umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

黒田夏子『abさんご』

わたしがなにかを書こうとするのをためらうのは,自分の日本語が不自由であることを認めたくないからであり,思い描いている(ように思える)ことの十分の一も扱いきれないことに気づきたくないからであり,文面の紡がれるそばから内心で「嘘だ」と突っ込みたくないからであり,そもそもこんな後ろ暗い犯罪めいたことはしたくないからである(文章を書く人間というのはほとんど犯罪者すれすれなのだということはもっと周知されてもいい).でもまあどうでもよろしい,毎度言い訳から入ってもしようがない.書いてみないことにはわからないのだから.

 

この世界には外堀から着実に埋めていくような仕方でしか,いわば迂回するようにしてしか語れないことがらがたしかにあり,わたしはそういうものにしか興味がない.日記をここにしるすというのはひとつの手なのだと(いく人かの例を浮かべて)思うけれど,ふだん書き散らしているページをぱらぱらとみるだけでも,ちょっと人目にさらすに堪えるものはできそうにない.負荷がかかりすぎる.あるいはこういうところである種の大きな心理的転換が必要なのかもしれない.身辺のことをつづるにせよ,どちらかといえば毅然とした,冷たく突き放す視座に貫かれたものがいいと(他人のそういう,わたしの考えるところの理想的な文章に触れるたびに)思う.あとは偏執的に,ひたすらにしつこく書くこと.フラクタルの奥へ奥へと進むように,終わることのないディテールの描写を連ねる.あるいは,どこへ向かうのか見当もつかない,あてのない脱線と寄り道とをくり返す.あまり見目麗しくない長たらしいパッチワークが,どこかで質的な変容を遂げることがあるかもしれない.ともかく,当座は気ままに引用を連ねることにしよう.なにかしらを書くことを念頭において読むのはなんだか気が重くなって煩わしいし,思うようにはいかないものだ.

 

昨年の末,友人のそのまた友人がしたためたという百枚ほどの小説を読ませてもらう機会があった.そんなに簡単に読み飛ばせるものではなかったが,実家に持ち帰って年明けにかけてとりあえず読み通した.全篇にわたって散文詩のごとくに綴られたふしぎな文章は,これが的を射た形容であるともあまり思われないが,マグリットの絵画のなかにいるかのようでもあった.独特なしかたで多く用いられるひらがなや,ところどころにみられる破格らしい表現,読点によって息長く連ねられたひとつのセンテンス.読み進めるうちに脳裡に浮かんできた作品たちのうちで,わたしがもっとも強く思い起こし,共鳴するように感じたのが黒田夏子の手になるものであった.

 

abさんご

abさんご

 

内容紹介:

史上最高齢・75歳で芥川賞を受賞した「新人女性作家」のデビュー作。蓮實重彦・東大元総長の絶賛を浴び、「早稲田文学新人賞」を受賞した表題作「abさんご」。全文横書き、かつ固有名詞を一切使わないという日本語の限界に挑んだ超実験小説ながら、その文章には、「昭和」の知的な家庭に生まれたひとりの幼な子が成長し、両親を見送るまでの美しくしなやかな物語が隠されています。ひらがなのやまと言葉を多用した文体には、著者の重ねてきた年輪と、深い国文学への造詣が詰まっています。
著者は、昭和34年に早稲田大学教育学部を卒業後、教員・校正者などとして働きながら、半世紀以上ひたむきに「文学」と向き合ってきました。昭和38年には丹羽文雄が選考委員を務める「読売短編小説賞」に入選します。本書には丹羽から「この作者には素質があるようだ」との選評を引き出した〝幻のデビュー作〟ほか2編も併録します。
しかもその部分は縦書きなので、前からも後ろからも読める「誰も見たことがない」装丁でお送りします。
はたして、著者の「50年かけた小説修行」とはどのようなものだったのでしょうか。その答えは、本書を読んだ読者にしかわかりません。文学の限りない可能性を示す、若々しく成熟した作品をお楽しみください。 

 

一番はじめにとくに深く考えることもなく手にとって読んだ黒田夏子の本は,文春文庫の『abさんご・感受体のおどり』であったが,これはもうだいぶまえのことで,いつであったかはもはや定かでない.上に書いたような事情があっていまふたたび,七十五歳にして早稲田文学新人賞および芥川賞を受賞したこの女性作家の出版されている本を調べてみると,単行本の『abさんご』には著者二十代の三短篇が合わせて収められていると知った.さっそく入手してみると,帯には蓮實重彦川上未映子のコメントの抜粋が並んでいる.前者の選評はウェブ上で読めるので,リンクを貼っておく.

http://www.bungaku.net/wasebun/info/absango.html

また,帯への抜粋箇所を含む結びの段落を引いておこう.

「abさんご」は、あくまで横書きで書かれ、あくまで横書きで読まれるべき作品であり、ごく素直にたどれる語彙や構文からなっているとはいいがたい。とはいえ、ここでは、読む意識への言葉の無視しがたいさからいこそが読まれねばならない。誰もが親しんでいる書き方とはいくぶん異なっているというだけの理由でこれを読まずにすごせば、人は生きていることの意味の大半を見失いかねない。そうと名指されてはいない「昭和」の核家族の歴史が、それを「小児」としておぼつかなく生き始めた者の言葉として、初めてそれにふさわしく書かれた貴重な作品として、多くの人に向かって、そのことの意義を強く主張したいと思う。ここには新人賞の当選作という以上の作家的な力量がこめられており、選者としては、そのことに「驚き」を超えた悦びと怖れをいだいた。

 

ところどころで「ため息」を吐きつつふだんよりいくらかしっかりした紙のページを繰っていると,ハードカバーを手に入れてよかったとしみじみ感じられた.とうのむかしに使い古された比喩を用いるなら「宝石のよう」な文章というのはそれに見合うくらいの媒体で贅沢に読まれるべきだからである.上のリンクから作品の冒頭部に目を通すことができるから,そのすぐあとの〈しるべ〉より引用してみる.

 死者が年に一ど帰ってくると言いつたえる三昼夜がめぐってくると,しるべにつるすしきたりのあかりいれが朝のまからとりだされて,ちょうどたましいぐらいに半透明に,たましいぐらいの涼しさをゆれたゆたわせた.そのほのじろいものは,はじめのころ五つだったろうか六つだったろうか,どちらにしても死者があってのちに住みうつられた小いえには過剰な数だったが,死者が新しかったうちは贈りぬしも新しく,どれとどれをつるすかを決めまようよりは,干すことをかねてあるだけつるすほうがかんりゃくだったにちがいない.二つか三つは,花やせんこうをそなえる台のわきにおけるような,組みたて式の吊り具を付随させていた.あとはざしきとえんがわとのくぎりのあたりに掛けならべられた.

 ごくうすい絹だったか紙だったか,あるいは絹のも紙のもあったのか,卵がたのも球にちかいのも,淡い水いろをおびたのもそうでないのも,上下の木わくが黒く塗られたのも白木に小菊がえがかれたのも,おもりにさがるかざりぶさは紫のぼかし青のぼかし,もしかしたらぜんぶ白いのも記憶をぬけおちたべつの色のもあったかどうか,その欠落はだれかがわすれたというのではなくて,それら夏の宵そのときにもだれにも見さだめられないままであった.そのならわしがくりかえされなくなる夏がくることに,ひらたい,どこかすこしよごれてどこかすこしつぶれた厚がみの箱が高い戸棚のおくからおろされて,しぜんにたたみこまれる構造のきわめて軽いつつ状のうつろがかすかな前年の夏の匂いとともに身を起こすことのない夏がくることに,だれもがまったくうかつであって,そのときぜひ見さだめつくさなければとはおもいおよばれなかったからだ.

 

ひらがなへ開かれることで美しい円みを帯びた響きがつづりから匂い立つかのような語がいくつもちりばめられているのもさることながら,一文の長さもかなり特徴的に感じられる.すこし試してみるとすぐにわかるが,句点を打たずに語りをずうっと引き伸ばしていくのは難しい.誰だって一読したときに誤る余地なしに文意の通るよう書くことに慣れきっているのだから.すっと目で字を追ってもよく意味がわからない,何度か前後を往復してみて文の構造がはっきりして,ああそういうことかと理解する,しかしその内容は一瞬ののちにはすでに漠としていて,腑に落ちる感じはしない.あたかも酔っているようで,部分をたのしむことはいくらでもできるけれど,いつまでも全体が明確な像を結びそうもない.そういう「わからなさ」に語りの魅力はひそむ.

 

「お話」の好きなひとは多いが,より手前に現れる言葉そのものに関心のあるひとはずいぶんすくないみたいである.わたしの場合は,比重はだいぶ後者の側に寄ってきているのだと思う.どんなプロットも,それを聞くだけではさほど魅力的には感じられない.どこかで耳にしたような,現実のある一部を切り取ったテーマや,ざらざらした手ざわりのしそうな設定などまったく必要ではないのだ,作品の世界はただひとえに文体の力だけで立ち上がることができるのだ.それは内容を持たず,なにについて書かれたわけでもない,生き方や公衆道徳といった手垢にまみれたものにすこしも寄与するところのない,言葉の連なりの妙を崩してしまえばあとにはなにも残ることのない世界だ.お話を求めて読むひとには間違いなく苦痛を与えるであろう文章というのがある.わたしはそもそも文字を読むこと自体が愉しいので,よほど耐えがたいものでなければたいていどんなものでも,表面だけをなぞるように進んでいけるような気がする.その途上にふだんあまり見かけないたぐいの仕掛けや試みがなされていると,実に喜ばしい.

 

事実を伝えるため(だけ)の文章ならば,平明でよく馴れ親しんだ表現を用い,論理の流れがくみとりやすい構成になっていることが望ましい.新聞や教科書の言葉は,いってみれば日常的であり,ごく「近しい」文章である.一方でわたしが小説などのフィクションを読むとき,それと自分とのあいだになんらかの「遠さ」を求めているように思う.だからすこし目を通してみてあまりに「近い」とどうにも読み進められない.どんなふうに距離がとられているのか,についてはもちろん作品の状況設定そのものも含まれるけれど,言葉の使われ方はかなり大きなファクターになっている.ある一定以上の昔に書かれたものはそれだけでずいぶん文章の調子が違ってくるし,洋書の邦訳もある種の独特な日本語になっておもしろい,ここは原文ではおそらくこう書かれているのだろうなどと推測したりするたのしみもある(原著の途方もなく大きな隔たりには挫けそうにもなるが,文法などの純粋な形式や音の韻律といった「表層」が浮き彫りになるという点においてむろん魅力的である).ひるがえって,日々書店の店頭に並び続けている現代の作品の字面に心地よい遠さをみてとるのはそう容易なことではない.このあたりにはいぜんも一度触れたように活字の組まれ方なども影響してくるから,十把一絡げに断じてしまうわけにはいかないが.しばしば「固有の文体」というような表現がなされるけれど,日常的な言葉遣いを離れて自らの強靭な散文を練り上げるのがいかに困難なことかがよくわかる.

春景色,野火,夢の浮橋

 丙さんはまだ携帯をほっかむりにはさんだまま,じぶんの椅子の切断を開始し,丁さんも,丙さんがやるじゃあ,おれもやらねえわけにゃあいかねえやなあ,と椅子の背を切り始めた.

  丁さんにのこぎりを押しつけられ,大きく息を吸ってから椅子を片手で持って歯をあてた.水分が抜けきっているゆえか,材は発泡スチロールと同程度の歯ごたえで切断できた.

 解体した椅子を,上蓋を開けたストーブにくべると,いっとき炎が勢いを増し,ゆるやかな円陣を組んで立つみなが闇のなかに浮かんだ.いずれもほの明るい顎から口もとのあたりがゆるみ,静かに微笑んでいるようだが,鼻より上は闇に溶けてしまって,顔全体の表情が読み取れない.

 火勢が衰えるにつれて,顔ばかりでなく,からだそのものが雪と闇に侵食されてゆく.

 椅子の材がすべて燃えつきるころ,あたり一面深い雪におおいつくされ,小屋の跡は消えた.

 

南木佳士『小屋を燃す』

 

がんらい丈夫な祖母であるが,しばらくのあいだ入院せざるをえなくなったということで,三月の初旬に帰省して,ちょくちょく病院へ見舞った.突然に環境が変わりずっと病室のベッドに臥せっているほかなくなって,どうしても記憶の混濁がひどくなりがちのようであった.いわゆる現実をもう一方の側におくとき,どちらかといえば祖母の肩を持ちたくなってしまう.わたしも昨日と数十年前のある日との違いはよくわからないし,ひとがいないことと死んだこととの違いもあまりはっきりしないからだ.ところで,誰しも旅先などでふだんと異なる寝床に休んだとき,目を覚ましてみてしばらく自分がどこにいるのかわからなかった,という経験があるだろう.あの「わからない」数瞬間ほどたのしいものもないのではないか.

 

思い返してみるとそれなりの日数にわたって実家に帰っていたことというのは,ここ数年間でもほとんどなかったような気がする.わたしの小さかったころと比べて,平屋からはごたごたしたあれこれのものが片づけられてずいぶんすっきりしてしまったし,ひともいなくなった.日中,家にいるのはわたしだけだ.もう祖母の友人がひょっこり訪ねてくるようなことも,数年前から絶えてなくなったのだろう.かろうじて来たのは,怪しげな絵葉書の訪問販売だけであった(あの暮れてすでに暗い時分には冷たい雨が降っていた,ご苦労なことである).近所をふらふら歩いてみたって,ほとんど誰のかげを見かけることもない.

 

いかに暦の上で春とはいえ,まだまだ朝夕の冷え込みは厳しい.ことに日本家屋というのは寒い時節を想定している建築ではないのだ.座敷のこたつに入ってひとり座っていると,頬を撫ぜる冷気が判然と感じられるようだった.それに,そこらじゅうに本やら衣類やらが散らばってせせこましい東京の自室とはまったく対照的に,ここにはなにもないのである.左手のもうひとつ奥の座敷にも,右手の廊下にも,前の縁側にも,なにもない.ひえびえとしてどこかそらぞらしい,高い天井を風がよく吹き抜けていきそうなこのがらんどうの空間のように,ひともまた消えていくのかもしれない.それはそんなに悪くはなさそうに思える.

 

実家では戸を開けて一歩外へ足を踏み出すととてもいい香りがする.草木と土の匂いなのだろうか.陽が心地よく差している.庭をぐるりと回ってみると,梅の木は白いのも紅いのもきれいな花をつけており,ほとんど枯れているのではないかと思われるような乾いた紫陽花の枝から新しい芽が吹いている.それにしても静かだ.竹の葉が風にそよいで擦れるさらさらという音に,ときおり幹どうしがぶつかるのだろうカンコンいう響きと,鳥がさえずるのがまじる.ほかになにも聞こえない.昔からものが燃えるのを眺めるのが好きで仕方がなかったわたしは,庭の片隅に新聞紙の切れ端を丸めてこころみに火をつけてみたけれど,ただただ立ち昇る煙が目にしみるばかりで,紙面上にできた橙に光る線はゆっくりと活字を飲みこみ,濃いねずみ色の版図を拡大していくそばから,もろくも崩れて散った.

 

春らしい葉物の季節である.蕪や菜の花,それと豆腐や油揚げを買っていってかんたんに煮浸しなどを拵えた.こういうものがやたらと食べたくなることがあるのだ.お酒もあればいうことはない.偶然に目にした,某が言及していた辻潤の一節がよかった.

毎日食ってあきないのは豆腐だ.ただし湯豆腐に限る.薬味は勿論なくてはならない.ソバと豆腐に薬味がなかったら食わない方がいい.二日酔いの朝ビールを一本まず飲んで,湯豆腐で酒を呑む位うまいものはない.

まさに,世に湯豆腐ほどうまいものは他にない. 

 

夜,床に就いてもうまく寝つけないことがしばしばあった.なにか得体の知れない不安めいたものにとりつかれ,心臓がやや早く拍を打つ.ここはひとが消えてゆく地だ,というような感覚があって,それがすこし恐ろしいのかもしれない.また,いつも自らの手足の延長のようにとらえられているコンパクトな都心の部屋が,突如として真っ暗で大きな田舎の家屋にすり替わり,さらにその外側にもひたすらに闇夜が続いていることが耐えがたいのかもしれない.あるいは,別にひとが同じ屋根の下に眠っていることも少なからず影響していそうだ.人間と現実において近づき,関わりを持つとき,相手は必ず肉体性をともなって現前するが,どうもその肉体の脆弱さ,儚さを意識してしまうところがわたしにはあって,それがやや苦手なのである.まあ,そういうときはなんでもいいからペンを執るにかぎる.

 

夢日記」というのはけっこうおもしろいもので,昔の日記の一ページにたまたま書き留められたきれぎれの断片を目にすると,おぼろげな夢の内容物を想起することができる.わたしは夢を見るのが好きだ.夢はいつも懐かしい.愉快な夢も,悪夢でさえも好きかもしれない.その感触は醒めるや否や失われてゆき,あとには存在しえなかった幼少期の思い出のようなものだけが残る.わたしは浅い眠りの波間をたゆたうだけで,そこになにもなかった(実に,なにもなかったのだ!)過去の記憶を捏造することができるのだ.夢のなかでは自分の身体はないかのようであり,わたしの感覚だけがあるようだ.そしてわたしが感覚するのは名づけられることのない,どこでもない場所であり,いくつかの数字で指定されることのない,いつでもない時間だ.そこにあってわたしは初めて,決して誰であることもないような,権利を得ることができるのである.

新年の生存報告

ずいぶん間が空いてしまい,年も明けて一月ほどになった.とうとう死んだのかと思われないためにもたまには書かないといけないような気もするのだが,なにも書く必要を感じないのだから仕方がない.なんだかここのところとても平らなのです.平らか.日記もそれなりにたいへんで,ぜんぶ以前に書きつけたことだという思いと,文字になってしまったものはなべて嘘なのだという思いとが去来してペン先がためらってしまいがちである.しかし,拙文をたのしみにしていると言ってくださるかたもいるので,折にふれてがんばりたい.

 

一週間まえの自分は自分ではないと思っている,とよく言っていた友人がいる.先日,このことについて確信めいたものが降ってきた.なるほど,昨日のわたしと今日のわたしとはまったく違う人間だ.今朝といまでも違うし,数秒まえといまでもすっかり違う.しかし当然のことながら,これを思いついて書きつけたときのわたしと,この記事を書いているわたしもずいぶん違うので,いまこの主張を読んでも字面以上のことがらが摑めているようには感じられない.ともあれ,つねになにかがさらさらと零れ落ちてゆくという点においてはどこか悲しみのまといつくふうな考えでもあるが,わたしがいつもまっ白で新しいということは,たしかに一種の救いであろう.

 

「裏切られる期待の感覚」というフレーズが日記にある.読まれない本がもっとも魅力的な本だ,というようなこと.「期待の感覚」,これはどこかで目にしたことがあると思った.そうだ,『万延元年のフットボール』の書き出しである.

 夜明けまえの暗闇に眼ざめながら,熱い「期待」の感覚をもとめて,辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする.内臓を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように,熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを,おちつかぬ気持で望んでいる手さぐりは,いつまでもむなしいままだ. 

 そして改めて目を通してみると,この晦渋な冒頭部が初めてまともに読めたという気がした.熱い「期待」の感覚!わたしのほとんどすべての行動は,これにすがりつくようにして為されるのではないだろうか.それによってようやく身体を起こすことのできるような,そういうところのもの.(ところで『万延元年』についてあれこれ書き散らしたものを永らく温めてしまっているので,いい加減に形を整えて公開しないとなあと思っています.思うだけかもしれないけど)

 

年が明けてすぐのころ,是非にと薦めてもらった濱口竜介監督の『寝ても覚めても』を友人と連れ立って滑り込みで観にいった.これはほんとうにいい映画だったのでみなさんにも観てほしい.忘れられない台詞をひとつ:

わたしはまるでいま,夢を見ているような気がする.ちがう.いままでのほうが,ぜんぶ長い夢だったような気がする.すごく,幸せな夢だった.

それにしてもいいタイトルだ.夢を見ること.友人が教えてくれたところによると『ハッピーアワー』もとてもおもしろいらしい.上映時間が5時間を超えるというのはさすがに驚いたけれども.


映画 『寝ても覚めても』 2018 予告編

 

とても好きでごたごた書いてみたい本というのはいくつかあるのだが,さいきんは辞書をもくもくと引き続けるなどのほうにかまけているのでうまく気力を割けない.でもやっぱりテクストにたいする悲しいまでの思慕みたいなものは変わらずあって,そういういわくいいがたい想いがふと吐露される瞬間に共感を覚えたりすることもままある.喜ばしいひとときである.蓮實重彦『魅せられて』のあとがきの最終パラグラフを引いて終えることにしよう.

 

 そう,著者は,いま,改めて小説に「魅入られて」いる.この「あとがき」のコンテクストにはまったくおさまりのつかぬ問題だが,ヴァージニア・ウルフからマーガレット・ドラブルまで,あるいはダシール・ハメットからトマス・ピンチョンまで(何という名前の組み合わせ!),あるいは樋口一葉森鷗外正岡子規(彼は小説家ではないが)等々の作品を,ふとした偶然から,これといったあてもないまま読み直していた一時期を持ちえたことが,この題名を導きだしたのである.人は,やはり,書くあてもないまま,ただ「魅せられて」小説を読まねばならない.それを一時の気まぐれに終わらせないと大っぴらに宣言する意味で,恥も外聞もなく,あえて『魅せられて』という題名の書物を世に送りだそうとしているのである.

 

フェルナンド・ペソア『不穏の書・断章』

誰かが本の話を始めるとき,そこはもはや現実の場ではない.舞台の上といってもいいだろう.どんな荒唐無稽なことがらがあけすけに語られてもいいのだ.だが,内容を噛んで含めるように説明してしまってはたぶんに現実の側に肩入れしているようでいまいちおもしろくない.それに,「噛ん」だらその瞬間に立ち消えてしまう綿菓子のようなものがわたしの好みでもある.引用には妥協がない,それは隔絶した向こう側だ.一節を引いてみせることは,あるいは自らを戯曲の台詞に託して表明することかもしれない.そこでは演技は許可されていて,かつ心から役者の叫びたいことでもある.どうせなら思い切りよく演じてみせるほうが見栄えがいい.そういうときに観客は芝居を褒めることになるだろう.

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

 内容紹介:

フェルナンド・ペソアの書くものは、実名と異名と呼びうる二つの作品のカテゴリーに属している。…異名による作品は作者の人格の外にある。」―別の名と別の人格をもつ書き手たちの作品群が、ペソアという文学の場で、劇的な空間を開いている。20世紀の巨匠たちの列に最後に加わったポルトガル詩人、ソアレス名義『不穏の書』と、本人名義と複数の異名者の断章を旧版を大きく増補・改訂した新編集で。

 

この本もいつから本棚に差さっているのか,忘れてしまった.まあ,そんなことをいい始めればとたんに書架の全体が珍妙なものと映る(なんでこんなに本があるんだ?).世のすべてに関して気が乗らないときに,引っぱり出してぱらぱらと読めばいいのだと思う.もとが断片の寄せ集めなのだから,どこを開いてもよいし,どこで閉じてもまったく構わない.きっといくつかの断章が(巻末で池澤夏樹のいうように)「憑く」だろう.英語だと 'enchant' がうまく当たっている気がする.

 

 ある種の隠喩は,そこらにいる人間よりもずっと現実的だ.本の片隅にひそむある種のイメージは,多くの男女たちよりもずっと鮮明に生きている.ある種の文学のフレーズは,きわめて人間的な個性をもっている.私が書いた文章のいくつかには,私を恐ろしさで凍りつかせる容貌がある.それらがあまりにも人間たちのように見えるからだ.私の部屋の壁の上に,夜になると,暗闇の中にくっきりと姿を映し出すからだ……私は彼らが大声や低い声で読んだ言葉を書き留めたのだ.その響きは――それを消し去るのは不可能だ――絶対的な外在性と完全な魂とをもっている.

 誰にでも自分のお気に入りの酒がある.私は実在するということのうちにすでに十分な酔いを見出す.自分を感じることに酔い,彷徨し,まっすぐ歩いてゆく.時間になれば,みんなと同じように会社に戻る.時間が来てなければ,河まで行って,みんなと同じように河を眺める.私は同じだ.そしてこれらすべての裏側に,私の空があって,私はひそかにその星座となってちりばめられている.私の無限をそこに持っているのだ.

 眼前のこの夜明けは世界で最初のものだ.やがて黄色へと優しく転調し,それから熱い白色に変わるあのバラ色の光線が,西の斜面の建物の上にこんな風に注がれたことはいまだかつてなかった.幾千の眼のように穿たれた窓がある建物は,生まれたばかりの光のなかへとやってくる沈黙へとその顔を捧げている.こんな時間は,こんな光は,こんな私は,いまだかつて存在したことがない.明日やってくるのは,また別のものであろうし,私の見るものも新たに作られた眼で見られるだろうし,新たな光景で満たされるだろう.

 散歩の途中で,私は完璧な文をいくつも作った.だが,帰宅すると,まるで想い出せない.これらのフレーズが名状しがたい詩情を持っていたのは,ほんの一瞬しか存在しなかったからなのか,それとも,それらがけっして書き留められなかったからなのか.

 

日記はつけなければならないが,そうと意識すると実にうっとうしいもので(勝手だなあ),ある日のぶんを書かずに寝入ってしまうこともときおりある.いつも愚痴っているが,書くべきことなどありはしないのだ,まさしく.妙に潔癖だから翌日になって昨日のまっさらなページに手をつけるが,はて,わたしは昨日,なにをしたのだ?正直にいってほとんど思い出すことができない.そんなものはほんとうにあったのだろうか.たかが十数時間まえのことがこんなにもおぼろげであっていいのか?けっこう真剣に驚くべきことにも思える.

 

ふとしたときにきわめてあいまいな,ぼんやりとした,それでいて惹きつけられるような情景が浮かんでくることがある.これはわたしがいつかどこかで現実に目にしたものか,あるいは映画のワンシーンか,はたまた浅い眠りの夢の一片か.考えれば考えるほど,夢であったような気がする.夢はそこから醒めることによって魅力を放つ.自分を夢と現実のあわいでちょうど等量ほどに折半したい.もうだいぶ幽かな存在になってきているとは感じるのだけれど.

 

本を読むのは奇妙な体験である.二十世紀のリスボンの片隅にひっそりと暮らしたひとりの男が,わたしがつい今日や昨日に感じたのと同じようなことを(それは巧みに!)書きつけているらしいのだから.いや,より正確には,それを読まなければ感じたなどとはゆめ思わなかったことを,かな.たとえ最後の一瞬まで生きることに馴染むことの叶わなかったとしても,それはそれでいいのではないか.ただ,フェルナンド・ペソアを読むことができさえするならば,それだけでも.うまく表現できないが,じっさいにページへ視線を落として読むという一回一回の行為がとても大切なことのような気がした.くり返し読むことだ.そのときどきのわたしを喜ばせる断章があることだろう.ペソアを読むと平らになれる.まっ平らでいることはけっこうすばらしい.

 

 どんな微妙な光,定かならぬ物音,香りの記憶,外部の影響が演奏する音楽のせいで,突然,道を歩いている最中に,こんな妄想が私の頭によぎったのだろうか.いま,私はカフェに入って,気ままに,急ぐこともなくそれを書き留めている.考えがどちらのほうに向かって行くのか,どんな方向にそれを向けようとしているのかもよくわからない.今日は軽く靄がかかり,生暖かく,湿っぽく,わけもなくもの寂しく,意味もなく単調な日だ.私はある感情を切実に感じているのだが,その名前がわからない.このよくわからないなにかに確かな論証が欠けているのを私は感じる.私の神経には意志がない.私の悲しみは意識の下で感じるのだ.これらの文を書いているのは――きちんと書けているとは言えないが――,別にそれを言いたいためではない.言いたいことなどなにもない.ただ私の不注意を働かせるためだけに書いているのだ.私は少しずつ,ゆっくりと,丸まった鉛筆で(削る気持ちがないのだ)ぐにゃりとした文字で,カフェでもらったサンドウィッチの白い包装紙に書いている.もっと上等の紙である必要はなかったのだし,白くさえあれば,なんでもよかったのだ.そして,私は満足している,と思う.私はゆったりと椅子にもたれかけている.夕暮れどきだ.単調で,雨も降らず,陰気で不確かな色調の光のなかに暗くなってゆく…….こうして,私は書くのを止める.理由はない.ただ書くのをやめるのだ.

アンドレイ・タルコフスキー

紹介記事みたいなものを書いてみようと思った.それがどのようなもので,またどのような形であるにせよ,昔の作品を掘りおこして触れておくことにはなんらか意味があるだろう.さして自分の言葉を記すわけではないかもしれないが,まあ,わたしは引用がしたくて書いているようなものなので,よしということにする.

 

さて,またまた堀江敏幸から始まるのであるが,友人がくり返し読んでいると教えてくれた『河岸忘日抄』(タイトルがいい!)という小説をすこしずつ読み進めている.はたしてこれは小説なのか,ほとんどエッセイにもひとしいのではないか,というのは判断のしづらいところである.

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

 

 内容紹介:

ためらいつづけることの、何という贅沢──。ひとりの老人の世話で、異国のとある河岸に繋留された船に住むことになった「彼」は、古い家具とレコードが整然と並ぶリビングを珈琲の香りで満たしながら、本を読み、時折訪れる郵便配達夫と語らう。ゆるやかに流れる時間のなかで、日を忘れるために。動かぬ船内で言葉を紡ぎつつ、なおどこかへの移動を試みる傑作長編小説。

 

堀江も,ところどころに散りばめられた種々の引用が独特の魅力を放っている作家だと個人的には思っている.この本も例外ではない.はじめのほうから,話題のとっかかりとしたい箇所を引く.

 風にあらがいながら蝋燭に火を灯し,熱い鉱泉が薄く底を浸した空間を,ロシア生まれの詩人がそれを消さないよう幾度も往復するという映画の一場面を,彼は脈絡なく思い浮かべる.イタリアのおだやかな丘陵地帯にある聖堂で,心臓を病んだこの詩人はひとりの男と出会う.おのれのことばかり考えず,そして家族のことだけを考えず,もっと多くの人間を救おうとするべきだったと語るそのいくらか頭のおかしい男の言葉からなにかを得て,詩人は取り憑かれたように炎の受け渡しを試みるのだ.あと一歩で宗教的な祭儀に到達しそうなその行為と胸のうちにしまわれた故郷の村の光景がしだいに重複して,自身の記憶と過去の情景にばかり目をむけるあのノスタルジアという一種の弱さがこのうえない強さに転換されていくさまを,若い日の彼は,字幕のついた劇場で食い入るように見つめていたものだ.眠りに入るまぎわや目が醒める直前の白濁した意識のなかで,なぜかときおり,彼の脳裏にあの蝋燭が灯る.びちゃびちゃという水の音と詩人の吐く息だけが聞こえるあの場面に,いまあらたに打楽器の響きが加わり,さらに海の怪物の姿が寄り添う.Kは生き物というより,人間の弱さを弱さのまま強制終了させてしまう神の装置だったのではないか.そして,船の書棚に見出したその映画作家の,封印された時に関する考察の一章を,彼はゆっくりと読み進める.

 

「『ノスタルジア』において追求したかったのは,〈弱い〉人間という私のテーマだった.〈弱い〉人間とは,外見的な特徴からは戦うひとのように見えないけれども,思うに,この人生の勝利者なのである.すでにもうストーカーがある独白のなかで,唯一まちがいのない価値であり人生の希望だとして,弱さを擁護していた.私は実際的な方法で現実に適応しえない人々を,つねに愛してきた.私の映画にけっして英雄は登場してこなかったが,強い精神的な信念を抱き,他者にたいする責任をみずから負う人物たちはいた」(アンドレイ・タルコフスキー『封印された時間』,アンヌ・キチーロフ&シャルル・H・ドゥ・ブラント共訳,レトワール社/カイエ・ドュ・シネマ社,一九八九)

 

www.youtube.com

 

ノスタルジア』のあの有名な,9分間にわたるラストのワンカットの描写である.ずいぶんまえに一度観たきりで,どんな作品だったか,ほとんど思い出せなかった.だいぶ眠かったけれど,それでもどのシーンも目に収めておきたいと思ったのを憶えている.それにやはり,最後のあたりは印象深かった.実はこの映画,家の近所のツタヤでは,在庫を検索すると店内にあることになっているのに,DVDが見あたらないのである.以前,店員さんにその旨を伝えて探してもらったが,けっきょく見つかることはなかった.じっさい,仮にどこか別のところに紛れこんだりすると,取り戻すのが困難であろうというのは予想できることではある.

 

そういうわけで,大学からの帰り道にある大きな店舗に立ち寄った.事前に確認しなかったのが悪いといわれればその通りなのだが,今度は貸出中となっていた.なんともやりきれない感じがする.代わりといってはなんだけれども,未見の『アンドレイ・ルブリョフ』を借りていくことにした.さて,わたしには3時間におよぶ映画をきちんと鑑賞する才覚のないらしいことは経験から知っている.しかし,このたびは集中して食い入るように最後まで観てしまったのだった.

 

www.youtube.com

 

舞台は15世紀初頭のロシア,東方教会イコン画の巨匠アンドレイ・ルブリョフの遍歴を描く伝記映画である.クライマックスへと連なるエピソードを紹介したい.後半へ差しかかってしばらく経つころ,やや唐突に,なにやら鐘の建造が始められるらしいことがわかる.教会の巨大な鐘の鋳造は国の一大事業なのであろう,ものすごい数の人員と資材が投入される.指揮を執るのは少年と青年のあいだくらいにみえる,鋳物師の息子ボリースカ.彼は自分だけが父親の秘伝を受け継いだのだと言い張っていた.高慢で不遜,ときに非常な子どもらしさをあらわにする彼は,自らを邪険に扱うずっと年上の職人を相手に激情を隠さず渡り合い,必死の情熱を傾けてことにあたる.炉に火が入ると,上裸の男たちが水をかぶりつつ薪をくべ,後ろでは大がかりなふいごがばたばたと上下する.ボリースカの合図で,直視できないほどに白く輝く銅が,煙を上げながら四つの炉から型へと流れこむ.やがて崩された土の下から姿を現した鐘の威容に,彼は膝を折って寄り添い,大公の紋章に手を這わせる.鐘は引き上げられ,大勢のひとびとのまえで初めて鳴らされるときがくる.ボリースカはそわそわとして,すっかり落ち着きを失っている.なにせ失敗であったとわかれば文字通り首が飛ぶのである.鐘の舌が,きしみとともに動き始める.そして,一部の見物人の意地の悪いささやきあいと裏腹に,鐘は鳴る.はじめくぐもった頼りなげな音で,つづいて舌が大きく往復するごとに,次第にたしかな荘厳たる音をあとから重ね,あたかも自らの力を確認してまわりに誇るかのように,鳴るのである.式が終わったあと,地面に倒れこんで泣きじゃくるボリースカを,ルブリョフが抱き起こす.実のところ死んだ父親は息子に,秘伝などなにひとつ教えてはいなかったのだ.ルブリョフはふたたび,絵を描くことを決心する.

 

もうひとつ,タルコフスキーといえば,大江健三郎の連作『静かな生活』には「案内人(ストーカー)」という短篇が収められている.考えてみると,なるほど,両者のテーマにはなにほどか共通するものがあるようにも思われる.

静かな生活 (講談社文芸文庫)

静かな生活 (講談社文芸文庫)

 

内容紹介:

精神の危機を感じて外国滞在を決意した作家の父に、妻が同行する。残された3人の兄弟妹の日常。脳に障害を持った長男のイーヨーは“ある性的事件”に巻き込まれるが、女子大生の妹の機転でピンチを脱出、心の平穏が甦る。家族の絆とはなんだろうか――。〈妹〉の視点で綴られた「家としての日記」の顛末に、静謐なユーモアが漂う。大江文学の深い祈り。

 

www.youtube.com

 

 「深夜テレヴィ映画から弟が録画してくれた,タルコフスキーの『ストーカー』を見た.」と書き出されるこの小品は,そのまま映画『ストーカー』の感想談義といった趣向になっている.複数の視点がそれぞれに織りなす考え方,感じ方の違いがおもしろい.(大江の描く人物は文章体でよどみなく長ながとしゃべるが,このあたりがハマるひとはハマると思う.わたしはとても好きである.)はじめにとった引用といくらか似通うような箇所を引いてみたい.

 案内人の奥さんは暗い情熱をひそめている美しい人で,発作を起したように床に倒れて苦しむ際も,静かに苦しんでいる姿体の全体が美しい.つい「成人向け映画」を連想してしまったのも,ハッとするほど官能的な美しさがあったからだと,オーちゃんなら分析するのじゃないだろうか? 実際,私は,自分がこんなに美しい躰になることはあるまいと,羨望より尊敬の心で思っていた.しかもその案内人の奥さんが,どうしても危険な「ゾーン」に客ともども出かけずにはいられない夫に絶望して,――結婚したのがまちがっていた,だから「呪われた子供」が生まれたという,その言葉に私は心を奪われてしまったのだった.

 なんとか無事に「ゾーン」から帰った,疲れきっている案内人も,客たちが「ゾーン」の中心の「部屋」で人間にあたえられるはずの魂の喜びを本当にはもとめていなかったとさとって絶望している.案内人は,「ゾーン」が堕落した人間を立ちなおらせると信じている,可哀想なほど真面目な人だから.その案内人をベッドに寝かせてやった後で,奥さんは突然私たちの方へまっすぐふりかえる.それからインタビューのカメラに答えるように,心のなかで思っていることを話し始める.劇映画の手法にこんなやり方がよくあるのかどうか知らないけれど――私の母方の祖父は映画監督だったし,伯父も現役の監督だけれど,私は弟同様映画をわずかしか見ていないから――,そのシーンは本当に好きだった.奥さんは,夫がノロマでみんなからバカにされていた青年であること,自分が結婚する際に母親から,案内人は呪われているから,変な子供しか生まれないはず,と反対されたことを思い出す.それでも自分がこの人と結婚したのは,ずっと単調な生活より,苦しいけれどたまには幸せもある生活の方がいいと,後からコジつけたのかも知れないけれど,ともかくそう思ったからだと話す.このところで私は,――いいえ,あなたは後からコジつけたのじゃなく,そのように始めから考えていられたのだし,その考え方は正しいと思う,と叫びたい気持ちだったのだ.

 

最後に,関係のあるような,でもたぶんない話.1931年に生まれ,97年に京都市龍安寺のアトリエで自裁した麻田浩という画家がいる.たとえば,新潮文庫の三島『鍵のかかる部屋』のカバーは麻田の仕事だ.わたしは以前,京都国立近代美術館を訪れたときに,麻田浩没後10年展の図録が半額で販売されているのをみて喜んで購入したのであった.タルコフスキーの神秘的で美しい画面を見ていると,いつもこの画家の描く廃墟の絵が脳裡に浮かんでくるような気がするのである.以上.

麻田 浩  静謐なる楽園の廃墟

麻田 浩 静謐なる楽園の廃墟

 

読書会のこと

ブログを更新するために文章を書くのは実に虚しいうえにただの恥さらしなので,どうすべきかいつも逡巡してしまうのだけれども,今日は大学で偶然に会ったひとと久しぶりに人間らしい会話ができて機嫌がよいので,書いてみることにした.あとで思いや考えのいろいろに変わることことがあろうと(そしてそれがほとんどであろうとも),わたしはそのとき頭に浮かんだことは書いておくことに決めたのである.それに,記事をたとえば100本投稿するとなにかいいことがあったりするかもしれないし…….

 

ひょんなことからとある社会人の文芸読書会にときおり参加させていただくようになって,もうけっこうな期間になっている.世の中には奇妙なめぐり合わせというのがたまにあるものです,たしかに.このあいだの休日に催された会にも朝から出かけていって,松浦寿輝『幽・花腐し』と堀江敏幸『熊の敷石』についててきとうなことをしゃべっていた.こういう本は,どのあたりを引用するかなど,すこしは前もって考えておかないと紹介しづらい.そういう意味では多少は話す練習になるかもしれない,まあ,あくまで気楽な場だけれども.ほかのひとのものでは,村上春樹螢・納屋を焼く・その他の短編』や西村賢太苦役列車』,町田康『珍妙な峠』なども印象深かったが,マルケス『族長の秋』にいちばん驚いたような気がする.わたしが読んだ限りではもっともおもしろかったマルケスは『族長の秋』である.小説のひとつの理想はどこから読み始めてどこで終えてもよいというもので,『族長の秋』はまさにそうした物語だ,みたいな書評をむかし読んだような憶えがあるのだけれど,どこで目にしたのだろう,解説とかかしら,よくわからない.

 

お昼を食べて,ひとまず解散.天気がよかった.わたしを含めた男性4人であまりあてどのない散歩をしていた.日陰では吹きつける冷たい風に身をすくめるようであったが,昼下がりの意外に暖かい日差しを浴びながらしばらく歩いていると今度は汗がにじむほどで,コートを脱ぐことになった.それぞれに嗜好の差はあれ,それなりに変な本を好んで読むひとたちのあいだでは,だいたいどんな話を切り出そうと許容されるしあるていどは共感もされているだろうという雰囲気が漂っている(と思う).他人を自分をてきとうに揶揄することについてさして抵抗がない.そういうわけでとても晴れやかで愉快な気持ちであった.

 

わたしはまったく手をつけたことがないのだが,トマス・ピンチョンの話が出た.さいきん大学の友人ともすこし話題に上ったのだけれど,新潮社のピンチョン全小説シリーズはほんとうに装幀が格好よい.部屋に置いておくだけで小さなアクアリウムくらいのインテリア効果は期待できるのではないかと思う.とくに『重力の虹』.はたして読み通すのにどのくらい骨が折れるのだろうか…….こういう類いのものを,単行本はいつ絶版になるかわからないなどといって買い始めると悲惨なことになるのであろう.

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 
トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

カフカを熱心に読んでらして,『城』がとくによい,という方がいた.恥ずかしながらわたしは長篇をまともに読みこなしたことがない.村上春樹ねじまき鳥クロニクル』との関連で『流刑地にて』の話をしていて,やはり個人的にはカフカ岩波文庫の『カフカ短篇集』がもっとも印象深いと思った(彼の日記などもとてもおもしろいのだが).最後に収録されている『万里の長城』がとても好きである.すこし引いてみる.

 われわれの国土はかくも大きいのだ.どれほど壮大なお伽噺もこの国の大きさにはかなわない.大空でさえ,われらが国土をつつみかねている.――一方,北京は単なる一点である.皇帝の居城ときたらシミのように小さい.皇帝の威光はあまねく世界にたなびいているが,うつし身の皇帝はわれわれと同じ一人の人間にすぎず,われわれと同様に長椅子に寝そべっている.それがいかに華麗な椅子であれ,長さ,大きさなどしれたものだ.われわれと同じようにときには伸びをし,疲れれば手を口にそえてあくびをすることもあるだろう――しかし,どうすればその種のことを知りうるのだ.何万里もはなれた南方であって,少し行けばチベットの山系に踏みまようところなのだ.知らせが届くとしてもはるかな時がたってからのこと,もはや古びはてている.皇帝のまわりには廷臣どもがひしめいていることだろう――綺羅星のごとく,かつまた黒雲のごとく.臣下や友人の衣をまとっていても,あまたの悪意をひめ,敵意を抱いた者たちであり,君主に対抗する一方の雄として,あわよくば毒矢の一刺しで皇帝を倒しかねないのだ.君主制そのものは不滅だとしても個々の皇帝は,あるいは倒れ,あるいは失墜する.連綿とつづいてきた王族も,いずれは栄光地に落ちて,ついには滅ぶ.民衆はこの間の闘争や苦難について何一つとして知ることができない.町の広場では王の処刑が行なわれているというのに場ちがいな遅参者さながら,あるいは山出しの田舎者のように,ぎっしり人が群がっている横丁の奥につっ立って,手持ちの何やらをモグモグ食べているようなものなのだ.

 

そういえば,一時期もてはやされていた『読んでいない本について堂々と語る方法』はわりにまじめな内容でおもしろいらしいと聞いた.そのうち読んでみたい.

 

いまどきウェブ上でひとを募っている読書会はあまたあるけれども,いわゆる自己啓発本やビジネス書などを中心に扱うところがわりに多くてわたしは苦手であった.一冊もろくに読まずしてあれこれいうのはご法度かもしれないが,すくなくとも前者にかんしては,セネカの『生の短さについて』とか,ラッセルの『幸福論』とか,神谷美恵子の『生きがいについて』とかを読んでいたほうがよほどいいのではないかと思ってしまうが,どうなんでしょうか.

言葉への讃歌

いつの間にこんなことになってしまったのか,というのはつねに見当のつかない困った問いであるが,本のページを繰っていてふと,やはりわたしは文字のひとつひとつから一冊の書にいたるまで,いろいろなスケールで言葉というものが好きなのだなあとしみじみ感じたので,うまくいくかわからないが,書き留められるだけのことを書き留めておく.そのときどきの接し方は異なってゆくにせよ,人間はなにかひとつくらい,こころから愛することのできるものがあるにしくはないだろう.

 

泉鏡花は,ほんのわずかであれ文字の書かれたものはなんでも大切にしたといわれる.さらには指で空に書き順をなぞったあとは,必ずそれを掃き消すしぐさをしたとも.そこまで極端ではないにしても,わたしも書物はもちろんだが,岩波の「図書」の冊子などもどうしても手放すことを躊躇してしまう.刻印された文字というのは魔術的なもので,そちらへ視線を向ければ読めと誘い,その力には抗いがたく,否応なしに読まされてしまう.そこにはなにか,こことは別の次元でもうひとつの世界が立ち現れる.わたしはできるだけそれを失いたくないと願うのかもしれない.

 

まえも触れた西脇順三郎だが,彼は親族のだれかに英語を教えることになったとき,まず初めに教科書を「嗅ぎなさい」といったという.本はただ手にとって読むだけのものというわけではない.その持ち重りをたしかめ,ためつすがめつし,揃っていたりいなかったりする天を指先でなぞり,てきとうなページを開いてすべらかな表面を撫でてみ,その字面をうっとりと眺め,両の頬をあててのどを嗅ぐのである.わたしはできるだけきれいに保っておきたいと思うから,書店でかけてもらったブックカバーがなかなか外せない.教科書や参考書のたぐいは思い切りよく汚してしまうこともあるけれど,基本的になにか書きこむのもためらわれる.

 

本のページが一枚の絵画のように美しくみえることがある.全体を一様に眺めているというわけではなく,見ているのはいつも数センチ平方くらいの領域であるような気がする.どこへ目を向けても漢字とかなのバランスがよく,平面に心地よい強弱が生まれている.漢字は美しい,白の地に黒々と自身を強調するそれは瞬時に鮮烈なイメージを喚起させてくれる.それらのあいだを,ひらがながゆるやかにつないでいる.いくつかのひらがなの連なりはなんともいえず優美で,やわらかい.読書の現場にもさまざまあるのはいうまでもないことだが,本好きとしては,こうした言葉の小さな単位がおのおのの魅力や心地よさをまとって立ち現れる経験を大切にしたい.テクストの愉悦はつねに細やかな部分より成る(ついでにこれは文句であるが,上のように視覚的な美もまた読書の欠くべからざる要素である以上,活字の組み方はきわめて重要である.文字のサイズが大きくなり,行間が狭く感じられるとどうにも字面に品がなくなる.ただ見やすければよいというものでもない)

 

おわかりいただけると思うが,こういう読み方をしてしまう場合に話の筋を追って先へ先へ読み進めることなどまずできない.意味と形のあいだを読むかのような状態はとてもたのしく,かってなところをめくって数行をゆっくり咀嚼するだけでも満足してしまう.詩集を手にとるというのも一興だが,ここでは古井にしよう.手元の『鐘の渡り』より,てきとうな箇所を引く.ひらがなの流れは,ほんとうはもちろん縦に書くほうが映えるのだけれど,やむを得ない.

 ――見る目にも耳にもすさび遠ざかり

     冬の林に水こほる聲

 老いれば見るものにつけ聞くものにつけ興の薄れるのは自然のことであるのに,あながちに興をもとめる.興にまかせることのならなくなった身をわきまえず,興から隔てられていくことに心やすからず騒ぐ.今の年寄りのまずしさである.老いの面白さは興の尽きかけたところにあるはずなのに.

《耳にも遠ざかり》を《水こほる聲》を受けたのは,絶妙な付けである.寒夜の老体の,すさびに遠ざけられた耳にして初めて得られる,明聴を思わせられる.森羅万象の上へはるかにひろがっていきそうな明聴である.この句を詠んだ宗長は当時まだ男盛りの年にあったそうだが,少年から老年まで,生まれる前から死んだ後まで,今この時においてわたるのが,歌の心というものか.

 それにしても,水の凍る声とは,何なのだろう.よけいな訝りなどをさしはさまずに,音にも立ちそうな寒気の蹙りを聞き取っていればよさそうなものを,なにやらしきりに我身の既知感を,いつか耳から染みて目に浮かべた光景を誘い出しそうになる.生涯くりかえし寝床から聞いたような気もしてくる.そんな林をすぐ近くに控えたところに住んだこともない.

 枯木の林を渡る風の運んで来る音ではないようだ.風はやんでいる.ついさっきまで霙が吹きつけていた.その静まったあとの,天が抜けたか,刻々と冴えていく中から,小枝の弾ける音が立つ.遠くまで風の吹き返しのように渡っていく.おそらく樹皮の傷に染みこんだ水滴が氷点の境から,罅を押し分けて氷結する音なのだろう.風に堪えてきたのがいまさら折れて,地に落ちる小枝もある.

 

気に入ったところがあったら,わたしは声に出して読むのも好きだから,けっこうひとりでブツブツやっている.幼少期から漢文の素読が身体に刷りこまれていた時代から,大切なことがそんなに変わっているはずもない.音の響きを意識すると,文章のリズムのよしあしがよりはっきりとわかる.詩歌の鑑賞にせよ外国語の学習にせよ,馬鹿みたいになんどもくり返して音読することである.まあ,そんなことばかり考えていると,修論も文章の巧拙ばかりが気にかかって,一向に書き進められなくなってしまうのだけれども.

 

生活のことをすこし.友人が家にやってきて,ふたりでビーフシチューを作ってワインを飲んだ.ひとを自室に上げたのも久方ぶりのことだ.わりにきちんとワイングラスの手入れをしておいた.背の高いグラスは(ふだんの置き場には困るけれど)曇りなく磨きあげることができると見栄えがしてよい.赤ワインはいくらでも飲むことができるなあ,酒量が減ったなどというのもたぶん嘘なのではないかと思う.そのあとはなぜか漢字の書きとりで勝負をしていた.ふだん手で字を書く機会がすくないと常用漢字もなかなか正しくは綴れないものである.みなさんもやってみてはいかがでしょうか.