umindalen

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秋の土曜日,日記

目下のところ世界がわたしに対してたいそう親密であり,初めノートにさらさら書こうとしていたことを,なんとなくこちらへ認めようという気がしたので,そうする.大切なのはぼんやりとした全体の構想を揮発させないことだ.急げ.とりこぼすな.

 

よく晴れた秋の土曜日だった.たとえいささか眩しくとも,カーテンをすべて開けてしまうことにすこしもやぶさかでなかった.おまけに珍しく部屋が(わたしの基準で)きれいに片づいているのだ.それはとてもよいことに思われた.友人が久方ぶりに更新したブログを読んだ.それはある種の愉悦の体験であったし,そこで山下達郎の『DOWN TOWN』が言及されていることが,なんだかとても嬉しかった.この曲に関連してふたつ,紹介したい.

 

ひとつは,二年ほどまえに16巻をもって完結した石黒正数の名作コミック『それでも町は廻っている』である.アニメもおもしろいのだが,そのOPテーマが坂本真綾のカバーする『DOWN TOWN』なのだ.折に触れて読み返したくなる,よい作品です.

 

もうひとつは,むかし熱心に読んだ奥田英朗で,たぶんもっとも有名ではなかろうかと思われる伊良部シリーズ第一短篇集『イン・ザ・プール』である.しばらくまえに映画版を観たのだが,EDテーマで『DOWN TOWN』が流れたときに思わずテンションが上がってしまったのを憶えている.どのお話も痛快無比でたのしい.

イン・ザ・プール (文春文庫)

イン・ザ・プール (文春文庫)

 

 

さて,昼下がりから横になって,さいきん文庫になった小さな本のページを繰っていた.まえも書いた堀江敏幸の『その姿の消し方』である.表紙にはフランス語で副題のようなものが刷られており,それは "Pour saluer André Louchet: à la recherche d'un poète inconnu" となっている.猫も杓子もプルーストだ.

その姿の消し方 (新潮文庫)

その姿の消し方 (新潮文庫)

 

その句が示す通り,これは名を知られぬひとりの詩人を追い求めて展開する物語である.留学生の時分,「私」は古物市で一枚の古い絵はがきを手に入れた.時代がかった廃屋のごとき建物と,手前には朽ちた四輪馬車が写ったあまり見栄えのしない写真.消印は1938年だから,その時点で半世紀以上も昔のものだ.差出人の名はアンドレ・Lで,ある女性へ宛てられている.そして,几帳面な筆記体で十行の詩のようなものが綴られていたのだった.

引き揚げられた木箱の夢

想は千尋の底海の底蒼と

闇の交わる蔀.二五〇年

前のきみがきみの瞳に似

せて吹いた色硝子の錘を

一杯に詰めて.箱は箱で

なく臓器として群青色の

血をめぐらせながら,波

打つ格子の裏で影を生ま

ない緑の光を捕らえる口 

 ふたたび彼の地を訪い,アンドレに縁のある人々と関わるなかで描き出されてゆく,「詩人」の肖像とは.もう一箇所だけ引いておく.なんとも幸せを感じさせてくれる文章ではないか.

 ルーシェにとって絵はがきの文言は,向こうとこちらのあいだにあって,どちらかへ比重を移すことを目論むものではなかった.生活があり,戦争があり,女性名の名宛人がいて,家族もいる.そのような全体に組み込まれたものとして彼の言葉はある.それでも,読むたびにルーシェの言葉が私のなかに見出すのは,最終的には片恋に似た場所だった.片恋とは対象を特定しない心の吐き出しである.脳裡に浮かんだ想いを,彼はただ吐き出していただけなのかもしれない.吐き出したいだけなら,日記や手記に綴って筐底に収めておけばいいのだが,彼はそれを選ばなかった.読み手を,受け取り手を頼った.読んでくれる相手があったからこそ絵はがきに言葉を綴り,名宛人の住所氏名を記し,切手を貼って投函したのだ. 

 

陽の暮れつつあるころ,開け放たれた窓の外からぽつぽつと雨の落ちかかる音がした.それは次第に勢いを増し,やがてバケツをひっくり返したように降り出した.いくどか稲妻も光った.ガラス越しにくぐもった音を聞きながら,わたしはもっと,もっとずっと強く降ればいいと思っていた.向かいで,おそらく小学生くらいの男の子が鍵を忘れたかなにかで家のなかへ入れず,ずっとお母さん,と呼びかけていたのはいたたまれないことではあったが.出かけていく時刻になっても,依然として降り続いた.傘を差していったが,しばらく歩いて忘れものに気がついて引き返した.ふたたびドアを開けたとき,雨はもうほとんど止んでいた.

 

ふだんあまり用事のない東京の西のほうでささやかな酒席があった.ワインをボトルの半分ほど飲んで,とても気分がよかった.予想のできないことはあるもので,ロラン・バルトがしばらく話題に上ったのだった.わたしは『恋愛のディスクール・断章』が好きで,これだけは手元にもっている(『明るい部屋』も,もうすこし安価に手に入らないものか……).恋愛にまつわる多種多様なテーマの複雑な諸相を,自在な引用を交えつつ鋭く分析してみせる筆致が魅力的だ.

恋愛のディスクール・断章

恋愛のディスクール・断章

 

断章形式だからどこをどう拾い読みしてもよいのだが,たとえば「不在」からひとつ(上の本と関連するかもしれないようなものを)引いてみよう.

 不在の人にむけて,その不在にまつわるディスクールを果てどなくくりかえす.これはまことに不思議な状況である.あの人は,指示対象としては不在でありながら,発話の受け手としては現前しているのだ.この奇妙なねじれから,一種の耐えがたい現在が生じる.指示行為の時間と発話行為の時間,この二つの時間の間で,わたしは身動きもならない.あなたは行ってしまった(だからこそわたしは嘆いている),あなたはそこにいる(わたしがあなたに話しかけているのだから).そのときわたしは,現在というこの困難な時間が,まじり気のない苦悶の一片であることを知るのだ.

 不在が続く.耐えねばならない.そこでわたしは不在を操作するだろう.つまり,そうした時間のねじれを往復運動へと変形し,律動を生み出し,言語活動の舞台を開くのだ(言語活動が不在から生まれる.子供が糸巻きを人形に仕立て,ほうり出しては拾いあげて母の出発と帰還を真似る.ひとつのパラディグムが創り出される).不在が能動的実践となる.ひとつの多忙(わたしがほかのことをするのを妨げる)となる.数多くの役割(懐疑,非難,欲望,憂鬱)をそなえたフィクションが創り出されるのだ.そうした言語的演出は相手の死を遠ざける.子供がいまだに母の不在を信じている時間と,すでに母の死を信じている時間を隔てるのは,ごく短い瞬間だという.不在を操作するとはこの瞬間をひきのばすこと,相手が不在から死へと冷淡に入りこむあの瞬間を,できる限り遅らせようとすることなのである. 

 

帰ってきてから山下達郎を気ままにあれこれ聴いていたら,『メリー・ゴー・ラウンド』にはまってしまったので,ずっと流しながらこれを書いていた.名曲である.夜が深まるにつれて,わたしのような人間でも生きることを許されているように感じられてきて落ち着く.ところで,こういうタイトルのつけ方って「積みわら,日没」みたいでよくないですか.そうでもない?そう…….