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フェルナンド・ペソア『不穏の書・断章』

誰かが本の話を始めるとき,そこはもはや現実の場ではない.舞台の上といってもいいだろう.どんな荒唐無稽なことがらがあけすけに語られてもいいのだ.だが,内容を噛んで含めるように説明してしまってはたぶんに現実の側に肩入れしているようでいまいちおもしろくない.それに,「噛ん」だらその瞬間に立ち消えてしまう綿菓子のようなものがわたしの好みでもある.引用には妥協がない,それは隔絶した向こう側だ.一節を引いてみせることは,あるいは自らを戯曲の台詞に託して表明することかもしれない.そこでは演技は許可されていて,かつ心から役者の叫びたいことでもある.どうせなら思い切りよく演じてみせるほうが見栄えがいい.そういうときに観客は芝居を褒めることになるだろう.

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

 内容紹介:

フェルナンド・ペソアの書くものは、実名と異名と呼びうる二つの作品のカテゴリーに属している。…異名による作品は作者の人格の外にある。」―別の名と別の人格をもつ書き手たちの作品群が、ペソアという文学の場で、劇的な空間を開いている。20世紀の巨匠たちの列に最後に加わったポルトガル詩人、ソアレス名義『不穏の書』と、本人名義と複数の異名者の断章を旧版を大きく増補・改訂した新編集で。

 

この本もいつから本棚に差さっているのか,忘れてしまった.まあ,そんなことをいい始めればとたんに書架の全体が珍妙なものと映る(なんでこんなに本があるんだ?).世のすべてに関して気が乗らないときに,引っぱり出してぱらぱらと読めばいいのだと思う.もとが断片の寄せ集めなのだから,どこを開いてもよいし,どこで閉じてもまったく構わない.きっといくつかの断章が(巻末で池澤夏樹のいうように)「憑く」だろう.英語だと 'enchant' がうまく当たっている気がする.

 

 ある種の隠喩は,そこらにいる人間よりもずっと現実的だ.本の片隅にひそむある種のイメージは,多くの男女たちよりもずっと鮮明に生きている.ある種の文学のフレーズは,きわめて人間的な個性をもっている.私が書いた文章のいくつかには,私を恐ろしさで凍りつかせる容貌がある.それらがあまりにも人間たちのように見えるからだ.私の部屋の壁の上に,夜になると,暗闇の中にくっきりと姿を映し出すからだ……私は彼らが大声や低い声で読んだ言葉を書き留めたのだ.その響きは――それを消し去るのは不可能だ――絶対的な外在性と完全な魂とをもっている.

 誰にでも自分のお気に入りの酒がある.私は実在するということのうちにすでに十分な酔いを見出す.自分を感じることに酔い,彷徨し,まっすぐ歩いてゆく.時間になれば,みんなと同じように会社に戻る.時間が来てなければ,河まで行って,みんなと同じように河を眺める.私は同じだ.そしてこれらすべての裏側に,私の空があって,私はひそかにその星座となってちりばめられている.私の無限をそこに持っているのだ.

 眼前のこの夜明けは世界で最初のものだ.やがて黄色へと優しく転調し,それから熱い白色に変わるあのバラ色の光線が,西の斜面の建物の上にこんな風に注がれたことはいまだかつてなかった.幾千の眼のように穿たれた窓がある建物は,生まれたばかりの光のなかへとやってくる沈黙へとその顔を捧げている.こんな時間は,こんな光は,こんな私は,いまだかつて存在したことがない.明日やってくるのは,また別のものであろうし,私の見るものも新たに作られた眼で見られるだろうし,新たな光景で満たされるだろう.

 散歩の途中で,私は完璧な文をいくつも作った.だが,帰宅すると,まるで想い出せない.これらのフレーズが名状しがたい詩情を持っていたのは,ほんの一瞬しか存在しなかったからなのか,それとも,それらがけっして書き留められなかったからなのか.

 

日記はつけなければならないが,そうと意識すると実にうっとうしいもので(勝手だなあ),ある日のぶんを書かずに寝入ってしまうこともときおりある.いつも愚痴っているが,書くべきことなどありはしないのだ,まさしく.妙に潔癖だから翌日になって昨日のまっさらなページに手をつけるが,はて,わたしは昨日,なにをしたのだ?正直にいってほとんど思い出すことができない.そんなものはほんとうにあったのだろうか.たかが十数時間まえのことがこんなにもおぼろげであっていいのか?けっこう真剣に驚くべきことにも思える.

 

ふとしたときにきわめてあいまいな,ぼんやりとした,それでいて惹きつけられるような情景が浮かんでくることがある.これはわたしがいつかどこかで現実に目にしたものか,あるいは映画のワンシーンか,はたまた浅い眠りの夢の一片か.考えれば考えるほど,夢であったような気がする.夢はそこから醒めることによって魅力を放つ.自分を夢と現実のあわいでちょうど等量ほどに折半したい.もうだいぶ幽かな存在になってきているとは感じるのだけれど.

 

本を読むのは奇妙な体験である.二十世紀のリスボンの片隅にひっそりと暮らしたひとりの男が,わたしがつい今日や昨日に感じたのと同じようなことを(それは巧みに!)書きつけているらしいのだから.いや,より正確には,それを読まなければ感じたなどとはゆめ思わなかったことを,かな.たとえ最後の一瞬まで生きることに馴染むことの叶わなかったとしても,それはそれでいいのではないか.ただ,フェルナンド・ペソアを読むことができさえするならば,それだけでも.うまく表現できないが,じっさいにページへ視線を落として読むという一回一回の行為がとても大切なことのような気がした.くり返し読むことだ.そのときどきのわたしを喜ばせる断章があることだろう.ペソアを読むと平らになれる.まっ平らでいることはけっこうすばらしい.

 

 どんな微妙な光,定かならぬ物音,香りの記憶,外部の影響が演奏する音楽のせいで,突然,道を歩いている最中に,こんな妄想が私の頭によぎったのだろうか.いま,私はカフェに入って,気ままに,急ぐこともなくそれを書き留めている.考えがどちらのほうに向かって行くのか,どんな方向にそれを向けようとしているのかもよくわからない.今日は軽く靄がかかり,生暖かく,湿っぽく,わけもなくもの寂しく,意味もなく単調な日だ.私はある感情を切実に感じているのだが,その名前がわからない.このよくわからないなにかに確かな論証が欠けているのを私は感じる.私の神経には意志がない.私の悲しみは意識の下で感じるのだ.これらの文を書いているのは――きちんと書けているとは言えないが――,別にそれを言いたいためではない.言いたいことなどなにもない.ただ私の不注意を働かせるためだけに書いているのだ.私は少しずつ,ゆっくりと,丸まった鉛筆で(削る気持ちがないのだ)ぐにゃりとした文字で,カフェでもらったサンドウィッチの白い包装紙に書いている.もっと上等の紙である必要はなかったのだし,白くさえあれば,なんでもよかったのだ.そして,私は満足している,と思う.私はゆったりと椅子にもたれかけている.夕暮れどきだ.単調で,雨も降らず,陰気で不確かな色調の光のなかに暗くなってゆく…….こうして,私は書くのを止める.理由はない.ただ書くのをやめるのだ.

アンドレイ・タルコフスキー

紹介記事みたいなものを書いてみようと思った.それがどのようなもので,またどのような形であるにせよ,昔の作品を掘りおこして触れておくことにはなんらか意味があるだろう.さして自分の言葉を記すわけではないかもしれないが,まあ,わたしは引用がしたくて書いているようなものなので,よしということにする.

 

さて,またまた堀江敏幸から始まるのであるが,友人がくり返し読んでいると教えてくれた『河岸忘日抄』(タイトルがいい!)という小説をすこしずつ読み進めている.はたしてこれは小説なのか,ほとんどエッセイにもひとしいのではないか,というのは判断のしづらいところである.

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

 

 内容紹介:

ためらいつづけることの、何という贅沢──。ひとりの老人の世話で、異国のとある河岸に繋留された船に住むことになった「彼」は、古い家具とレコードが整然と並ぶリビングを珈琲の香りで満たしながら、本を読み、時折訪れる郵便配達夫と語らう。ゆるやかに流れる時間のなかで、日を忘れるために。動かぬ船内で言葉を紡ぎつつ、なおどこかへの移動を試みる傑作長編小説。

 

堀江も,ところどころに散りばめられた種々の引用が独特の魅力を放っている作家だと個人的には思っている.この本も例外ではない.はじめのほうから,話題のとっかかりとしたい箇所を引く.

 風にあらがいながら蝋燭に火を灯し,熱い鉱泉が薄く底を浸した空間を,ロシア生まれの詩人がそれを消さないよう幾度も往復するという映画の一場面を,彼は脈絡なく思い浮かべる.イタリアのおだやかな丘陵地帯にある聖堂で,心臓を病んだこの詩人はひとりの男と出会う.おのれのことばかり考えず,そして家族のことだけを考えず,もっと多くの人間を救おうとするべきだったと語るそのいくらか頭のおかしい男の言葉からなにかを得て,詩人は取り憑かれたように炎の受け渡しを試みるのだ.あと一歩で宗教的な祭儀に到達しそうなその行為と胸のうちにしまわれた故郷の村の光景がしだいに重複して,自身の記憶と過去の情景にばかり目をむけるあのノスタルジアという一種の弱さがこのうえない強さに転換されていくさまを,若い日の彼は,字幕のついた劇場で食い入るように見つめていたものだ.眠りに入るまぎわや目が醒める直前の白濁した意識のなかで,なぜかときおり,彼の脳裏にあの蝋燭が灯る.びちゃびちゃという水の音と詩人の吐く息だけが聞こえるあの場面に,いまあらたに打楽器の響きが加わり,さらに海の怪物の姿が寄り添う.Kは生き物というより,人間の弱さを弱さのまま強制終了させてしまう神の装置だったのではないか.そして,船の書棚に見出したその映画作家の,封印された時に関する考察の一章を,彼はゆっくりと読み進める.

 

「『ノスタルジア』において追求したかったのは,〈弱い〉人間という私のテーマだった.〈弱い〉人間とは,外見的な特徴からは戦うひとのように見えないけれども,思うに,この人生の勝利者なのである.すでにもうストーカーがある独白のなかで,唯一まちがいのない価値であり人生の希望だとして,弱さを擁護していた.私は実際的な方法で現実に適応しえない人々を,つねに愛してきた.私の映画にけっして英雄は登場してこなかったが,強い精神的な信念を抱き,他者にたいする責任をみずから負う人物たちはいた」(アンドレイ・タルコフスキー『封印された時間』,アンヌ・キチーロフ&シャルル・H・ドゥ・ブラント共訳,レトワール社/カイエ・ドュ・シネマ社,一九八九)

 

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ノスタルジア』のあの有名な,9分間にわたるラストのワンカットの描写である.ずいぶんまえに一度観たきりで,どんな作品だったか,ほとんど思い出せなかった.だいぶ眠かったけれど,それでもどのシーンも目に収めておきたいと思ったのを憶えている.それにやはり,最後のあたりは印象深かった.実はこの映画,家の近所のツタヤでは,在庫を検索すると店内にあることになっているのに,DVDが見あたらないのである.以前,店員さんにその旨を伝えて探してもらったが,けっきょく見つかることはなかった.じっさい,仮にどこか別のところに紛れこんだりすると,取り戻すのが困難であろうというのは予想できることではある.

 

そういうわけで,大学からの帰り道にある大きな店舗に立ち寄った.事前に確認しなかったのが悪いといわれればその通りなのだが,今度は貸出中となっていた.なんともやりきれない感じがする.代わりといってはなんだけれども,未見の『アンドレイ・ルブリョフ』を借りていくことにした.さて,わたしには3時間におよぶ映画をきちんと鑑賞する才覚のないらしいことは経験から知っている.しかし,このたびは集中して食い入るように最後まで観てしまったのだった.

 

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舞台は15世紀初頭のロシア,東方教会イコン画の巨匠アンドレイ・ルブリョフの遍歴を描く伝記映画である.クライマックスへと連なるエピソードを紹介したい.後半へ差しかかってしばらく経つころ,やや唐突に,なにやら鐘の建造が始められるらしいことがわかる.教会の巨大な鐘の鋳造は国の一大事業なのであろう,ものすごい数の人員と資材が投入される.指揮を執るのは少年と青年のあいだくらいにみえる,鋳物師の息子ボリースカ.彼は自分だけが父親の秘伝を受け継いだのだと言い張っていた.高慢で不遜,ときに非常な子どもらしさをあらわにする彼は,自らを邪険に扱うずっと年上の職人を相手に激情を隠さず渡り合い,必死の情熱を傾けてことにあたる.炉に火が入ると,上裸の男たちが水をかぶりつつ薪をくべ,後ろでは大がかりなふいごがばたばたと上下する.ボリースカの合図で,直視できないほどに白く輝く銅が,煙を上げながら四つの炉から型へと流れこむ.やがて崩された土の下から姿を現した鐘の威容に,彼は膝を折って寄り添い,大公の紋章に手を這わせる.鐘は引き上げられ,大勢のひとびとのまえで初めて鳴らされるときがくる.ボリースカはそわそわとして,すっかり落ち着きを失っている.なにせ失敗であったとわかれば文字通り首が飛ぶのである.鐘の舌が,きしみとともに動き始める.そして,一部の見物人の意地の悪いささやきあいと裏腹に,鐘は鳴る.はじめくぐもった頼りなげな音で,つづいて舌が大きく往復するごとに,次第にたしかな荘厳たる音をあとから重ね,あたかも自らの力を確認してまわりに誇るかのように,鳴るのである.式が終わったあと,地面に倒れこんで泣きじゃくるボリースカを,ルブリョフが抱き起こす.実のところ死んだ父親は息子に,秘伝などなにひとつ教えてはいなかったのだ.ルブリョフはふたたび,絵を描くことを決心する.

 

もうひとつ,タルコフスキーといえば,大江健三郎の連作『静かな生活』には「案内人(ストーカー)」という短篇が収められている.考えてみると,なるほど,両者のテーマにはなにほどか共通するものがあるようにも思われる.

静かな生活 (講談社文芸文庫)

静かな生活 (講談社文芸文庫)

 

内容紹介:

精神の危機を感じて外国滞在を決意した作家の父に、妻が同行する。残された3人の兄弟妹の日常。脳に障害を持った長男のイーヨーは“ある性的事件”に巻き込まれるが、女子大生の妹の機転でピンチを脱出、心の平穏が甦る。家族の絆とはなんだろうか――。〈妹〉の視点で綴られた「家としての日記」の顛末に、静謐なユーモアが漂う。大江文学の深い祈り。

 

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 「深夜テレヴィ映画から弟が録画してくれた,タルコフスキーの『ストーカー』を見た.」と書き出されるこの小品は,そのまま映画『ストーカー』の感想談義といった趣向になっている.複数の視点がそれぞれに織りなす考え方,感じ方の違いがおもしろい.(大江の描く人物は文章体でよどみなく長ながとしゃべるが,このあたりがハマるひとはハマると思う.わたしはとても好きである.)はじめにとった引用といくらか似通うような箇所を引いてみたい.

 案内人の奥さんは暗い情熱をひそめている美しい人で,発作を起したように床に倒れて苦しむ際も,静かに苦しんでいる姿体の全体が美しい.つい「成人向け映画」を連想してしまったのも,ハッとするほど官能的な美しさがあったからだと,オーちゃんなら分析するのじゃないだろうか? 実際,私は,自分がこんなに美しい躰になることはあるまいと,羨望より尊敬の心で思っていた.しかもその案内人の奥さんが,どうしても危険な「ゾーン」に客ともども出かけずにはいられない夫に絶望して,――結婚したのがまちがっていた,だから「呪われた子供」が生まれたという,その言葉に私は心を奪われてしまったのだった.

 なんとか無事に「ゾーン」から帰った,疲れきっている案内人も,客たちが「ゾーン」の中心の「部屋」で人間にあたえられるはずの魂の喜びを本当にはもとめていなかったとさとって絶望している.案内人は,「ゾーン」が堕落した人間を立ちなおらせると信じている,可哀想なほど真面目な人だから.その案内人をベッドに寝かせてやった後で,奥さんは突然私たちの方へまっすぐふりかえる.それからインタビューのカメラに答えるように,心のなかで思っていることを話し始める.劇映画の手法にこんなやり方がよくあるのかどうか知らないけれど――私の母方の祖父は映画監督だったし,伯父も現役の監督だけれど,私は弟同様映画をわずかしか見ていないから――,そのシーンは本当に好きだった.奥さんは,夫がノロマでみんなからバカにされていた青年であること,自分が結婚する際に母親から,案内人は呪われているから,変な子供しか生まれないはず,と反対されたことを思い出す.それでも自分がこの人と結婚したのは,ずっと単調な生活より,苦しいけれどたまには幸せもある生活の方がいいと,後からコジつけたのかも知れないけれど,ともかくそう思ったからだと話す.このところで私は,――いいえ,あなたは後からコジつけたのじゃなく,そのように始めから考えていられたのだし,その考え方は正しいと思う,と叫びたい気持ちだったのだ.

 

最後に,関係のあるような,でもたぶんない話.1931年に生まれ,97年に京都市龍安寺のアトリエで自裁した麻田浩という画家がいる.たとえば,新潮文庫の三島『鍵のかかる部屋』のカバーは麻田の仕事だ.わたしは以前,京都国立近代美術館を訪れたときに,麻田浩没後10年展の図録が半額で販売されているのをみて喜んで購入したのであった.タルコフスキーの神秘的で美しい画面を見ていると,いつもこの画家の描く廃墟の絵が脳裡に浮かんでくるような気がするのである.以上.

麻田 浩  静謐なる楽園の廃墟

麻田 浩 静謐なる楽園の廃墟

 

読書会のこと

ブログを更新するために文章を書くのは実に虚しいうえにただの恥さらしなので,どうすべきかいつも逡巡してしまうのだけれども,今日は大学で偶然に会ったひとと久しぶりに人間らしい会話ができて機嫌がよいので,書いてみることにした.あとで思いや考えのいろいろに変わることことがあろうと(そしてそれがほとんどであろうとも),わたしはそのとき頭に浮かんだことは書いておくことに決めたのである.それに,記事をたとえば100本投稿するとなにかいいことがあったりするかもしれないし…….

 

ひょんなことからとある社会人の文芸読書会にときおり参加させていただくようになって,もうけっこうな期間になっている.世の中には奇妙なめぐり合わせというのがたまにあるものです,たしかに.このあいだの休日に催された会にも朝から出かけていって,松浦寿輝『幽・花腐し』と堀江敏幸『熊の敷石』についててきとうなことをしゃべっていた.こういう本は,どのあたりを引用するかなど,すこしは前もって考えておかないと紹介しづらい.そういう意味では多少は話す練習になるかもしれない,まあ,あくまで気楽な場だけれども.ほかのひとのものでは,村上春樹螢・納屋を焼く・その他の短編』や西村賢太苦役列車』,町田康『珍妙な峠』なども印象深かったが,マルケス『族長の秋』にいちばん驚いたような気がする.わたしが読んだ限りではもっともおもしろかったマルケスは『族長の秋』である.小説のひとつの理想はどこから読み始めてどこで終えてもよいというもので,『族長の秋』はまさにそうした物語だ,みたいな書評をむかし読んだような憶えがあるのだけれど,どこで目にしたのだろう,解説とかかしら,よくわからない.

 

お昼を食べて,ひとまず解散.天気がよかった.わたしを含めた男性4人であまりあてどのない散歩をしていた.日陰では吹きつける冷たい風に身をすくめるようであったが,昼下がりの意外に暖かい日差しを浴びながらしばらく歩いていると今度は汗がにじむほどで,コートを脱ぐことになった.それぞれに嗜好の差はあれ,それなりに変な本を好んで読むひとたちのあいだでは,だいたいどんな話を切り出そうと許容されるしあるていどは共感もされているだろうという雰囲気が漂っている(と思う).他人を自分をてきとうに揶揄することについてさして抵抗がない.そういうわけでとても晴れやかで愉快な気持ちであった.

 

わたしはまったく手をつけたことがないのだが,トマス・ピンチョンの話が出た.さいきん大学の友人ともすこし話題に上ったのだけれど,新潮社のピンチョン全小説シリーズはほんとうに装幀が格好よい.部屋に置いておくだけで小さなアクアリウムくらいのインテリア効果は期待できるのではないかと思う.とくに『重力の虹』.はたして読み通すのにどのくらい骨が折れるのだろうか…….こういう類いのものを,単行本はいつ絶版になるかわからないなどといって買い始めると悲惨なことになるのであろう.

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 
トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

カフカを熱心に読んでらして,『城』がとくによい,という方がいた.恥ずかしながらわたしは長篇をまともに読みこなしたことがない.村上春樹ねじまき鳥クロニクル』との関連で『流刑地にて』の話をしていて,やはり個人的にはカフカ岩波文庫の『カフカ短篇集』がもっとも印象深いと思った(彼の日記などもとてもおもしろいのだが).最後に収録されている『万里の長城』がとても好きである.すこし引いてみる.

 われわれの国土はかくも大きいのだ.どれほど壮大なお伽噺もこの国の大きさにはかなわない.大空でさえ,われらが国土をつつみかねている.――一方,北京は単なる一点である.皇帝の居城ときたらシミのように小さい.皇帝の威光はあまねく世界にたなびいているが,うつし身の皇帝はわれわれと同じ一人の人間にすぎず,われわれと同様に長椅子に寝そべっている.それがいかに華麗な椅子であれ,長さ,大きさなどしれたものだ.われわれと同じようにときには伸びをし,疲れれば手を口にそえてあくびをすることもあるだろう――しかし,どうすればその種のことを知りうるのだ.何万里もはなれた南方であって,少し行けばチベットの山系に踏みまようところなのだ.知らせが届くとしてもはるかな時がたってからのこと,もはや古びはてている.皇帝のまわりには廷臣どもがひしめいていることだろう――綺羅星のごとく,かつまた黒雲のごとく.臣下や友人の衣をまとっていても,あまたの悪意をひめ,敵意を抱いた者たちであり,君主に対抗する一方の雄として,あわよくば毒矢の一刺しで皇帝を倒しかねないのだ.君主制そのものは不滅だとしても個々の皇帝は,あるいは倒れ,あるいは失墜する.連綿とつづいてきた王族も,いずれは栄光地に落ちて,ついには滅ぶ.民衆はこの間の闘争や苦難について何一つとして知ることができない.町の広場では王の処刑が行なわれているというのに場ちがいな遅参者さながら,あるいは山出しの田舎者のように,ぎっしり人が群がっている横丁の奥につっ立って,手持ちの何やらをモグモグ食べているようなものなのだ.

 

そういえば,一時期もてはやされていた『読んでいない本について堂々と語る方法』はわりにまじめな内容でおもしろいらしいと聞いた.そのうち読んでみたい.

 

いまどきウェブ上でひとを募っている読書会はあまたあるけれども,いわゆる自己啓発本やビジネス書などを中心に扱うところがわりに多くてわたしは苦手であった.一冊もろくに読まずしてあれこれいうのはご法度かもしれないが,すくなくとも前者にかんしては,セネカの『生の短さについて』とか,ラッセルの『幸福論』とか,神谷美恵子の『生きがいについて』とかを読んでいたほうがよほどいいのではないかと思ってしまうが,どうなんでしょうか.

言葉への讃歌

いつの間にこんなことになってしまったのか,というのはつねに見当のつかない困った問いであるが,本のページを繰っていてふと,やはりわたしは文字のひとつひとつから一冊の書にいたるまで,いろいろなスケールで言葉というものが好きなのだなあとしみじみ感じたので,うまくいくかわからないが,書き留められるだけのことを書き留めておく.そのときどきの接し方は異なってゆくにせよ,人間はなにかひとつくらい,こころから愛することのできるものがあるにしくはないだろう.

 

泉鏡花は,ほんのわずかであれ文字の書かれたものはなんでも大切にしたといわれる.さらには指で空に書き順をなぞったあとは,必ずそれを掃き消すしぐさをしたとも.そこまで極端ではないにしても,わたしも書物はもちろんだが,岩波の「図書」の冊子などもどうしても手放すことを躊躇してしまう.刻印された文字というのは魔術的なもので,そちらへ視線を向ければ読めと誘い,その力には抗いがたく,否応なしに読まされてしまう.そこにはなにか,こことは別の次元でもうひとつの世界が立ち現れる.わたしはできるだけそれを失いたくないと願うのかもしれない.

 

まえも触れた西脇順三郎だが,彼は親族のだれかに英語を教えることになったとき,まず初めに教科書を「嗅ぎなさい」といったという.本はただ手にとって読むだけのものというわけではない.その持ち重りをたしかめ,ためつすがめつし,揃っていたりいなかったりする天を指先でなぞり,てきとうなページを開いてすべらかな表面を撫でてみ,その字面をうっとりと眺め,両の頬をあててのどを嗅ぐのである.わたしはできるだけきれいに保っておきたいと思うから,書店でかけてもらったブックカバーがなかなか外せない.教科書や参考書のたぐいは思い切りよく汚してしまうこともあるけれど,基本的になにか書きこむのもためらわれる.

 

本のページが一枚の絵画のように美しくみえることがある.全体を一様に眺めているというわけではなく,見ているのはいつも数センチ平方くらいの領域であるような気がする.どこへ目を向けても漢字とかなのバランスがよく,平面に心地よい強弱が生まれている.漢字は美しい,白の地に黒々と自身を強調するそれは瞬時に鮮烈なイメージを喚起させてくれる.それらのあいだを,ひらがながゆるやかにつないでいる.いくつかのひらがなの連なりはなんともいえず優美で,やわらかい.読書の現場にもさまざまあるのはいうまでもないことだが,本好きとしては,こうした言葉の小さな単位がおのおのの魅力や心地よさをまとって立ち現れる経験を大切にしたい.テクストの愉悦はつねに細やかな部分より成る(ついでにこれは文句であるが,上のように視覚的な美もまた読書の欠くべからざる要素である以上,活字の組み方はきわめて重要である.文字のサイズが大きくなり,行間が狭く感じられるとどうにも字面に品がなくなる.ただ見やすければよいというものでもない)

 

おわかりいただけると思うが,こういう読み方をしてしまう場合に話の筋を追って先へ先へ読み進めることなどまずできない.意味と形のあいだを読むかのような状態はとてもたのしく,かってなところをめくって数行をゆっくり咀嚼するだけでも満足してしまう.詩集を手にとるというのも一興だが,ここでは古井にしよう.手元の『鐘の渡り』より,てきとうな箇所を引く.ひらがなの流れは,ほんとうはもちろん縦に書くほうが映えるのだけれど,やむを得ない.

 ――見る目にも耳にもすさび遠ざかり

     冬の林に水こほる聲

 老いれば見るものにつけ聞くものにつけ興の薄れるのは自然のことであるのに,あながちに興をもとめる.興にまかせることのならなくなった身をわきまえず,興から隔てられていくことに心やすからず騒ぐ.今の年寄りのまずしさである.老いの面白さは興の尽きかけたところにあるはずなのに.

《耳にも遠ざかり》を《水こほる聲》を受けたのは,絶妙な付けである.寒夜の老体の,すさびに遠ざけられた耳にして初めて得られる,明聴を思わせられる.森羅万象の上へはるかにひろがっていきそうな明聴である.この句を詠んだ宗長は当時まだ男盛りの年にあったそうだが,少年から老年まで,生まれる前から死んだ後まで,今この時においてわたるのが,歌の心というものか.

 それにしても,水の凍る声とは,何なのだろう.よけいな訝りなどをさしはさまずに,音にも立ちそうな寒気の蹙りを聞き取っていればよさそうなものを,なにやらしきりに我身の既知感を,いつか耳から染みて目に浮かべた光景を誘い出しそうになる.生涯くりかえし寝床から聞いたような気もしてくる.そんな林をすぐ近くに控えたところに住んだこともない.

 枯木の林を渡る風の運んで来る音ではないようだ.風はやんでいる.ついさっきまで霙が吹きつけていた.その静まったあとの,天が抜けたか,刻々と冴えていく中から,小枝の弾ける音が立つ.遠くまで風の吹き返しのように渡っていく.おそらく樹皮の傷に染みこんだ水滴が氷点の境から,罅を押し分けて氷結する音なのだろう.風に堪えてきたのがいまさら折れて,地に落ちる小枝もある.

 

気に入ったところがあったら,わたしは声に出して読むのも好きだから,けっこうひとりでブツブツやっている.幼少期から漢文の素読が身体に刷りこまれていた時代から,大切なことがそんなに変わっているはずもない.音の響きを意識すると,文章のリズムのよしあしがよりはっきりとわかる.詩歌の鑑賞にせよ外国語の学習にせよ,馬鹿みたいになんどもくり返して音読することである.まあ,そんなことばかり考えていると,修論も文章の巧拙ばかりが気にかかって,一向に書き進められなくなってしまうのだけれども.

 

生活のことをすこし.友人が家にやってきて,ふたりでビーフシチューを作ってワインを飲んだ.ひとを自室に上げたのも久方ぶりのことだ.わりにきちんとワイングラスの手入れをしておいた.背の高いグラスは(ふだんの置き場には困るけれど)曇りなく磨きあげることができると見栄えがしてよい.赤ワインはいくらでも飲むことができるなあ,酒量が減ったなどというのもたぶん嘘なのではないかと思う.そのあとはなぜか漢字の書きとりで勝負をしていた.ふだん手で字を書く機会がすくないと常用漢字もなかなか正しくは綴れないものである.みなさんもやってみてはいかがでしょうか.

秋の土曜日,日記

目下のところ世界がわたしに対してたいそう親密であり,初めノートにさらさら書こうとしていたことを,なんとなくこちらへ認めようという気がしたので,そうする.大切なのはぼんやりとした全体の構想を揮発させないことだ.急げ.とりこぼすな.

 

よく晴れた秋の土曜日だった.たとえいささか眩しくとも,カーテンをすべて開けてしまうことにすこしもやぶさかでなかった.おまけに珍しく部屋が(わたしの基準で)きれいに片づいているのだ.それはとてもよいことに思われた.友人が久方ぶりに更新したブログを読んだ.それはある種の愉悦の体験であったし,そこで山下達郎の『DOWN TOWN』が言及されていることが,なんだかとても嬉しかった.この曲に関連してふたつ,紹介したい.

 

ひとつは,二年ほどまえに16巻をもって完結した石黒正数の名作コミック『それでも町は廻っている』である.アニメもおもしろいのだが,そのOPテーマが坂本真綾のカバーする『DOWN TOWN』なのだ.折に触れて読み返したくなる,よい作品です.

 

もうひとつは,むかし熱心に読んだ奥田英朗で,たぶんもっとも有名ではなかろうかと思われる伊良部シリーズ第一短篇集『イン・ザ・プール』である.しばらくまえに映画版を観たのだが,EDテーマで『DOWN TOWN』が流れたときに思わずテンションが上がってしまったのを憶えている.どのお話も痛快無比でたのしい.

イン・ザ・プール (文春文庫)

イン・ザ・プール (文春文庫)

 

 

さて,昼下がりから横になって,さいきん文庫になった小さな本のページを繰っていた.まえも書いた堀江敏幸の『その姿の消し方』である.表紙にはフランス語で副題のようなものが刷られており,それは "Pour saluer André Louchet: à la recherche d'un poète inconnu" となっている.猫も杓子もプルーストだ.

その姿の消し方 (新潮文庫)

その姿の消し方 (新潮文庫)

 

その句が示す通り,これは名を知られぬひとりの詩人を追い求めて展開する物語である.留学生の時分,「私」は古物市で一枚の古い絵はがきを手に入れた.時代がかった廃屋のごとき建物と,手前には朽ちた四輪馬車が写ったあまり見栄えのしない写真.消印は1938年だから,その時点で半世紀以上も昔のものだ.差出人の名はアンドレ・Lで,ある女性へ宛てられている.そして,几帳面な筆記体で十行の詩のようなものが綴られていたのだった.

引き揚げられた木箱の夢

想は千尋の底海の底蒼と

闇の交わる蔀.二五〇年

前のきみがきみの瞳に似

せて吹いた色硝子の錘を

一杯に詰めて.箱は箱で

なく臓器として群青色の

血をめぐらせながら,波

打つ格子の裏で影を生ま

ない緑の光を捕らえる口 

 ふたたび彼の地を訪い,アンドレに縁のある人々と関わるなかで描き出されてゆく,「詩人」の肖像とは.もう一箇所だけ引いておく.なんとも幸せを感じさせてくれる文章ではないか.

 ルーシェにとって絵はがきの文言は,向こうとこちらのあいだにあって,どちらかへ比重を移すことを目論むものではなかった.生活があり,戦争があり,女性名の名宛人がいて,家族もいる.そのような全体に組み込まれたものとして彼の言葉はある.それでも,読むたびにルーシェの言葉が私のなかに見出すのは,最終的には片恋に似た場所だった.片恋とは対象を特定しない心の吐き出しである.脳裡に浮かんだ想いを,彼はただ吐き出していただけなのかもしれない.吐き出したいだけなら,日記や手記に綴って筐底に収めておけばいいのだが,彼はそれを選ばなかった.読み手を,受け取り手を頼った.読んでくれる相手があったからこそ絵はがきに言葉を綴り,名宛人の住所氏名を記し,切手を貼って投函したのだ. 

 

陽の暮れつつあるころ,開け放たれた窓の外からぽつぽつと雨の落ちかかる音がした.それは次第に勢いを増し,やがてバケツをひっくり返したように降り出した.いくどか稲妻も光った.ガラス越しにくぐもった音を聞きながら,わたしはもっと,もっとずっと強く降ればいいと思っていた.向かいで,おそらく小学生くらいの男の子が鍵を忘れたかなにかで家のなかへ入れず,ずっとお母さん,と呼びかけていたのはいたたまれないことではあったが.出かけていく時刻になっても,依然として降り続いた.傘を差していったが,しばらく歩いて忘れものに気がついて引き返した.ふたたびドアを開けたとき,雨はもうほとんど止んでいた.

 

ふだんあまり用事のない東京の西のほうでささやかな酒席があった.ワインをボトルの半分ほど飲んで,とても気分がよかった.予想のできないことはあるもので,ロラン・バルトがしばらく話題に上ったのだった.わたしは『恋愛のディスクール・断章』が好きで,これだけは手元にもっている(『明るい部屋』も,もうすこし安価に手に入らないものか……).恋愛にまつわる多種多様なテーマの複雑な諸相を,自在な引用を交えつつ鋭く分析してみせる筆致が魅力的だ.

恋愛のディスクール・断章

恋愛のディスクール・断章

 

断章形式だからどこをどう拾い読みしてもよいのだが,たとえば「不在」からひとつ(上の本と関連するかもしれないようなものを)引いてみよう.

 不在の人にむけて,その不在にまつわるディスクールを果てどなくくりかえす.これはまことに不思議な状況である.あの人は,指示対象としては不在でありながら,発話の受け手としては現前しているのだ.この奇妙なねじれから,一種の耐えがたい現在が生じる.指示行為の時間と発話行為の時間,この二つの時間の間で,わたしは身動きもならない.あなたは行ってしまった(だからこそわたしは嘆いている),あなたはそこにいる(わたしがあなたに話しかけているのだから).そのときわたしは,現在というこの困難な時間が,まじり気のない苦悶の一片であることを知るのだ.

 不在が続く.耐えねばならない.そこでわたしは不在を操作するだろう.つまり,そうした時間のねじれを往復運動へと変形し,律動を生み出し,言語活動の舞台を開くのだ(言語活動が不在から生まれる.子供が糸巻きを人形に仕立て,ほうり出しては拾いあげて母の出発と帰還を真似る.ひとつのパラディグムが創り出される).不在が能動的実践となる.ひとつの多忙(わたしがほかのことをするのを妨げる)となる.数多くの役割(懐疑,非難,欲望,憂鬱)をそなえたフィクションが創り出されるのだ.そうした言語的演出は相手の死を遠ざける.子供がいまだに母の不在を信じている時間と,すでに母の死を信じている時間を隔てるのは,ごく短い瞬間だという.不在を操作するとはこの瞬間をひきのばすこと,相手が不在から死へと冷淡に入りこむあの瞬間を,できる限り遅らせようとすることなのである. 

 

帰ってきてから山下達郎を気ままにあれこれ聴いていたら,『メリー・ゴー・ラウンド』にはまってしまったので,ずっと流しながらこれを書いていた.名曲である.夜が深まるにつれて,わたしのような人間でも生きることを許されているように感じられてきて落ち着く.ところで,こういうタイトルのつけ方って「積みわら,日没」みたいでよくないですか.そうでもない?そう…….

邦画を何本か

  • 『海街dairy』

吉田秋生のコミックスが原作.観よう観ようとまえから思っていたが,ようやく.鎌倉の古びた一軒家に四姉妹が暮らす,というお話.だいたい『細雪』いらい,四姉妹ものはおもしろいと相場が決まっているのだ(?).法事帰り,長澤まさみが礼服のストッキングをあわただしく脱ぎ捨てるところとか,よかったですね.喪の艶っぽさ,みたいなものがところどころにある.樹木希林が亡くなられたのは残念なことである.


海街diary予告篇

 

いまさら観た.夢破れたチェリストが故郷に戻って見つけた仕事とは.先日,実家のほうで法事があったからといえばやや聞こえがいいが,実際のところ広末がみたかっただけだ.個人的には山崎努がよかった,ふぐの白子を焼いて食べるところとか.それにしても,葬式というのも奇妙なものである.葬儀屋さんの所作がいやに「手際よく」見えてしまったり,故人を荼毘に付している裏でビールを飲んでいたり.

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松たか子の初主演作.短いけれども,すてきな作品.大学へ通うため旭川から上京してきて一人暮らしをする卯月だが,彼女の志望の動機とは何だったのか.風に舞い散る桜の花に始まって,雨に映える真っ赤な傘で終わる.

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  • 『百円の恋』

三十を超えても実家でだらけていた一子が,ひょんなことからボクシングにのめり込んでいく.分厚い肉をずっと噛み切れないでいるうちに涙があふれてくるところがよかった.トレーニングを始めてからの安藤サクラの体形の変貌ぶりがすごい.試合のシーンに思わず見入ってしまう.


『百円の恋』予告編

 

小津安二郎の遺作.妻に先立たれた父親,その娘もそろそろ「片づけ」ねばならぬ頃合い.昭和だ,いいなあ.わたしはただ昔のものだけを愛して生きていこうと思う.日本家屋で柱時計が鳴っているのなど聞くと実家を思い出す.そういえば小さいころは尾のほうだけ選っていたものだが,このまえ飲み屋で(一人暮らしで魚など焼かないので)ずいぶん久しぶりに秋刀魚の塩焼きを食べたら,ワタもおいしかった.まあ,この作品に秋刀魚は出てこないが.


『秋刀魚の味』予告編

 

林芙美子原作.戦時中の仏印で出会った男女の,どうしようもないずるずるの物語.森雅之の自堕落で気だるげな感じがほんとうにいい.それでいてたしかな気品も漂う.こんな男なのに離れられないのはどうしてなのだろうか.名作です.

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地下室の手記

「やっとくたばりやがった.俺はこいつみたいに内面のないやつは嫌いだ.おまえに内面はあるか」

―映画『冷たい熱帯魚』より

 

暗澹として内向的になってきたので,どんなふうにものを書けばいいのかということについての感覚が戻ってきた.よいことだ.世の中には言葉の二重の意味においてしか喋ることのできない人間というのが存在している.いつも念頭に死ぬことばかりを置いて暮らすこと,これも一種のお守りであり,祈りである.文章は,書けそうだったら,たぶん書いたほうがいい.沈鬱なときに存外しっくりくるフレーズが浮かぶなどというのはよく言われること(直近だと,古井由吉『人生の色気』にそんな話があった).書くとは孤独のことで,かってに思いがけないところまで連れて行かれることだ.まったく想像し得ない価値の転換のごときものを,筆を走らせながら感じとることだ.決して書かれ得ないものを,逆説的に体験することだ.余計なことを考えないで済んでいると,日記にも「なにも書くことがない」以外に書くべきことがなくて困っていたのだ.わたしには日記の構成するささやかな全体性に賭けているようなところがあるというのに.(どうでもいいが,このまえ大学ノートの一冊をまた使い切った際に日記を読み返していたところ,昔のほうがずっと字が几帳面であった.見習いたい)

 

自分ひとりでの摂食がまことに不得手で,涼しくなってからの主食がインスタントコーヒーといって差し支えないのであるが,ここのところ満足に眠ることもできなくなってきた.たいして食べず眠らずでもわりあいふつうに生活できるのだ.夜を徹して迎えた明け初めのような妙な高揚感がつねに身体を満たしているように感じられ,常時ペースを保ってうまく活字を読み進めることができた.しかしとうとう揺り戻しが来たのかもしれない.いつも独りでいて,自分のためだけになにかをし続けなければならない,というような強迫観念は,よほどよい条件下でないと満足されることはない.けっきょくのところ,経験に照らしてみても,特定の気分はせいぜい数日間くらいしか持続しないのである.

 

心と生活の平穏をこよなく愛している.先のよく晴れて陽の烈しかった日,布団を干し終えて横になり,ベランダの向こうに高い蒼穹を眺めていたわたしは確かに幸福であった.それでも,たほうでなにか無茶苦茶なことがしたいとも思うことがある.一発芸などの場(あるのか?)でおもむろに手首を切り裂くとか.まあ,数ヶ月前に指先を削いでしまった件でもう怪我はこりごりだし,しょせんわたしにはできないことだけれども.世の中で狂的だと言われているような行為は,おしなべて完全に明晰な意識で,当人なりに限界まで計算され尽くして為されるものであろう.『罪と罰』にしても,老婆の頭へ斧を振り下ろすその瞬間に向かって,作者の筆はいよいよ冴えわたり,その心理描写にはほとんど慄然とさせられるものがある.人を殺さずしてこれが書けるのだろうかと,初めて読んだときに感じたのを憶えている.むろん,その後にどんなにおぞましく生々しいことが待ち受けているかというのは,また別の話である.

 

他人の私的生活などに継続的な興味様のものを抱き続けることが社会のコツであるらしいが,わたしにはあまり(さいきんは特に)自信がなく,すぐに本が読みたいな,というような気分がどこからか浸食してくる.もっとも,とち狂った話があればわりに喜んで聞くのだけれど.ひとのすくないところに隠栖して一生を辞書を引くことなどに費やしたい.そういうのがやはり人間のあるべき姿ではなかろうか.毎日えんえんと同じように,何のためでもなさそうな地味な作業を,一種の奇矯な情熱をかたむけて続けること.昔のひとたちがある特定のテクストに膨大な註解をつけたように.自らの身辺から遠く隔たったものごとにたいする憧憬の念を持ち,ほんのわずかであれそれに奉仕することができるというのは,喜ばしいことに思える.

 

さて,すこし毛色が異なるが,さして役にも立たない地味な仕事といえば,ニコライ・ゴーゴリ『外套』はわたしの好きな作品だ.官吏アカーキイは万年九等官,来る日も来る日も与えられた文書を一字一句たがえずに清書するだけの業務をこなしている.すこし長いが,次の一節などすばらしい.青空文庫より引く.

 ペテルブルグの灰いろの空がまったく色褪せて、すべての役人連中が貰っている給料なり、めいめいの嗜好なりに従って、分相応の食事をたらふくつめこんだり、また誰も彼もが役所でのペンの軋みや、あくせくたる奔命や、自分のばかりか他人ののっぴきならぬ執務や、またおせっかいなてあいが自分から進んで引き受けるいろんな仕事の後で、ほっと一息いれている時――役人たちがいそいそとして残りの時間を享楽に捧げようとして、気の利いた男は劇場へかけつけ、ある者は街をうろうろしながら、女帽子の品定めに時を捧げ、夜会にゆく者は小さな官吏社会の明星であるどこかの美しい娘におせじをつかって暇をつぶし、またある者は――これが一番多いのだが――安直に自分の仲間のところへ、三階か四階にある、控室なり台所なりのついた二間ばかりの部屋で、食事や行楽をさし控えてずいぶん高い犠牲の払われたランプだの、その他ちょっとした小道具といったようなものを並べて、若干流行を追おうとする色気を見せた住いへやってゆく――要するにあらゆる役人どもがそれぞれ自分の同僚の小さな部屋に陣取って、三文ビスケットをかじりながらコップからお茶をすすったり、長いパイプで煙草の煙を吸い込みながら、カルタの札の配られるひまには、いついかなる時にもロシア人にとって避けることのできない、上流社会から出た何かの噂話に花を咲かせたり、何も話すことがないと、ファルコーネの作った記念像の馬のしっぽが何者かに切り落とされたといってかつがれたと伝えられている、さる司令官の永遠の逸話をむし返したりしながらヴィストにうち興じている時――要するに、この誰も彼もがひたむきに逸楽に耽っている時でさえ、アカーキイ・アカーキエウィッチはなんら娯楽などにうきみをやつそうとはしなかった。ついぞどこかの夜会で彼の姿を見かけたなどということのできる者は、誰一人なかった。心ゆくまで書きものをすると、彼は神様があすはどんな写しものを下さるだろうかと、翌日の日のことを今から楽しみに、にこにこほほえみながら寝につくのであった。このようにして、年に四百ルーブルの俸給にあまんじながら自分の運命に安んずることのできる人間の平和な生活は流れて行った。それでこの人生の行路においてひとり九等官のみならず、三等官、四等官、七等官、その他あらゆる文官、さては誰に忠告をするでもなく、誰から注意をうけるでもないような人たちにすら、あまねく降りかかるところの、あの様々な不幸さえなかったならば、おそらくこの平和な生活は彼の深い老境にいたるまで続いたことであろう。

 

わたしはたとえば,千羽鶴を折り続けるなどして糊口を凌ぐことができぬものかと願っている.以上,またそのうちに.いつか死ぬみなさんへ,ロシアより愛をこめて