umindalen

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黒田夏子『abさんご』

わたしがなにかを書こうとするのをためらうのは,自分の日本語が不自由であることを認めたくないからであり,思い描いている(ように思える)ことの十分の一も扱いきれないことに気づきたくないからであり,文面の紡がれるそばから内心で「嘘だ」と突っ込みたくないからであり,そもそもこんな後ろ暗い犯罪めいたことはしたくないからである(文章を書く人間というのはほとんど犯罪者すれすれなのだということはもっと周知されてもいい).でもまあどうでもよろしい,毎度言い訳から入ってもしようがない.書いてみないことにはわからないのだから.

 

この世界には外堀から着実に埋めていくような仕方でしか,いわば迂回するようにしてしか語れないことがらがたしかにあり,わたしはそういうものにしか興味がない.日記をここにしるすというのはひとつの手なのだと(いく人かの例を浮かべて)思うけれど,ふだん書き散らしているページをぱらぱらとみるだけでも,ちょっと人目にさらすに堪えるものはできそうにない.負荷がかかりすぎる.あるいはこういうところである種の大きな心理的転換が必要なのかもしれない.身辺のことをつづるにせよ,どちらかといえば毅然とした,冷たく突き放す視座に貫かれたものがいいと(他人のそういう,わたしの考えるところの理想的な文章に触れるたびに)思う.あとは偏執的に,ひたすらにしつこく書くこと.フラクタルの奥へ奥へと進むように,終わることのないディテールの描写を連ねる.あるいは,どこへ向かうのか見当もつかない,あてのない脱線と寄り道とをくり返す.あまり見目麗しくない長たらしいパッチワークが,どこかで質的な変容を遂げることがあるかもしれない.ともかく,当座は気ままに引用を連ねることにしよう.なにかしらを書くことを念頭において読むのはなんだか気が重くなって煩わしいし,思うようにはいかないものだ.

 

昨年の末,友人のそのまた友人がしたためたという百枚ほどの小説を読ませてもらう機会があった.そんなに簡単に読み飛ばせるものではなかったが,実家に持ち帰って年明けにかけてとりあえず読み通した.全篇にわたって散文詩のごとくに綴られたふしぎな文章は,これが的を射た形容であるともあまり思われないが,マグリットの絵画のなかにいるかのようでもあった.独特なしかたで多く用いられるひらがなや,ところどころにみられる破格らしい表現,読点によって息長く連ねられたひとつのセンテンス.読み進めるうちに脳裡に浮かんできた作品たちのうちで,わたしがもっとも強く思い起こし,共鳴するように感じたのが黒田夏子の手になるものであった.

 

abさんご

abさんご

 

内容紹介:

史上最高齢・75歳で芥川賞を受賞した「新人女性作家」のデビュー作。蓮實重彦・東大元総長の絶賛を浴び、「早稲田文学新人賞」を受賞した表題作「abさんご」。全文横書き、かつ固有名詞を一切使わないという日本語の限界に挑んだ超実験小説ながら、その文章には、「昭和」の知的な家庭に生まれたひとりの幼な子が成長し、両親を見送るまでの美しくしなやかな物語が隠されています。ひらがなのやまと言葉を多用した文体には、著者の重ねてきた年輪と、深い国文学への造詣が詰まっています。
著者は、昭和34年に早稲田大学教育学部を卒業後、教員・校正者などとして働きながら、半世紀以上ひたむきに「文学」と向き合ってきました。昭和38年には丹羽文雄が選考委員を務める「読売短編小説賞」に入選します。本書には丹羽から「この作者には素質があるようだ」との選評を引き出した〝幻のデビュー作〟ほか2編も併録します。
しかもその部分は縦書きなので、前からも後ろからも読める「誰も見たことがない」装丁でお送りします。
はたして、著者の「50年かけた小説修行」とはどのようなものだったのでしょうか。その答えは、本書を読んだ読者にしかわかりません。文学の限りない可能性を示す、若々しく成熟した作品をお楽しみください。 

 

一番はじめにとくに深く考えることもなく手にとって読んだ黒田夏子の本は,文春文庫の『abさんご・感受体のおどり』であったが,これはもうだいぶまえのことで,いつであったかはもはや定かでない.上に書いたような事情があっていまふたたび,七十五歳にして早稲田文学新人賞および芥川賞を受賞したこの女性作家の出版されている本を調べてみると,単行本の『abさんご』には著者二十代の三短篇が合わせて収められていると知った.さっそく入手してみると,帯には蓮實重彦川上未映子のコメントの抜粋が並んでいる.前者の選評はウェブ上で読めるので,リンクを貼っておく.

http://www.bungaku.net/wasebun/info/absango.html

また,帯への抜粋箇所を含む結びの段落を引いておこう.

「abさんご」は、あくまで横書きで書かれ、あくまで横書きで読まれるべき作品であり、ごく素直にたどれる語彙や構文からなっているとはいいがたい。とはいえ、ここでは、読む意識への言葉の無視しがたいさからいこそが読まれねばならない。誰もが親しんでいる書き方とはいくぶん異なっているというだけの理由でこれを読まずにすごせば、人は生きていることの意味の大半を見失いかねない。そうと名指されてはいない「昭和」の核家族の歴史が、それを「小児」としておぼつかなく生き始めた者の言葉として、初めてそれにふさわしく書かれた貴重な作品として、多くの人に向かって、そのことの意義を強く主張したいと思う。ここには新人賞の当選作という以上の作家的な力量がこめられており、選者としては、そのことに「驚き」を超えた悦びと怖れをいだいた。

 

ところどころで「ため息」を吐きつつふだんよりいくらかしっかりした紙のページを繰っていると,ハードカバーを手に入れてよかったとしみじみ感じられた.とうのむかしに使い古された比喩を用いるなら「宝石のよう」な文章というのはそれに見合うくらいの媒体で贅沢に読まれるべきだからである.上のリンクから作品の冒頭部に目を通すことができるから,そのすぐあとの〈しるべ〉より引用してみる.

 死者が年に一ど帰ってくると言いつたえる三昼夜がめぐってくると,しるべにつるすしきたりのあかりいれが朝のまからとりだされて,ちょうどたましいぐらいに半透明に,たましいぐらいの涼しさをゆれたゆたわせた.そのほのじろいものは,はじめのころ五つだったろうか六つだったろうか,どちらにしても死者があってのちに住みうつられた小いえには過剰な数だったが,死者が新しかったうちは贈りぬしも新しく,どれとどれをつるすかを決めまようよりは,干すことをかねてあるだけつるすほうがかんりゃくだったにちがいない.二つか三つは,花やせんこうをそなえる台のわきにおけるような,組みたて式の吊り具を付随させていた.あとはざしきとえんがわとのくぎりのあたりに掛けならべられた.

 ごくうすい絹だったか紙だったか,あるいは絹のも紙のもあったのか,卵がたのも球にちかいのも,淡い水いろをおびたのもそうでないのも,上下の木わくが黒く塗られたのも白木に小菊がえがかれたのも,おもりにさがるかざりぶさは紫のぼかし青のぼかし,もしかしたらぜんぶ白いのも記憶をぬけおちたべつの色のもあったかどうか,その欠落はだれかがわすれたというのではなくて,それら夏の宵そのときにもだれにも見さだめられないままであった.そのならわしがくりかえされなくなる夏がくることに,ひらたい,どこかすこしよごれてどこかすこしつぶれた厚がみの箱が高い戸棚のおくからおろされて,しぜんにたたみこまれる構造のきわめて軽いつつ状のうつろがかすかな前年の夏の匂いとともに身を起こすことのない夏がくることに,だれもがまったくうかつであって,そのときぜひ見さだめつくさなければとはおもいおよばれなかったからだ.

 

ひらがなへ開かれることで美しい円みを帯びた響きがつづりから匂い立つかのような語がいくつもちりばめられているのもさることながら,一文の長さもかなり特徴的に感じられる.すこし試してみるとすぐにわかるが,句点を打たずに語りをずうっと引き伸ばしていくのは難しい.誰だって一読したときに誤る余地なしに文意の通るよう書くことに慣れきっているのだから.すっと目で字を追ってもよく意味がわからない,何度か前後を往復してみて文の構造がはっきりして,ああそういうことかと理解する,しかしその内容は一瞬ののちにはすでに漠としていて,腑に落ちる感じはしない.あたかも酔っているようで,部分をたのしむことはいくらでもできるけれど,いつまでも全体が明確な像を結びそうもない.そういう「わからなさ」に語りの魅力はひそむ.

 

「お話」の好きなひとは多いが,より手前に現れる言葉そのものに関心のあるひとはずいぶんすくないみたいである.わたしの場合は,比重はだいぶ後者の側に寄ってきているのだと思う.どんなプロットも,それを聞くだけではさほど魅力的には感じられない.どこかで耳にしたような,現実のある一部を切り取ったテーマや,ざらざらした手ざわりのしそうな設定などまったく必要ではないのだ,作品の世界はただひとえに文体の力だけで立ち上がることができるのだ.それは内容を持たず,なにについて書かれたわけでもない,生き方や公衆道徳といった手垢にまみれたものにすこしも寄与するところのない,言葉の連なりの妙を崩してしまえばあとにはなにも残ることのない世界だ.お話を求めて読むひとには間違いなく苦痛を与えるであろう文章というのがある.わたしはそもそも文字を読むこと自体が愉しいので,よほど耐えがたいものでなければたいていどんなものでも,表面だけをなぞるように進んでいけるような気がする.その途上にふだんあまり見かけないたぐいの仕掛けや試みがなされていると,実に喜ばしい.

 

事実を伝えるため(だけ)の文章ならば,平明でよく馴れ親しんだ表現を用い,論理の流れがくみとりやすい構成になっていることが望ましい.新聞や教科書の言葉は,いってみれば日常的であり,ごく「近しい」文章である.一方でわたしが小説などのフィクションを読むとき,それと自分とのあいだになんらかの「遠さ」を求めているように思う.だからすこし目を通してみてあまりに「近い」とどうにも読み進められない.どんなふうに距離がとられているのか,についてはもちろん作品の状況設定そのものも含まれるけれど,言葉の使われ方はかなり大きなファクターになっている.ある一定以上の昔に書かれたものはそれだけでずいぶん文章の調子が違ってくるし,洋書の邦訳もある種の独特な日本語になっておもしろい,ここは原文ではおそらくこう書かれているのだろうなどと推測したりするたのしみもある(原著の途方もなく大きな隔たりには挫けそうにもなるが,文法などの純粋な形式や音の韻律といった「表層」が浮き彫りになるという点においてむろん魅力的である).ひるがえって,日々書店の店頭に並び続けている現代の作品の字面に心地よい遠さをみてとるのはそう容易なことではない.このあたりにはいぜんも一度触れたように活字の組まれ方なども影響してくるから,十把一絡げに断じてしまうわけにはいかないが.しばしば「固有の文体」というような表現がなされるけれど,日常的な言葉遣いを離れて自らの強靭な散文を練り上げるのがいかに困難なことかがよくわかる.