umindalen

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言葉への讃歌

いつの間にこんなことになってしまったのか,というのはつねに見当のつかない困った問いであるが,本のページを繰っていてふと,やはりわたしは文字のひとつひとつから一冊の書にいたるまで,いろいろなスケールで言葉というものが好きなのだなあとしみじみ感じたので,うまくいくかわからないが,書き留められるだけのことを書き留めておく.そのときどきの接し方は異なってゆくにせよ,人間はなにかひとつくらい,こころから愛することのできるものがあるにしくはないだろう.

 

泉鏡花は,ほんのわずかであれ文字の書かれたものはなんでも大切にしたといわれる.さらには指で空に書き順をなぞったあとは,必ずそれを掃き消すしぐさをしたとも.そこまで極端ではないにしても,わたしも書物はもちろんだが,岩波の「図書」の冊子などもどうしても手放すことを躊躇してしまう.刻印された文字というのは魔術的なもので,そちらへ視線を向ければ読めと誘い,その力には抗いがたく,否応なしに読まされてしまう.そこにはなにか,こことは別の次元でもうひとつの世界が立ち現れる.わたしはできるだけそれを失いたくないと願うのかもしれない.

 

まえも触れた西脇順三郎だが,彼は親族のだれかに英語を教えることになったとき,まず初めに教科書を「嗅ぎなさい」といったという.本はただ手にとって読むだけのものというわけではない.その持ち重りをたしかめ,ためつすがめつし,揃っていたりいなかったりする天を指先でなぞり,てきとうなページを開いてすべらかな表面を撫でてみ,その字面をうっとりと眺め,両の頬をあててのどを嗅ぐのである.わたしはできるだけきれいに保っておきたいと思うから,書店でかけてもらったブックカバーがなかなか外せない.教科書や参考書のたぐいは思い切りよく汚してしまうこともあるけれど,基本的になにか書きこむのもためらわれる.

 

本のページが一枚の絵画のように美しくみえることがある.全体を一様に眺めているというわけではなく,見ているのはいつも数センチ平方くらいの領域であるような気がする.どこへ目を向けても漢字とかなのバランスがよく,平面に心地よい強弱が生まれている.漢字は美しい,白の地に黒々と自身を強調するそれは瞬時に鮮烈なイメージを喚起させてくれる.それらのあいだを,ひらがながゆるやかにつないでいる.いくつかのひらがなの連なりはなんともいえず優美で,やわらかい.読書の現場にもさまざまあるのはいうまでもないことだが,本好きとしては,こうした言葉の小さな単位がおのおのの魅力や心地よさをまとって立ち現れる経験を大切にしたい.テクストの愉悦はつねに細やかな部分より成る(ついでにこれは文句であるが,上のように視覚的な美もまた読書の欠くべからざる要素である以上,活字の組み方はきわめて重要である.文字のサイズが大きくなり,行間が狭く感じられるとどうにも字面に品がなくなる.ただ見やすければよいというものでもない)

 

おわかりいただけると思うが,こういう読み方をしてしまう場合に話の筋を追って先へ先へ読み進めることなどまずできない.意味と形のあいだを読むかのような状態はとてもたのしく,かってなところをめくって数行をゆっくり咀嚼するだけでも満足してしまう.詩集を手にとるというのも一興だが,ここでは古井にしよう.手元の『鐘の渡り』より,てきとうな箇所を引く.ひらがなの流れは,ほんとうはもちろん縦に書くほうが映えるのだけれど,やむを得ない.

 ――見る目にも耳にもすさび遠ざかり

     冬の林に水こほる聲

 老いれば見るものにつけ聞くものにつけ興の薄れるのは自然のことであるのに,あながちに興をもとめる.興にまかせることのならなくなった身をわきまえず,興から隔てられていくことに心やすからず騒ぐ.今の年寄りのまずしさである.老いの面白さは興の尽きかけたところにあるはずなのに.

《耳にも遠ざかり》を《水こほる聲》を受けたのは,絶妙な付けである.寒夜の老体の,すさびに遠ざけられた耳にして初めて得られる,明聴を思わせられる.森羅万象の上へはるかにひろがっていきそうな明聴である.この句を詠んだ宗長は当時まだ男盛りの年にあったそうだが,少年から老年まで,生まれる前から死んだ後まで,今この時においてわたるのが,歌の心というものか.

 それにしても,水の凍る声とは,何なのだろう.よけいな訝りなどをさしはさまずに,音にも立ちそうな寒気の蹙りを聞き取っていればよさそうなものを,なにやらしきりに我身の既知感を,いつか耳から染みて目に浮かべた光景を誘い出しそうになる.生涯くりかえし寝床から聞いたような気もしてくる.そんな林をすぐ近くに控えたところに住んだこともない.

 枯木の林を渡る風の運んで来る音ではないようだ.風はやんでいる.ついさっきまで霙が吹きつけていた.その静まったあとの,天が抜けたか,刻々と冴えていく中から,小枝の弾ける音が立つ.遠くまで風の吹き返しのように渡っていく.おそらく樹皮の傷に染みこんだ水滴が氷点の境から,罅を押し分けて氷結する音なのだろう.風に堪えてきたのがいまさら折れて,地に落ちる小枝もある.

 

気に入ったところがあったら,わたしは声に出して読むのも好きだから,けっこうひとりでブツブツやっている.幼少期から漢文の素読が身体に刷りこまれていた時代から,大切なことがそんなに変わっているはずもない.音の響きを意識すると,文章のリズムのよしあしがよりはっきりとわかる.詩歌の鑑賞にせよ外国語の学習にせよ,馬鹿みたいになんどもくり返して音読することである.まあ,そんなことばかり考えていると,修論も文章の巧拙ばかりが気にかかって,一向に書き進められなくなってしまうのだけれども.

 

生活のことをすこし.友人が家にやってきて,ふたりでビーフシチューを作ってワインを飲んだ.ひとを自室に上げたのも久方ぶりのことだ.わりにきちんとワイングラスの手入れをしておいた.背の高いグラスは(ふだんの置き場には困るけれど)曇りなく磨きあげることができると見栄えがしてよい.赤ワインはいくらでも飲むことができるなあ,酒量が減ったなどというのもたぶん嘘なのではないかと思う.そのあとはなぜか漢字の書きとりで勝負をしていた.ふだん手で字を書く機会がすくないと常用漢字もなかなか正しくは綴れないものである.みなさんもやってみてはいかがでしょうか.