umindalen

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春景色,野火,夢の浮橋

 丙さんはまだ携帯をほっかむりにはさんだまま,じぶんの椅子の切断を開始し,丁さんも,丙さんがやるじゃあ,おれもやらねえわけにゃあいかねえやなあ,と椅子の背を切り始めた.

  丁さんにのこぎりを押しつけられ,大きく息を吸ってから椅子を片手で持って歯をあてた.水分が抜けきっているゆえか,材は発泡スチロールと同程度の歯ごたえで切断できた.

 解体した椅子を,上蓋を開けたストーブにくべると,いっとき炎が勢いを増し,ゆるやかな円陣を組んで立つみなが闇のなかに浮かんだ.いずれもほの明るい顎から口もとのあたりがゆるみ,静かに微笑んでいるようだが,鼻より上は闇に溶けてしまって,顔全体の表情が読み取れない.

 火勢が衰えるにつれて,顔ばかりでなく,からだそのものが雪と闇に侵食されてゆく.

 椅子の材がすべて燃えつきるころ,あたり一面深い雪におおいつくされ,小屋の跡は消えた.

 

南木佳士『小屋を燃す』

 

がんらい丈夫な祖母であるが,しばらくのあいだ入院せざるをえなくなったということで,三月の初旬に帰省して,ちょくちょく病院へ見舞った.突然に環境が変わりずっと病室のベッドに臥せっているほかなくなって,どうしても記憶の混濁がひどくなりがちのようであった.いわゆる現実をもう一方の側におくとき,どちらかといえば祖母の肩を持ちたくなってしまう.わたしも昨日と数十年前のある日との違いはよくわからないし,ひとがいないことと死んだこととの違いもあまりはっきりしないからだ.ところで,誰しも旅先などでふだんと異なる寝床に休んだとき,目を覚ましてみてしばらく自分がどこにいるのかわからなかった,という経験があるだろう.あの「わからない」数瞬間ほどたのしいものもないのではないか.

 

思い返してみるとそれなりの日数にわたって実家に帰っていたことというのは,ここ数年間でもほとんどなかったような気がする.わたしの小さかったころと比べて,平屋からはごたごたしたあれこれのものが片づけられてずいぶんすっきりしてしまったし,ひともいなくなった.日中,家にいるのはわたしだけだ.もう祖母の友人がひょっこり訪ねてくるようなことも,数年前から絶えてなくなったのだろう.かろうじて来たのは,怪しげな絵葉書の訪問販売だけであった(あの暮れてすでに暗い時分には冷たい雨が降っていた,ご苦労なことである).近所をふらふら歩いてみたって,ほとんど誰のかげを見かけることもない.

 

いかに暦の上で春とはいえ,まだまだ朝夕の冷え込みは厳しい.ことに日本家屋というのは寒い時節を想定している建築ではないのだ.座敷のこたつに入ってひとり座っていると,頬を撫ぜる冷気が判然と感じられるようだった.それに,そこらじゅうに本やら衣類やらが散らばってせせこましい東京の自室とはまったく対照的に,ここにはなにもないのである.左手のもうひとつ奥の座敷にも,右手の廊下にも,前の縁側にも,なにもない.ひえびえとしてどこかそらぞらしい,高い天井を風がよく吹き抜けていきそうなこのがらんどうの空間のように,ひともまた消えていくのかもしれない.それはそんなに悪くはなさそうに思える.

 

実家では戸を開けて一歩外へ足を踏み出すととてもいい香りがする.草木と土の匂いなのだろうか.陽が心地よく差している.庭をぐるりと回ってみると,梅の木は白いのも紅いのもきれいな花をつけており,ほとんど枯れているのではないかと思われるような乾いた紫陽花の枝から新しい芽が吹いている.それにしても静かだ.竹の葉が風にそよいで擦れるさらさらという音に,ときおり幹どうしがぶつかるのだろうカンコンいう響きと,鳥がさえずるのがまじる.ほかになにも聞こえない.昔からものが燃えるのを眺めるのが好きで仕方がなかったわたしは,庭の片隅に新聞紙の切れ端を丸めてこころみに火をつけてみたけれど,ただただ立ち昇る煙が目にしみるばかりで,紙面上にできた橙に光る線はゆっくりと活字を飲みこみ,濃いねずみ色の版図を拡大していくそばから,もろくも崩れて散った.

 

春らしい葉物の季節である.蕪や菜の花,それと豆腐や油揚げを買っていってかんたんに煮浸しなどを拵えた.こういうものがやたらと食べたくなることがあるのだ.お酒もあればいうことはない.偶然に目にした,某が言及していた辻潤の一節がよかった.

毎日食ってあきないのは豆腐だ.ただし湯豆腐に限る.薬味は勿論なくてはならない.ソバと豆腐に薬味がなかったら食わない方がいい.二日酔いの朝ビールを一本まず飲んで,湯豆腐で酒を呑む位うまいものはない.

まさに,世に湯豆腐ほどうまいものは他にない. 

 

夜,床に就いてもうまく寝つけないことがしばしばあった.なにか得体の知れない不安めいたものにとりつかれ,心臓がやや早く拍を打つ.ここはひとが消えてゆく地だ,というような感覚があって,それがすこし恐ろしいのかもしれない.また,いつも自らの手足の延長のようにとらえられているコンパクトな都心の部屋が,突如として真っ暗で大きな田舎の家屋にすり替わり,さらにその外側にもひたすらに闇夜が続いていることが耐えがたいのかもしれない.あるいは,別にひとが同じ屋根の下に眠っていることも少なからず影響していそうだ.人間と現実において近づき,関わりを持つとき,相手は必ず肉体性をともなって現前するが,どうもその肉体の脆弱さ,儚さを意識してしまうところがわたしにはあって,それがやや苦手なのである.まあ,そういうときはなんでもいいからペンを執るにかぎる.

 

夢日記」というのはけっこうおもしろいもので,昔の日記の一ページにたまたま書き留められたきれぎれの断片を目にすると,おぼろげな夢の内容物を想起することができる.わたしは夢を見るのが好きだ.夢はいつも懐かしい.愉快な夢も,悪夢でさえも好きかもしれない.その感触は醒めるや否や失われてゆき,あとには存在しえなかった幼少期の思い出のようなものだけが残る.わたしは浅い眠りの波間をたゆたうだけで,そこになにもなかった(実に,なにもなかったのだ!)過去の記憶を捏造することができるのだ.夢のなかでは自分の身体はないかのようであり,わたしの感覚だけがあるようだ.そしてわたしが感覚するのは名づけられることのない,どこでもない場所であり,いくつかの数字で指定されることのない,いつでもない時間だ.そこにあってわたしは初めて,決して誰であることもないような,権利を得ることができるのである.