umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

話し言葉と書き言葉

わたしはどうにも会話をするのが不得手であると自分で思っているのだが,これはそもそも話し言葉の特質のようなものによっているのではないかと,なんとなく思ったので書き留めておく.

 

大学の友人たちとはどうせ無茶苦茶な言葉の応酬しかしないので,そういうのはとりあえず棚に上げるとして,一般的に会話の場面では,そこを支配する空気を白けさせたり緊張させたりするようなコード外の言葉の使用は基本的に禁じられている.そしてたいていの場合,わたしはまさにその抑圧されがちな言葉で語られる内容にしか興味がないのだ.だから日常会話,話すために話しているような話にはついつい上の空になってしまったりする(ただし,その内容にまじめに参画せずとも外側から笑いをとれるゆえに許される形式というのが存在し,それを皮肉とか諧謔とかと呼ぶ).

 

このコードによる制約は,もちろん多人数であるほど強く,一対一のときにはある程度まで緩和されるだろう.さらに,小説など読んでいると,ひと昔前までは手紙のやりとりというコミュニケーションが頻繁にあったらしいということがわかる.これはもちろん書き言葉の形式であって,ひとりでゆっくりと考えて文章を練ることになるが,そうしていると,その内容がしだいに広がりをもち,豊かになっていくということは,じっさいに書かれているかたならよくご存じのことと思う.こうした方法では,(ものぐさでなく筆まめでなければならないが)会話の場面でとりこぼしがちな大切なことが伝達されうるのではないか,という気がする.手紙をしたためることと,SNS 上のメッセージのやりとりとでは,同じ書き言葉でもずいぶん性格が異なるのではないか,というのはさすがにわたしの懐古趣味か.

 

さて,こうした理由のゆえにわたしは社交の場が苦手なのだと思うのだが,それでもじっさいに出かけていくと,顔を合わせるひとたちとなるべく理解し合いたいと感じる.しかしなんといおうか,わたしのほんとうに話したいことは,会話においていつもまとまった言葉の連なりを成してくれない.それが場のコードをくぐり抜けるかどうか,どうしても不安につきまとわれる.それでもなんとかしてたどたどしく話すうちに,どこか細かな誤解を積み重ねているのではないか,という感覚はぬぐいがたくある.このあたりがもどかしく,結果として帰り路では重箱の隅をつつくような,しようのない反省をくり返すことになる.

 

その点,共通した本の話ができると,これは実に喜ばしいことである.たぶん,口語から漏れ出たあらゆることがらが本に書かれているのではないかと思う(だからもしわたしが話したいことを話すときは,書き言葉を使って長く話すことになるような気がする).お互いにある一冊の本を読み通した,というのを知ることは,世間の言葉づかいを離れて,ひとつの筋を通して考えられたことがらが長々とつづられている,それを一応は共有しているということであろう.あまり大っぴらには口にしづらい世界のとらえ方のひとつを誰かと分かち合っているということ,それはやはり嬉しいことである.

 

書いていてわたしは救いようもなくめんどうな人間だと思った.ほんとうはこんなことなどいっさい書きたくはないような気がしている.話すということは(ふつうは)さして労力を使わないけれど,書くことには(それを公表することも含めて)つねに一定の負荷がかかる.だからこそ書かれた言葉にはある種の価値があるのだと思うし,わたしはみなさんが筆を執って,すこしく内面に言及した文章を読みたいとつねづね願っている.終わり.

 

追記.あけすけな例を思いついたので.ちょっとでも小説を読むなり映画を観るなりするひとなら,そのなかでひとが自殺するなり殺人を犯すなりすることは誰でも知っている.(世人のすきな)村上春樹が描く人物なんてめちゃくちゃあっさり首を吊るではないか.これをもうすこしだけでも現実の人間のほうへ引き寄せて,自死を口の端へ上らせつつ,明るくへらへらと生きていってもよさそうなものだ.どうしてそんなにまじめなふりを装わねばならないのか.わたしはなべてまじめな話が苦手だ.世間的には話し言葉(現実)と書き言葉(虚構)とは互いに交じり合わないようなので,わたしはここで至極まっとうなことしか書いていないつもりでいるのだが,やはり異常の烙印を押されて迫害されるのであろうか.どなたかジャッジをお願いいたします.

酒やめむそれはともあれ永き日のゆふぐれごろにならば何とせむ

本来ならば,終日一歩も外に出ずただ頭のなかだけで考えたことを書きつけたいのだが,これがうまくまとまらない(寝かせるうちにこちらの気分がころころ変わるので,書き足すと内容の統一感が失われたりする)ので,またまた遊興日記のごときものである.友人が書いてもいいと言っていたので,立ち入ったことを書くかもしれないが,差し障りのあるようだったら連絡してほしい.

 

不思議な夢を見た朝であった.たしか小学校の幼馴染だったと思うが,彼女がわたしにクイズを出すのだ.一点の絵画があって,そのどこか一部の上に薄めの木片を貼り,そのあとに全体をペンキかなにかで平らに塗り込めるから,見て正しい絵の向きを答えろ,というようなものであった.だいいち,その絵は立派な額縁に収まっていたのだし,立てるための台すらついていたのだから,画面をどんなに腐心して一様に均そうとも,答えは外しようのないものに思われた.それなのに,相手がずいぶんと得意げな顔をしているものだから,わたしは額の装飾の細部やキャンバスの裏などを細心に点検して,記憶に留めようとした.そしてなんとも残念なことに,そのあたりで目が覚めてしまったのである.果たして,あの問答の顛末はいったいどのようなものだったのだろうか,気がかりである.

 

やたらと早い梅雨明けの宣言が出された.日中の気温は連日三十度を超え,白いものに反射する陽射しは,あとに若干の残像を引くほどに眼を灼く.いよいよ夏も本番といった趣がある.風が強いのはありがたいことかもしれないが,通り抜けていく空気の生ぬるさはあまり爽快とはいえない.一日だから,お昼は久しぶりに丸亀製麺で釜揚げうどんを食べようと思って,事前に検索した上野中央通り店へ汗をかきかき歩いていったところ,開店は七月五日であった.落胆が大きかったが,こんなこともあるものである,もうすこしきちんと調べればよかったか.

 

昼下がり,友人と落ち合って,カンヌでパルムドールを獲ったと話題の『万引き家族』を観た.ファーストデイだからお得だ.是枝監督の作品を観たことはなかったのだが,とてもよかった.うまくいっているようで,ところどころに歪みの仄見えるこの「家族」はいったいなんなのか,その事情はある綻びをきっかけに明らかとなる.人間のありのままを放り出すように見せてくれていると思う.『海街diary』や『そして父になる』など,観てみたくなった.

 

アイスコーヒーを飲んで時間を調節し,根津まで歩いていく.不忍池のぐるりに咲く紫陽花は,その鮮やかな色が褪せつつあった.駅前でもうひとりと合流し,三人で予約しておいたお店へ.やたらいろいろなお肉を食べて,ワインをたくさん飲んだ.ワインもずいぶんとご無沙汰であったような気がして,おいしかった.さいきんは一時期ほどアルコールを飲んでいない.酩酊したいとはつねづね思っているのだが,あとの苦労がつい頭に浮かんでしまい,量を抑えてしまう.それでもけっこう満足がいくので,いいかなという感じだが,歳であろうか.

 

さて,そもそもこの会の開催は,(初めの)友人が永らく付き合っていた恋人に振られてしまったことに因っている.四年も一緒にいても突然そういうことが起こりうるらしい.わたしも似たようなものだが,精神的に不安定なところのある人間は,あるとき思いつめてゆくりなしに人間関係をすっぱり切り捨てようとすることがあるから,うまくやればよりを戻せるのではないか,というような話もしたが,まあ,部外者には推し量りえない微妙な力学があるのであろう,人間と人間のことだし.他人にすぐ考えつくような策は片端から試したあとのことなのかもしれない.

 

それにしても,彼の落ちこみようはひどかった.もちろん,まじめくさって慰めるような心優しいひとはここにはいないので,酒の肴にしてさんざん笑っていたのであるが,わたしはいつも誠実でまじめで心優しい(?)ので,ちゃんと考えつく限りのアドバイスをしたつもりである.どうか許していただきたい.彼はこの三人のなかではもっともまともな人間だとわたしはみなしていたが,気分が沈んでいると強迫的な症状が出たりするらしく,案外そうでもないことがわかってきた.ここのところ,顔を合わせる周りの人間が強迫気味だったり離人気味だったりで,相対的に自分がまともだということが判明しつつある.じっさい,わたしはかなりいい加減な人間だと思う.

 

 ひとりの人間に自らの生きがいのようなものを恃み,強く依存してしまうのはやはりリスクが大きいのではないか,というようなことが話題になった.当事者のほかのふたりが,他人を信用しないようにしている人間だからかもしれないが.できれば,自分ひとりでのめりこんで充足できそうななにかを見つけるのがよいだろう.わたしは,とりあえずは読むことと書くこととで当面のあいだは遊んでいられそうなので,その点では幸せだと思う.読むものはあるていど絞っていかなければならないと感じるけれど.

 

こういう趣向をしていると,いつでもひとり第三者でいようと考えるようになる.徒に気持ちをかき乱されたくないから,ふだんはひとと関わることはあまりしないが,この飲み会のように,ときたま娑婆で人間関係の話を仕入れては,わたしは冷笑し軽口を叩くであろう,視線にわずかの羨望と嫉妬を交えて.先のことはわからないから,知らないうちにいつの間にか渦中にいるということもあるかもしれないが,やはり外側にいることを傾向として好むだろう.自分のしたいことのためだけに時間を使い,穏やかで満ち足りた心持ちでいることをなによりの喜びとするだろう.自他の境界にしっかりした壁を築くこと,醒めた状態を保つことに心を砕くだろう.ひとに執着するようなことのないよう,瑕疵を見つけては厭うように努めるだろう.わたしはこうした努力をしていないと,ついつい過度にひとを期待するし信頼してしまう.寂しいような気もするが,バランスの調節だと考えるしかあるまい,自己防衛は大切だ.

 

お店を出たあと,大学でもうすこし飲んだ.夜が更けると,なるほど,夏の夜の空気とはたしかにこういう風であったと,腑に落ちるようなものがあった.終わり.タイトルは若山牧水

本の話をしたという話

ふだんレジ打ちの店員さんとしか言葉を交わさないわたしであるが,久しぶりに人間と会って,コーヒーを飲みながら(ほかのひとらは煙草も吸いながら)だらだらと書物やらなにやらについての四方山話をしたところ,(ちょろいので)精神が虚無から躁になってたいへん気分がいい.以前も同じような理由で記事を書いたが,今日もそうしようかと思う.たまにこういうイベントでもないと,ここに投稿するモチベーションがなかなか湧かないものである.

 

はて,梅雨の晴れ間であったか,それとも薄く曇っていたのだったか,少しまえの天気を思い出すのでさえおぼつかない.ともかくカフェで落ち合う旨をとり決めて,約束の時刻にやや遅れ気味であったから,後楽園駅の改札を出てすたすたと足早に歩いていると,しだいにじっとりと汗がにじんでくるくらいの気温であった.いちど方角を間違えて真逆の方向へ歩いたりしたあげくにお店へ足を踏み入れると,喫煙席に見分けやすい先客の姿があった.冷房が体表の熱を奪っていくが,身体の内側までが落ち着くにはある程度の時間を要し,テーブルについてからもしばらくは汗が引いていかない感覚がある.

 

とりあえず,適当に鞄に入れてきた本やお互いに知っている本について,「この一節がめちゃくちゃいい」とか「この表現がとにかくいい」とか「ここは声に出して読むと調子がいい」とか,そんなことを言い合っていたような気がする.言葉の細部にやたらとうるさい友人をもってわたしは幸せであると思う,あんまりそういうひとっていないので.それと,まえに話題に上っていたので,中公新書高橋睦郎百人一首』を持っていったが,これについても昔話を交えてずいぶんと盛り上がった.彼の話を聞いていると,わたしが中高生のときに受けた国語教育はだいぶつまらないものだったような気がしてくる(どちらにしても,たいして興味を抱かなかったかもしれないけれど).あと,『枯木灘』の紀州弁を読み上げてはやたらとテンションが上がっていた,たぶん流れている血が中上健次と似通っているのであろう.中村文則がおもしろいという話をされ,『遮光』を薦められたので,千円以内の本は実質タダだからなどどわけのわからないことを言って笑いながらその場でポチった.

 

さて,ここまででだいたい三時間ほど.上述の友人があまり気乗りのしないらしい飲み会へ後ろ髪を引かれるようにして出かけていき(案の定というか,のちほど泥酔していたようである,面子の厳しい酒席ではとにかくアルコールを入れて,意識を曖昧にさせるか気分を高揚させるかすることがほぼ唯一の勝ち筋であることは言うまでもない),もう一人の,今日で二回目にお会いするひとともう三時間くらい喋っていた,よく話が途切れもせず続いたものだ(いま思い返すと,そんなに長居していたとは思えないほど時間の経つのが速かった).

 

ローベルト・ヴァルザーの名前が出たことが驚きであった.わたしはゼーバルトの『鄙の宿』に収められたエッセイでヴァルザーのことを知り,近所のブックオフにたまたま並んでいたその作品集を買うか買うまいか逡巡しているうちに売れてしまったのであるが.わたしの方では断片的に知っているだけとはいえ,こんな話の通じるひともそうはいまい.貴重な会合である.

 

たしかこの話題は,病気を昂進させるような書を選んで読むべきか否か,みたいな文脈で持ち上がったのだと思う.ようは,(周囲の人間らの読書事情も踏まえつつ)三島とかを根を詰めて読むとちょっと危ないよね,というような話.たしかに『金閣寺』や『豊饒の海』はそういう雰囲気を漂わせている.個人的には,これらももちろん好きではあるが,『沈める滝』や『愛の渇き』,あるいは戯曲を推したいところだ(『宴のあと』を読んでいないので読みたい,百円で見つけられないと買わないので).しかしまあ,こういうのを楽しめるのも二十代のうちという気もするし,病気を極めるというのもひとつの手かもしれない.「突き抜けた根暗」というのもまれではあるが,存在しているものだ,少なくともわたしはひとり知っている.蛇足だが,わたしは短篇『海と夕焼』がとても好きである,共感してくれる方がいると嬉しい.

 

もう一方の極として,古井の名前が出た.ここのところ猫も杓子も古井由吉であるが,ご容赦願いたい.二十代の青年ではやく年をとりたいと考えているひとはあまりいないはずであり,わたしもその例に漏れないつもりでいるのだが,古井の文章というのは実に不思議なもので,老年に差しかかるあたりからの作品をつらつら読んでいると,こういう年の食い方は悪くないかもなあという気分にさせられるものがあるのだ.だいたいどの小説を選んでもそんなに印象は変わらず,べつだん何かが起こるわけでもない,毎日決まった時間にやれやれといった風で机に向かって筆を執る生活が描かれるのだが,退屈でありながら奇妙に静穏な心地よさがある.

 

そんなこんなで,さしあたり目の前にはいつでも日常生活がぶら下がっているわけだし,人間嫌いは明日からまたおとなしくひとりで淡々と机に向かいましょうというありきたりな結論をもって,解散と相成ったのだった.終わり.

川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』

 

ウィステリアと三人の女たち

ウィステリアと三人の女たち

 

 

それを読むことそのものが愉悦であるようなひとつづきの文章というのがある.そういう言葉の連なりに運よくめぐり逢い,自分がすっかり満たされてしまうあの恍惚とした体験を,わたしはいつもどこでも待ち望んでいるのだろう.このたび出会った一冊は,さいきん出版された川上未映子による本短篇集である.

内容紹介:

 どんな夜にも光はあるし、どんな小さな窓からでも、その光は入ってくるのだから――。
真夜中、解体されゆく家に入りこんだわたしに、女たちの失われた時がやってくる。三月の死、愛おしい生のきらめき、ほんとうの名前、めぐりあう記憶……。人生のエピファニーを鮮やかに掬いあげた著者の最高傑作。

 

これを手にとったきっかけは,あの蓮實重彥が書評において手放しで絶賛しているのを読んだことである(本筋とは関わりのないことだけれど,二年前に三島賞を受けて記者会見がはちゃめちゃにおもしろかった『伯爵夫人』をいまごろようやく読みました,話題になっているうちは手をふれない天邪鬼なので).ほんとうにすばらしい読書ができた.文章はこなれているから,読もうと思えばするするとすぐに終えられてしまうであろうが,ページを繰るのがどうにも惜しくて,まえへ戻ったり,声に出したりしながらゆっくりと読んでいた.

書評のリンクはこちら.

素晴らしきものへの敬意 蓮實重彦――『ウィステリアと三人の女たち』川上未映子 | レビュー | Book Bang -ブックバン-

 いまあらためて目を通すと,蓮實御大の仰ることでわたしのいい表したいことはすべて尽きているような気がするので,とりあえずこのレビューを読んでみてほしい.そして興味をそそられた方が,この新著を手にとっていただければ,わたしは嬉しい.

 

さて最後に,わたしも作品に「敬意」を表して,ほんの些細なことではあるが,印象深い一節を引用したい.短篇『彼女と彼女の記憶について』より.

 それからわたしたちは,かつてどこかで同級生だった人たちがするような他愛のない話をしたけれど,こういう場合にありがちな,誰がいまどこでどうしているとか,あのとき誰と誰がどうだったとか,そんな話にはならなかった.彼女は購買部で売っていたパンの種類のことを話し,保健室の真ん中にあった不思議な柱のことについて話し,それから一年の一学期の美術の時間に写生した神社について話し,そして今からじゃ到底考えられないけれど,ブルマという下着となんら変わらないかっこうで体育をやらされていたということについて話をした.

 いいなあと思った.わたしもかつての同級生と(あるいは将来にいまの同期と)いつか会うことがあれば,「誰がいまどこでどうしているとか」の話もまあ悪くはないけれど,どちらかといえば「一年の一学期の美術の時間に写生した神社について」とか,ある意味においてどうでもいいような話がしたいなあと思う.

24時間営業のファミレスはとてもありがたい(と,すこし映画)

インターネットには一切の人間味を感じさせないひとというのがたまにいるものである.生活感や私情をその投稿のどこにも読みとることができず,ただその類いまれなる日本語のセンスだけで勝負しているような,そういうひと.正直けっこう憧れるところがあるのだが,こんなところである程度の長さの散文を綴ってしまっているわたしには,どだい不可能なことだと諦めるほかはない.人間っぽいのはダサいと思うけれど,わたしは根っから人間っぽいようなので.それに非人間の道は,おそらく自死へつながる道なのではないかという気がしなくもない.

 

上はただの思いつきで,深夜のファミレスにこもるのが好きという話.24時間営業を縮小するファミレスチェーンが多いなか,近所のところは変わらずやってくれており,わたしにとっては嬉しいかぎりである.大学生活を送るなかで,レポートを書いたり,なにか計算をしたり,本を読んだり,書きものをしたり,ずいぶんとお世話になってきている.ひとはまばらで机は広く,コーヒーや紅茶はいくらでも飲めるし,家と違ってすぐ寝転がってしまうようなこともない.それから,大学が比較的そばにあるからかもしれないが,ひとりでなにやら勉強しているらしき同類が大抵いるので,なんとなしに心強い(?).仲間に見張られているというような感覚は,集中を保つうえで役に立つ.不思議とマイノリティー同士の連帯感みたいなものを(わたしが勝手に)感じるのだ,喫煙所と同じである(知らないけど).

 

長いこと通っていると,深夜ということも手伝ってか,ちょっと特殊な場面に出くわすこともある.別れ話(かそれに準ずるもの)をしているらしきカップルの,女性のすすり泣きが聞こえてくることが数回あった.両親と高校生くらいの娘が非常に深刻そうな雰囲気で話し合っている,その隣の席に通されたこともあった.しかしもっとも印象的だったのは,以前しばしば見かけた,五六十代の男女ふたりである.どういう間柄なのかよくわからないが,とても夜遅くに来店して,女性のほうが露骨に性的な話をしていたのが強烈でよく憶えている.いつだったかある日の朝早く,近隣を歩いていたところ道端に救急車が停まっており,何人かの救急隊員に交じって件の女性が立っているのを見かけた.おそらくあれ以来,ふたりの姿を目にしていない.

 

それにしても,夜中から東の空が白みはじめるまでのあいだというのは魅惑的な時間帯である.まともな社会はすっかり眠ってしまっているわけで,ひとびとは日中の義務から解き放たれて自由になる.そしてどこか人知れぬ場所で,非日常への裂け目が口を開ける予感がする.都市におけるこうした空気を描きだした作品として,村上春樹アフターダーク』が頭に浮かんだ(ちなみに映画なら,スコセッシの名作『アフターアワーズ』だろうか).日付が変わるころの都会のファミレスで,ひとりハードカバーを読み耽る女性,そこへ男がやってきて彼女に声をかける,ここに始まる陽が昇るまでの一夜の物語.いま読み返すとハルキ節がいささか鼻につくけれども,でもそれがうまく決まっている箇所もあって悪くない.

「しかし裁判所に通って,関係者の証言を聞き,検事の論告や弁護士の弁論を聞き,本人の陳述を聞いているうちに,どうも自信が持てなくなってきた.つまりさ,なんかこんな風に思うようになってきたんだ.二つの世界を隔てる壁なんてものは,実際には存在しないのかもしれないぞって.もしあったとしても,はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない.ひょいともたれかかったとたんに,突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない.というか,僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに,そのことに気づいていないだけなのかもしれない.そういう気持ちがしてきたんだ.言葉で説明するのはむずかしいんだけどね」

 

最後に,本題とはぜんぜん関係ないけれども,さいきん観て好みだった映画をいくつか書き出してみたい.

あの @kentz1 氏がずいぶん浸っていたようだったので.とてもすてきな作品.舞台は美しい緑に陽の光がさんさんと注ぐ1980年代の北イタリア.ふたりの青年の出会い,書物,ギター,ピアノ,たまに水泳.瑞々しく早熟なアプリコット.きっとみなさんもお好きなはず.

大学の先輩が推していたので.これもすごくよかった.教師を辞し,蕎麦屋で働いていた女性だが,そのお店も畳まれることに.そんな彼女が巡る,ありふれていそうでなさそうな,静かな人間模様.川上弘美的だと思った,わたしは川上弘美が好きだ.挿入歌の「書を持ち僕は旅に出る」もすてきな曲.

  • 『少女』

湊かなえ原作.女学院高校に通う,死に憑りつかれた多感なふたりの少女のお話.個人的に『告白』よりずっとよかった.

退職した刑事と余命いくばくもないその妻.ラストシーンは波の打ち寄せる晴れやかな海岸,キタノブルー久石譲の音楽があまりにもズルい.ヒロインの台詞がたった二言しかない.

浅田次郎原作.北海道のとある鄙びた終着駅をずっと守ってきた「ぽっぽや」も定年間近.詩情ゆたかな雪景色のカット.(たぶん)18歳の広末涼子がかわいらしい.

『長谷川龍生詩集』現代詩文庫

 

長谷川竜生詩集 (現代詩文庫 第 1期18)

長谷川竜生詩集 (現代詩文庫 第 1期18)

 

 

先日,Twitter 上でかの有名な(?)@fumiya_iwakura 氏が,長谷川龍生と関根弘のある対談の一部を抜粋して投稿していたのが,思わず手を叩いて笑いたくなるくらいおもしろかったので,さっそくそれが収録されている現代詩文庫の『長谷川龍生詩集』を手に入れて読んでみた.わたしの気に入った箇所をここにも引用してみたい.詩集なのに詩を引かないけれども,悪しからず.件の対談より.

 

関根 じゃ,まあね,詩をなぜ書くかと言われたら,ひとことでなんと答えますか?

長谷川 そうね,復讐かな.

関根 何に対する復讐?

長谷川 自分自身以外のもの…….

 関根 ひとの評判を気にしますか.

長谷川 非常に気にするときと,ポカーッと抜けたときと,時期によってちがいますね.しかしほとんど評判されたことがないから.孤立無援だからね.昔から.だから,まあいいんじゃない?……孤立無援だよね.

関根 遊ぶことは好き?

長谷川 あんまり好きじゃない.

関根 仕事は好きなの?

長谷川 仕事も好きじゃない.

関根 一番なにが好きなの?

長谷川 ……

関根 どういう状態が一番,自分にとってはいい状態なの?

長谷川 やっぱり自閉症だからね.みずから閉じるという…….一つのことに熱中するということですね.それが自分の気に入ったことであるという…….

関根 じゃ,日本の家屋なんていうのはあんまり好きじゃない?

長谷川 ……

関根 ホテルは好き?

長谷川 ホテルあんまり好きじゃない.日本の家屋も好きじゃないですね.

関根 密室?

長谷川 密室ですね,そう,密室ですね.

関根 密室,好きでしょう.

長谷川 非常に古くさいような,暗いとこね.

関根 密室でお酒飲むなんてことないの?

長谷川 ありますね.そりゃありますね.

関根 そうしてこう,幻想をたのしむという…….

長谷川 うん,たのしむっていうの,あるね.

関根 しょっちゅう?

長谷川 しょっちゅうね.毎晩ねる前には幻想をたのしむってことあるね.だから,ちょっと病気になって,二,三日会社休んで,ゆっくり幻想にひたれるっていうのはこれはまあ,まったくすばらしいことだなあ.

 関根 (略)……それから,ちょいちょい自殺したがってるねえ.

長谷川 うん.

関根 いまでも自殺したいですか.

長谷川 そうねえ,やっぱり,自殺したいような気持になることがあるね.

関根 どうしてえ?

長谷川 エッ?

関根 どういうときに?

長谷川 そりゃあやっぱり,才能もないし,それから,生きる力もないし,誰からも愛されないし,自分自身で一人で生きていこうという強固な精神も,やっぱり,疲労してくると衰弱するしね.だから,思い残すことがなにもない時があるわけですよ.そういう時はやっぱり,飛躍しそうな時がありますね.たいへんもう,いまになって自殺にあこがれをもつなんて,古くて,古めかしくて,はずかしいようだけれども,ピュウーッとなにか,入ってくるときがあるね.

関根 人を殺したくなることはありますか.

長谷川 ありますねえ,それはもうしょっちゅうありますねえ.

関根 特に憎いのは?

長谷川 特に憎いのはねえ,いるねえやっぱりたくさん…….文学のわからない奴は全部殺してやりたいねえ(笑).

関根 じゃまあ……会社で働いてんのは,あんまり好きじゃないわけ?

長谷川 好きじゃないね.

 

自伝「自閉症異聞」より.

私は,小さい時から,そのような環境の中で,自らと世の中との通路を閉ぢた.明らかに自閉症として,詩人の道をえらんだ.しかし,自閉症としては生きていくことはできない.私はそこで亡霊を創造した.現在,街をあるいたり,会社に勤めたり,他人と会話したりしているのは,私の亡霊である.亡霊だけが,自閉症の壁を,何んの制約もなくすり抜けていくことができ,社会への唯一の交流媒体として働いている.

私の深き欲望とは,自閉症にかかっている真の私の存在と,社会に仮の姿として行動している私という亡霊の存在を逆転することにある.

人間,最期に,勝てばいいのだ.暗い,狂った,呪われた,被害妄想の人生の最後の時間には,颯爽たる加害者でありたいと思う.

自閉症としての生涯における,反自閉症としての明るい一日,それが私の目的である. 

 

久しぶりに朝まで飲んだ

友人が少なく出不精であるわたしにとっては,ときたま気心の知れた人間と飲みに行くだけでもそれなりに特筆すべきイベントである.よい酒席というのはなにかしら感銘を与えてくれて,まあ,仕方がないからさしあたり生きていくかという気分にさせてくれる.せっかくなので,ちょっと筆を執ることにした.

 

今日は出かける予定もあるし,このあいだ珍しく買った煙草の残りもひとりでは喫まないし,というわけで久々に友人を誘うことにした.摂食が苦手なので夕方になってもろくになにも口にしておらず,コンビニで景気づけにストロングゼロを買って呷りながら大学の周りを彷徨っていたら気分が悪くなった,当たり前である.わたしはもちろんおいしいお酒は好きだが,舌に露骨にエタノールを感じるタイプのお酒も自傷の感があってそれはそれで悪くない(さいきんは強くて安いチューハイなどがぞくぞくとお店に並べられつつあるが,終末っぽくてよい).それと,図書館で借りた大量のハードカバーが重かった,もうすこし先のことを考えて行動しないといけないと思う.不忍池をぐるりとまわると,蓮の葉がずいぶんと繁茂してきているのが見える.てきとうに時間を潰して合流する.

 

娘の名前は万葉集からとろうとか(結婚できると思っているのか),漢字の部首で一番好きなのはどれかとか,牛丼には無限に七味をかけるとか,玉音放送のどこがお気に入りかとか,パンクロッカーは二十代で死なねばならないとか,古井由吉が読めるのは日本語話者の喜びだとか,大江の『われらの時代』を読めとか,コードギアスはおもしろいから観ろとかとか,いろいろ話したのだが,たぶん一番盛り上がってえんえんと続いたのが部落についての話である.ふたりともけっこうな田舎の出身なので,地元に暮らしていたころの思い出話をすると自然に(?)部落の話題が出て,これがそこそこ通じるのだ.東京の大学に来てこれはなかなかに稀有な体験であろう.やはり,もつべきはお互いに部落の話ができる友人である.もっとも,わたしは関東で彼は関西ということもあってか,被差別部落ということになると彼のほうがより問題を身近に感じながら育ってきたようである.

 

さて,なんでもかんでも本に結びつけてしまうのがわたしの悪いところであり,こういう談笑のなかで頭に浮かんだのが,野間宏『青年の環』であった.サルトルのいう「全体小説」を,野間が二十年以上を費やして実践した畢竟の大作八千枚である.第二次大戦が始まる年の大阪を舞台に,被差別部落解放運動が描かれる.これがとにかく尋常でなく長い,たぶん『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』をつなげたくらいに長い.サルトルの『自由への道』でさえ,まあ,「分別ざかり」まででいいか,と投げてしまったかたは多いはずである(わたしもそう).以前,岩波書店が出している「図書」の臨時号に「岩波文庫 私の三冊」という特集があり,たいへんおもしろく読んだのだが,この冊子のなかで熊野純彦が挙げていたうちの一冊が『青年の環』であった.いわく,大学生のときにこれが岩波文庫に入り,二晩徹夜して全五巻を読み通したそうなのだが,三日で読めるものなのかと驚いた覚えがある.

 

実は,岩波文庫の全五巻セットが大学近くの古書店にお手頃な価格で並べてあるのを知っている.はたして買うべきだろうか.でもわたしのことだから,きっと買うのだろうな.いや,それにしても外的な経験をその通りに書き起こすのはほんとうに楽である.いつもこのくらい筆がするすると動いてくれると嬉しいのだが.終わり.