umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

地下室の手記

「やっとくたばりやがった.俺はこいつみたいに内面のないやつは嫌いだ.おまえに内面はあるか」

―映画『冷たい熱帯魚』より

 

暗澹として内向的になってきたので,どんなふうにものを書けばいいのかということについての感覚が戻ってきた.よいことだ.世の中には言葉の二重の意味においてしか喋ることのできない人間というのが存在している.いつも念頭に死ぬことばかりを置いて暮らすこと,これも一種のお守りであり,祈りである.文章は,書けそうだったら,たぶん書いたほうがいい.沈鬱なときに存外しっくりくるフレーズが浮かぶなどというのはよく言われること(直近だと,古井由吉『人生の色気』にそんな話があった).書くとは孤独のことで,かってに思いがけないところまで連れて行かれることだ.まったく想像し得ない価値の転換のごときものを,筆を走らせながら感じとることだ.決して書かれ得ないものを,逆説的に体験することだ.余計なことを考えないで済んでいると,日記にも「なにも書くことがない」以外に書くべきことがなくて困っていたのだ.わたしには日記の構成するささやかな全体性に賭けているようなところがあるというのに.(どうでもいいが,このまえ大学ノートの一冊をまた使い切った際に日記を読み返していたところ,昔のほうがずっと字が几帳面であった.見習いたい)

 

自分ひとりでの摂食がまことに不得手で,涼しくなってからの主食がインスタントコーヒーといって差し支えないのであるが,ここのところ満足に眠ることもできなくなってきた.たいして食べず眠らずでもわりあいふつうに生活できるのだ.夜を徹して迎えた明け初めのような妙な高揚感がつねに身体を満たしているように感じられ,常時ペースを保ってうまく活字を読み進めることができた.しかしとうとう揺り戻しが来たのかもしれない.いつも独りでいて,自分のためだけになにかをし続けなければならない,というような強迫観念は,よほどよい条件下でないと満足されることはない.けっきょくのところ,経験に照らしてみても,特定の気分はせいぜい数日間くらいしか持続しないのである.

 

心と生活の平穏をこよなく愛している.先のよく晴れて陽の烈しかった日,布団を干し終えて横になり,ベランダの向こうに高い蒼穹を眺めていたわたしは確かに幸福であった.それでも,たほうでなにか無茶苦茶なことがしたいとも思うことがある.一発芸などの場(あるのか?)でおもむろに手首を切り裂くとか.まあ,数ヶ月前に指先を削いでしまった件でもう怪我はこりごりだし,しょせんわたしにはできないことだけれども.世の中で狂的だと言われているような行為は,おしなべて完全に明晰な意識で,当人なりに限界まで計算され尽くして為されるものであろう.『罪と罰』にしても,老婆の頭へ斧を振り下ろすその瞬間に向かって,作者の筆はいよいよ冴えわたり,その心理描写にはほとんど慄然とさせられるものがある.人を殺さずしてこれが書けるのだろうかと,初めて読んだときに感じたのを憶えている.むろん,その後にどんなにおぞましく生々しいことが待ち受けているかというのは,また別の話である.

 

他人の私的生活などに継続的な興味様のものを抱き続けることが社会のコツであるらしいが,わたしにはあまり(さいきんは特に)自信がなく,すぐに本が読みたいな,というような気分がどこからか浸食してくる.もっとも,とち狂った話があればわりに喜んで聞くのだけれど.ひとのすくないところに隠栖して一生を辞書を引くことなどに費やしたい.そういうのがやはり人間のあるべき姿ではなかろうか.毎日えんえんと同じように,何のためでもなさそうな地味な作業を,一種の奇矯な情熱をかたむけて続けること.昔のひとたちがある特定のテクストに膨大な註解をつけたように.自らの身辺から遠く隔たったものごとにたいする憧憬の念を持ち,ほんのわずかであれそれに奉仕することができるというのは,喜ばしいことに思える.

 

さて,すこし毛色が異なるが,さして役にも立たない地味な仕事といえば,ニコライ・ゴーゴリ『外套』はわたしの好きな作品だ.官吏アカーキイは万年九等官,来る日も来る日も与えられた文書を一字一句たがえずに清書するだけの業務をこなしている.すこし長いが,次の一節などすばらしい.青空文庫より引く.

 ペテルブルグの灰いろの空がまったく色褪せて、すべての役人連中が貰っている給料なり、めいめいの嗜好なりに従って、分相応の食事をたらふくつめこんだり、また誰も彼もが役所でのペンの軋みや、あくせくたる奔命や、自分のばかりか他人ののっぴきならぬ執務や、またおせっかいなてあいが自分から進んで引き受けるいろんな仕事の後で、ほっと一息いれている時――役人たちがいそいそとして残りの時間を享楽に捧げようとして、気の利いた男は劇場へかけつけ、ある者は街をうろうろしながら、女帽子の品定めに時を捧げ、夜会にゆく者は小さな官吏社会の明星であるどこかの美しい娘におせじをつかって暇をつぶし、またある者は――これが一番多いのだが――安直に自分の仲間のところへ、三階か四階にある、控室なり台所なりのついた二間ばかりの部屋で、食事や行楽をさし控えてずいぶん高い犠牲の払われたランプだの、その他ちょっとした小道具といったようなものを並べて、若干流行を追おうとする色気を見せた住いへやってゆく――要するにあらゆる役人どもがそれぞれ自分の同僚の小さな部屋に陣取って、三文ビスケットをかじりながらコップからお茶をすすったり、長いパイプで煙草の煙を吸い込みながら、カルタの札の配られるひまには、いついかなる時にもロシア人にとって避けることのできない、上流社会から出た何かの噂話に花を咲かせたり、何も話すことがないと、ファルコーネの作った記念像の馬のしっぽが何者かに切り落とされたといってかつがれたと伝えられている、さる司令官の永遠の逸話をむし返したりしながらヴィストにうち興じている時――要するに、この誰も彼もがひたむきに逸楽に耽っている時でさえ、アカーキイ・アカーキエウィッチはなんら娯楽などにうきみをやつそうとはしなかった。ついぞどこかの夜会で彼の姿を見かけたなどということのできる者は、誰一人なかった。心ゆくまで書きものをすると、彼は神様があすはどんな写しものを下さるだろうかと、翌日の日のことを今から楽しみに、にこにこほほえみながら寝につくのであった。このようにして、年に四百ルーブルの俸給にあまんじながら自分の運命に安んずることのできる人間の平和な生活は流れて行った。それでこの人生の行路においてひとり九等官のみならず、三等官、四等官、七等官、その他あらゆる文官、さては誰に忠告をするでもなく、誰から注意をうけるでもないような人たちにすら、あまねく降りかかるところの、あの様々な不幸さえなかったならば、おそらくこの平和な生活は彼の深い老境にいたるまで続いたことであろう。

 

わたしはたとえば,千羽鶴を折り続けるなどして糊口を凌ぐことができぬものかと願っている.以上,またそのうちに.いつか死ぬみなさんへ,ロシアより愛をこめて