんだ言葉は多いから,語彙にかんしては多少なりともラクができるし……(講談社学術文庫から翻訳が出ている,メルヴィン・ブラッグ『英語の冒険』はとてもおもしろいので薦めておく).

 

帰省したときに,テーブルの上に投げてあった木田元の『闇屋になりそこねた哲学者』を無聊にまかせて読み返していた.数年前に亡くなった現象学研究者のこの自伝は,戦後の混乱期から展けていく波乱に富んだ人生を伝えていておもしろい.そのなかで,大学での語学の勉強法に触れている箇所があるが,これがなかなかすさまじい.いま本が手元にないので,記憶を頼りに書くのを許していただきたいところだが,春先の数ヶ月間はひとつの言語を習得する期間と決め,来る日も来る日も根気よくずっとそればかりやって,ともかくも身につけてしまった,というのである.ハイデガー存在と時間』が読みたくて哲学科に来たのだからもちろん一年目はドイツ語だが,どうやらそれだけを読んでわかる類いの本ではないらしいということを悟り,二年目は古典ギリシア語,三年目はラテン語,さらに大学院に入ってフランス語を学んだ.木田さんに憑りついていた絶望感はこれによってかなり軽減され,精神が安定したという.哲学を始めるとまた絶望に襲われるようになった,とも書いていたが.

 

木田さんはたしか,似たような体験として坂口安吾にも軽く言及していたはずだ.こちらについては,ちょっと検索してやれば青空文庫がいろいろと出てくる.たとえば,『わが精神の周囲』から引こう.

私は二十一の時、神経衰弱になったことがあった。この時は、耳がきこえなくなり、筋肉まで弛緩して、野球のボールが十米と投げられず、一米のドブを飛びこすこともできなかった。
 この発病の原因がハッキリ記憶にない。たぶん、睡眠不足であったと思う。私は人間は四時間ねむればタクサンだという流説を信仰して、夜の十時にねむり、朝の二時に起きた。これを一年つづけているうちに、病気になったようである。自動車にはねられて、頭にヒヾができたような出来事もあったが、さのみ神経にも病まなかった。また、恋愛めいたものもあったが、全然幻想的なセンチメンタルなもので、この発病に関係があろうとは思われない。神経系統の病気は男女関係に原因するという人もあるが、真に発病の原因となるのは、男女関係の破綻が睡眠不足をもたらすからで、グウグウねむっている限りは、失恋しようと、神経にひびく筈はない。
 神経衰弱になってからは、むやみに妄想が起って、どうすることも出来ない。妄想さえ起らなければよいのであるから、なんでもよいから、解決のできる課題に没入すれば良いと思った。私は第一に数学を選んでやってみたが、師匠がなくては、本だけ読んでも、手の施しようがない。簡単に師匠について出来るのは語学であるから、フランス語、ラテン語サンスクリット等々、大いに手広くやりだした。要は興味の問題であり、興味の持続が病的に衰えているから、一つの対象のみに没入するということがムリである。飽いたら、別の語学をやる、というように、一日中、あれをやり、この辞書をひき、こっちの文法に没頭し、眠くなるまで、この戦争を持続する方法を用いるのである。この方法を用いて、私はついに病気を征服することに成功した。 

 

ところで,紙の辞書は書きこみつつ永らく使っているとだんだん愛着が湧いてきてたのしいものである.なにもする気が起きないときは,てきとうなページを開いて読んでいてもいい.三島の操るあの絢爛な語彙は,幼いころから国語辞典を読むことによって涵養されたものだと言われている.わたしは西脇順三郎が好きだが,斎藤兆史『英語達人列伝』によると,若いころに母語話者を驚嘆させるほどの英詩をものした彼は,中学生にして一冊の英和辞典のどこを訊かれても答えられないことはなかった,という.まあ,なにせわざわざラテン語で卒論を書いたひとなので,どんなとんでもない話があってもいいような気がしてしまうけれど.

 

おぼろげな記憶に依ってばかりでよくないが,憂鬱を振り払う手段のひとつは,誰も知らないような言語の,一生使うことのなさそうな単語を辞書でひたすら引くことだ,というようなことを書いていたのはエミール・シオランではなかったか(間違っていたら,誰か教えてください).それはともかく,ある程度のまともな辞書ならそうとうに細かな語彙まで載っているのがよいことで,別の語を引いているときにそれがふと目に入って気を惹いたりするのが(もちろん紙の話だが)愉快だったりする.このあいだは,英和に fortune cookie の項目があってすこし驚いた.おそらくその音の響きだけは誰でも(いやでも)知っているであろうが,まさか正式な語だとは(常識なのかしら).「(中華料理で出される)おみくじ入りクッキー.」(新英和中辞典)だそうである.このすぐあとで,アシモフの短篇集『黒後家蜘蛛の会2』を読んでいたところ,「省略なし」の話でフォーチュンクッキーが出てきておもしろかった.

 

さて,秋の仏検でも申し込むことにするか.終わり.