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熊野純彦『メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』

 

 内容紹介:

哲学者は、客観世界や言葉として認識される以前の「ありのままの世界」を見つめなおし、世界をめぐる経験を言葉に紡ごうと試みる。それは詩人の営為と似てなくはないか? 『知覚の現象学』を元に詩的な言語が可能となるような経験とは何か、その成り立ちを問う。


 わたしは熊野さんの書く日本語がすきで,ときおり著書を手にとるのであるが,今回この小さな本を図書館で借りてきたのは,上のリンクの選書にあたって立てられた軸の最後が「詩と思想の交錯へ」というものだったことによっている.この興味深い問題設定にかんして熊野さんの考えていたことを,ほんの一端ではあろうけれども,読んでみたかった.漢字をひらがなへ開く箇所が多いというのはよく言われることであるが,じっさい,やわらかな印象を与える抒情的な文体は,本書の副題の問いに分け入るだけの力をもっているのではないか,という期待も否みがたくあった.肝心のところについてはたぶん引用しかしないけれども,それは魅力あるテクストそのものに対する敬意の表明である,と懶惰の言い訳をしておく.

 

 一書はランボーを引いて始まっている.

また見つけたぞ!        Elle est retrouvée !
—なにを?—永遠を.      — Quoi ? — l'Éternité.
それは,太陽と混じりあう    C'est la mer mêlée
海だ.             Au soleil.

ひとの生はそれぞれにかぎりのあるものなのだから,永遠とはなにかを,ほんとうはだれも知らない.ひとりも見たことがないものについて,ただことばがある.ことばだけはあるのだから,永遠とはどのようなものであるのかを,ひとは問うことができる.答えのない問いに,詩人は,けれどもひとことで応えている.海と番う太陽こそが永遠なのだ.

詩のことばは見えないものを見えるようにする.詩は世界の風景を変貌させ,世界をめぐる経験を一新する.そうしたことばこそが詩であるとするならば,詩のことばは,哲学のことばとかよいあうものではないだろうか.哲学もまた,見えないものを見ようとするこころみであり,世界を見つめなおし,世界をめぐる経験に新たな光を当てようとするいとなみであるからだ.

世界とはなにか.経験とはなにか.世界を経験するとは,なにか.こうした問いに,一挙に回答が与えられることはない.問いは,だから,繰りかえし問われる.反復して問いが問われることそのものが,ある意味では問いに対する答えとなっている.詩は答えのない問いに答えを与え,その答えそのものが,やがて問いの反復となる.哲学もまた問うことそのものであり,問いのまえで立ちつくし,繰りかえし問いつづけるこころみにほかならない.哲学的な思考のいとなみは,そのかぎりで,詩人がことばを探しもとめる場面にほど近いものとなる.世界と,世界をめぐる経験のすべてが,そこに結晶しているような一語を語りだすために,いくえにも錯綜したことばのすじみちを,あらためて辿りなおさなければならない.そのとき哲学的思考が抱えこむことになる困難は,日常の風景を反転させて,世界の相貌を一変させる一行の詩句を探しあぐねる詩人の困惑と,その質において,ほとんどひとしいものとなる.

 

日常の言葉をすり抜けてゆく経験をめぐる思考,それがなお紡ぎだす言葉の成り立ちをめざして,本論では,主に『知覚の現象学』を繙いていくことになる.非常におもしろいことに,本書で紹介されるメルロ=ポンティの身体論の一部が(文字通り)身にしみるようにわかったのである.そうざらにある体験ではなかろうから,書き残しておきたい(というか,今回はただそれが書きたかっただけだ).なぜそういうことが起きたのか.メルロ=ポンティは,わたしがまさにそれを生き,アクチュアルに経験している身体を「現象的身体」と呼び,これとたんなる物体としての客観的な身体との差異を問題にするが,それが際だってあらわれるケースとして,通常の状態からの逸脱,典型的には身体の「欠損」に注目する.有名な(もしかすると『MGSV:THE PHANTOM PAIN』が浮かぶかたもおられるかもしれないが)「幻影肢」の現象である.手や足の切断を余儀なくされたひとたちのなかには,術後に回復してからも,あたかも欠損部位が存在するかのように感じ,そこに痛みを覚えたりするケースがあるのだ.そして実は,わたしは先日,不注意から左手親指の爪の先端を,いくらか肉ごと欠く怪我をしてしまったのであった.

 

幻影肢において,「身体は二重のしかたで経験されている」.

患者は,「現在的な身体 le corps actuel」においては手足が欠損していることを知っており,他方で,「習慣的な身体 le corps habituel」にあってその欠損を否認しているのだ.

『知覚の現象学』が引かれているのを,孫引きだが,ここにも示す.

私たちに手足の切断や欠損をみとめようとさせないものは,物理的であるとともに間人間的なものである世界に巻きこまれている「私」であり,その「私」こそが,欠損や切断にもかかわらず,じぶんの世界に向かおうとしているのであって,そのかぎりで切断や欠損を,だんじてみとめまいとしているのである.欠損の拒否とは,私たちが一箇の世界に内属していることのうらがえしであるにすぎない.私たちを,じぶんの仕事,関心,状況,じぶんが慣れしたしんだ地平へと投げこむ自然な運動に対立するものを,暗黙のうちに否定しているのである.たとえば,腕の幻影肢をもつとは,その腕だけがなしうる行動のすべてに対してなお開かれていようとすることであり,切断のまえに有していた実践的な領野を,それでも保持しようとすることなのである. 

 

四肢の切断に引き較べれば,爪はゆっくりにせよいずれ伸びてきてほぼ元通りになるのだし,痕も残らないでしょうと伝えられたのだから,たいして大げさなことではないのだが,爪は指の微妙な力の入れ加減を制御するために不可欠なものであり,誰しも知るように指先の感覚は鋭敏である.怪我をしてから一週間もすれば,もう痛みなどはまったくなくなったので包帯をとってしまおうとしたが,まさに患部が見えようというとき,えもいわれぬ悪寒が走り,伸びきるまではそのままにしようと決めたのだった(いま,思い出しながらこう書いていてもいやな感じがする).

 

わたしは,「習慣的な身体 le corps habituel」において爪の欠損を「だんじてみとめまいと」する.いわば幻影として,爪は依然としてそこにあり,欠けていない.患部に包帯を巻き,左手を自然なしかたで宙に浮べているかぎりでは,「現在的な身体 le corps actuel」においてもそうである.しかしながら,いったん患部を直接に目にしてしまえば,あるいはついうっかり親指を机や壁に押しつけてしまえば,爪は「現在的な身体」において欠けてしまう.二重の身体のあいだの乖離が一挙に起こり,前者ならば脂汗のにじみ出るような思いをし,後者ならばあの気持ちの悪い感覚が指先を走ることになる.

 

わたしはまさに怪我をしたその十数分後,病院の駐車場で血管迷走神経反射を起こして倒れ込み,歩けなくなってしまった.医学をほんのわずかすらも学んだことがないから極めていい加減なことを書くが,あの目まいを引き起こした原因の一端は,(もちろん血もぼたぼたと流したけれども)応急処置を終えて冷静になってのちに,身体の欠損をありありと意識することからくる強烈な違和感および恐怖感が荷っていたように思えてならない.わたしは左手親指へ幾重かに被せたガーゼをおさえるとき,その先端にわずかあるであろう「へこみ」を右手が触覚してしまうことをなにより恐れていた(ここまで一気に筆が走ったが,もしかすると完全に的を外しているのかもしれないという疑念は晴れない.識者のかたは教えてください).はてさて,以上のことは怪我の功名と呼べるような類いのものなのであろうか.

 

いささか性急であるが,結びへ移ってしまおう.

 詩のことばは,いわば永遠の現在において紡がれる.詩人がことばを撚りあげ,詩句を編みあげようとするとき,通常の意味での時間は流れていない.詩のことばは瞬間をとどめ,現在を永遠なものとして語りだすことができるのである.哲学のことばはこれに対して,あくまで時間のなかで紡ぎだされるほかはない.哲学者はいつでも,時間のなかで永遠に追いつこうとする.経験の総体を賭け金として,時間を永遠の模像として語りだそうとするのである.それは,だから,およそ完結することのありえないこころみとなることだろう.

 哲学者は詩人であろうとして,しかし最終的には詩人そのものであることはできない.だが哲学的思考の,その宿命は,哲学が知を愛すること(フィロソフィア)でありながら,哲学者自身はけっして知者ではないことの,ひとつのあらわれではないだろうか.だからこそ哲学的な思考は,不断に問いを繰りかえし,おなじ場所から絶えず再開されることになるのである.

 

台風は過ぎ去っていったのだろうか,外で低くうなっていた風も凪いだようだ.代わりに鈴虫の鳴く高く怜悧な声が聞こえてくる.枕に頭を横たえ,ぼーっとしてふと思考が止むのを自ら意識すると,室内で静かに空気をかきまぜる扇風機の音と,窓の外から透明に響く虫のそれとが,まったくの無音よりもむしろ世界を森閑に感じさせる.わたしはこういうときにほんの束の間,幸せだと思う.

道化を演ること,サルトル『嘔吐』再読

 部屋を出て,約束通りに喫茶店へ向かった.タクシーに向かって右手を挙げ,煙草に火を点け歩いた.それからタクシーなど見てはいなかったが,それはまるで普通に客を乗せるように,私の前に停車してドアを開けた.少し面食らったが,自分が手を挙げたのだから,この状況は仕方なかった.そのまま車に乗り込み,大まかな行き先を告げた.運転手は私の言葉を聞くと,バックミラー越しにこちらを見,本当にそこでいいのかと,しつこく念を押した.それは多分,目的地が酷く近いためだった.私はそれでいいのだと,何度も言わなければならなかった.運転手は何かを呟いたが,諦めたのか,やがてアクセルを踏んだ.

 運転手は不機嫌な態度を変えようとしなかった.私は喫茶店の近くに病院があったのを思い出し,「子供が生まれそうなのです」と言った.運転手は一瞬私を見たが,しかし彼の態度は変わることはなかった.私はそれから,早産であることや,心の準備ができていないことを,にこやかに話した.しかし運転手は,まるで汚いものでも見るように,私の顔を見ていた.

 

中村文則『遮光』

 

先日の都内某所の集まりにて,友人とわたしと,それから初対面のかたとですこし話をすることがあった.わたしにとってはさして関心のある話題ではなかったから,あいまいにうなずいたり生返事をしたりしながら,他のふたりのあいだの空間へ見るともなく視線を泳がせ,ときおり思い出したように右手のコップに口をつけた.意外なことに友人のほうは興味をそそられたようであって,相手の説明に明朗な声で応じ,会話は弾んでいた.自分自身のことも適宜もちだしつつ,うまく話を引きだしているようであった.まあ,彼の専門になにほどかは関連しそうな領野のことでもあるしな,と思いながら,わたしは蛇蝎のごとくきらいなグローバルという単語がとうとう発せられるのを聞き,いよいよどうでもよくなっていった.

 

打ち解けた雰囲気で互いの情報を交換し,会話は幕引きとなった.友人はとつぜん「反省会をするぞ」とわたしに耳打ちすると,隅のほうへと歩いていった.訝しがりながらついていくと,彼は煙草に火をつけて吸い込み,ため息のように長く煙を吐き出して目を伏せる.わたしが「ああいうの興味あるんだな」と言うと,さきほどより思いきりトーンの下がった声色で,平然と「あるわけないだろ」と言い放って苦笑いするので,いささか面食らってしまったのであった.

 

まったくたいしたピエロだと感服してしまう.まともそうな人間を過剰ぎみの演技で欺くこと,それに一種の愉悦を覚えることは,わからなくもないが,わたしにはどうしても徒労に思われてしまってうまくできそうにない(そういうタイプだからこういう場でいろいろ書き殴るのだ).しかしながら,あれができればいくぶんかは社会生活がうまく送れるようになるだろうから,すこしずつ見習わねばなるまい.彼らの特徴のひとつとして,大まじめな顔でとんでもなく大胆な嘘が吐けるというのがあり,とかく状況を都合よく運ぶのに長けているから,羨ましいかぎりである.ぜったいにばれるだろうと(わたしなどは)思ってしまう嘘に,ひとは案外騙されるようなのだ.

 

ちょっと余談.わたしが初めて会ったとき,まるで『禁色』の南悠一のようだと(過去の記事にて)評したひとがいたが,彼も来ていて,(驚くべきことに)どうやらわたしの見立てはさほど外れてもいなかったようだと確かめることに相成った.というのは,ほぼ不能(らしい)で美青年の彼は,適当にそこらの女を引っかけては三島由紀夫が市谷駐屯地を占拠して自決した事件のことについてとうとうと話し,相手の顔にしだいに広がる困惑の表情をたのしんでいたらしいのである.そうとうに面の皮が厚くていい性格をしているなと思わされる.余談終わり.

 

上に引いた『遮光』の冒頭は,どうも座りが悪く奇矯な印象を与えてくる,すくなくともある種のおかしなひとでないと書けそうにない一節だ.わたしと友人とは,以前ここの「子供が生まれそうなのです」のところでげらげら笑っていた.この素っ頓狂な虚言は,彼にとってはほぼ完全に共鳴してしまう一言のようであった.ところで,中村文則サルトルの『嘔吐』が好きなようで,『遮光』の扉にもある箇所を引いている(白井浩司訳である).

一挙に私は人間の外観を失った.彼らは,非常に人間的なこの部屋から,後ずさりして逃げて行った一匹の蟹を見たのだ.

サルトルが唐突に書きつける「蟹」というワードは,メスカリン注射による幻覚の影響があるといわれるが,ユーモラスであると同時になにか暗喩をはらむようでいてたいへんおもしろい.友人が読みたがっていたがまだもっていないそうなので,このたびプレゼントすることにした.たのしんでいただければ幸いである.

 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 内容紹介:

20世紀フランス文学の金字塔、60年ぶりの完全新訳!
港町ブーヴィル。ロカンタンを突然襲う吐き気の意味とは……
一冊の日記に綴られた孤独な男のモノローグ。

 

わたしが初めて『嘔吐』を知ったのは,たぶん,物好きなひとは知っている,アンサイクロペディアのこのページであったように思う.

https://goo.gl/pU4O

 「秀逸な記事」のひとつである「読書感想文に書くと親呼び出しにされる図書一覧」であるが,見てもらえばわかるように,なぜかいまは『嘔吐』が入っていない(記憶にあった谷崎の『春琴抄』と『痴人の愛』,埴谷雄高の『死靈』もなくなっている).「安全」の判定がなされたのであろうか,それはよいことなのか悪いことなのか.おぼろげに憶えているかぎりでは,冗談めかした雰囲気で冷評されていたようが気がするのだが,個人的には実に魅惑的な文章の連なる作品であると思う.

 

『嘔吐』は真正の哲学者の手になる稀有な小説であり,サルトルはこうした文学的に薫り立つ文体をも高度に操ることができたのだなあと感心させられる.他のあらゆる問題の手前にある問題,その得体の知れないなにかにひたひたと精神を冒されてゆくひとりの男の手記の形をとる(とらざるを得ないだろう).さいきん身の周りでよく話題に上る一書なので,このあいだからちまちまと読み返している.学部のころに読んだときは,やや苦しみながら無理に読み通した感があったが,今回はゆっくりと進むにつれて身に沁みとおるような箇所がいくつも散りばめられていることを発見する.わたしは自身が時とともに変わっていくことなどまったく実感することができないが,本を読むことを通じてそれが感じとられることもあるようだ.ある種の語りにくいことがらを語ろうとする言葉にたいする感受性の変化,そういったものを知ることも読書の愉しみのひとつであるらしい.もっとも,『嘔吐』がおもしろくなることを素直に喜んでいいのかはまた微妙なところであるが(しかし,この喜びは他のなにものにも代えがたい).

 

まず,書き出しからしてわたしにとってはほとんど感動的である(鈴木道彦訳を用いる).

一番いいのは,その日その日の出来事を書くことだろう.はっきり見極めるために日記をつけること.たとえ何でもないようでも,微妙なニュアンスや小さな事実を落とさないこと,とりわけそれを分類すること.このテーブル,通り,人びと,刻みタバコ入れが,どんなふうに見えるのかを言わなければならない.なぜなら変化したのはそれだからだ.この変化の範囲と性質を,正確に決定する必要がある.

 

さて,どこかを引いて終えたいが,なかなかひとつに決めがたく,ページを繰っていると目移りしてしまう.まえのほうから,長くとることにしよう.

 しかし選ばなければならない.生きるか,物語るかだ.たとえば私がハンブルクで,あのエルナという信用のならない女,向こうも私のことを怖がっていた女と同棲していたとき,私は実に奇妙な生活をしていた.しかし私はその内部にいたのであって,それを考えていたわけではない.そうしたある晩,ザンクト・パウリの小さなカフェで,彼女が手洗いに行くために私のそばを離れたことがある.私は独りきりで席にいたが,そのカフェには蓄音器があって,「青空」がかかっていた.そのとき私は,下船してから起こったことを自分に物語り始めた.私はこう自分につぶやいた,「三日目の晩,《青い洞窟》と呼ばれるダンス・ホールに入って行ったときに,私は半ば酔っぱらった大柄な女に目をとめた.それこそ,いま私が『青空』を聴きながら待っている女であり,間もなく戻って来て私の右側に座り,私の首に両腕をまきつける女である」と.そのとき私は,自分が冒険を体験していることを激しく感じた.けれどもエルナが戻って来て私の横に座り,私の首に両腕をまきつけると,私はなぜかよく分からないが彼女が厭わしくなった.いまはその理由が理解できる.それはふたたび生きることを再開しなければならず,冒険の印象が消えてしまったからなのだ. 

 人が生きているときには,何も起こらない.舞台装置が変わり,人びとが出たり入ったりする.それだけだ.絶対に発端のあった試しはない.日々は何の理由もなく日々につけ加えられる.これは終わることのない単調な足し算だ.ときどき,部分的な合計をして,こうつぶやく,旅を始めてから三年になる,ブーヴィルに来て三年だ,と.結末というものもない.一人の女,一人の友人,一つの町との訣別が,たった一度ですむことは絶対にない.それに,すべてが互いに似ているのだ.上海,モスクワ,アルジェは,二週間もいるとどれもこれも同じになる.ときおり――それもごく稀にだが――現在の位置を確認して,自分は一人の女と同棲しているとか,厄介な話に巻きこまれた,などと気づくことがある.それもほんの一瞬のことだ.そのあとには行列が再開し,何時間,何日という足し算を人はふたたびやり始める.月曜,火曜,水曜.四月,五月,六月.一九二四年,一九二五年,一九二六年.

 

『未来のミライ』と,樹木のこと(と,シフォンケーキ)

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先日,たしかそのまえの晩にしたたか屋根を打つ夕立の音を体を横たえてうつらうつらしながら聞いた日,友人と連れ立って細田守の新作『未来のミライ』を観に行った.曇り気味で日差しは弱く,急に涼しくなったように感じられ(もう秋か!),出歩くこともさほど苦にならなかった.

 

わたしはヒネているので,いそいそと新作を目当てに映画館へ足を運ぶといってもさして本編に多大な期待を寄せているわけではなく,昔から好きな山下達郎の手がけたテーマ曲を聴きたかったのである.名作『サマーウォーズ』以来のタッグということだ.とはいえ,なにごとにつけニュートラルかそれよりちょっと下くらいの気持ちで出かけていくことによって,イベントをそこそこに楽しむ術を身につけているわたしにとっては,十分におもしろかった.たぶん,映画としてそんなに出来がよいわけではないし,ひとに薦めたりするようなものではないのだけれど,作画や演出の妙はたしかなものがあったし,そしてなによりわたしは,時間を重層的にみせることで豊かに展開する「血」の話が好きなのだろうと思う.また,それを象徴する「木」のモチーフについて,すとんと納得するようなところがあった.そういうすこし抽象度を高めた次元で,個人的には収穫があったといえる(ので,十分なのである).

 

いったん措いて,ぜんぜん関係のない話.劇場を出たあと,近くの行きなれたカフェでしばらく話をしながらのんびりと夕方を過ごしたのだが,本日のケーキがシナモンのシフォンケーキということで,目がないわたしは迷わずコーヒーとともに注文した.スポンジがふわふわとしていて,生クリームもしつこくなく,とてもおいしかった.ところでシフォンケーキというと,思い出される作品がふたつあり,わたしがシフォンケーキを好むことの一端を担っていると思われるものなので,紹介しておく.

 

ひとつはおそらく多くのかたが知っておられるであろう,『千と千尋の神隠し』の,終盤のワンシーンである.ゼニーバの家へやって来た一行にお菓子がふるまわれるが,テーブルについたカオナシは,まず紅茶を(胴の)口へ流し込むとケーキ(わたしはかってにシフォンケーキだと思っている)のお皿を手にとり,フォークで丁寧に半分に切ってから口へ運び,ゆっくりと咀嚼する.フォークが入るときのスポンジの弾力感の表現がとてもいい.画が全体的に丸っこいから,動きがとてもかわいらしく感じられる(紅茶を飲んだあとに口がすぼまるあたりも好きだ).いわゆる「ジブリ飯」のひとつであろう.

 

もうひとつは,2007年発売のニンテンドーDSのソフト『ウィッシュルーム 天使の記憶』である.地味な謎解きゲーなのだが,雰囲気がとてもよく,各登場人物の物語がおもしろくて,音楽も心地よい.一部で隠れた名作といわれていたりする.舞台は1979年のロサンゼルス,主人公は元刑事で今はしがないセールスマン,カイル・ハイド.三年前,警察を裏切った同僚のブラッドリーを銃で撃って以来,行方のわからない彼の消息を追い続けている.年の瀬のある日,カイルが仕事の依頼で訪れたのは荒野に一軒ぽつりと立つ寂れたホテル・ダスク.その215号室には,泊まる客の願いが叶うという噂があった…….というのがだいたいのあらすじ.夕食のシーンがあるのだが,カイルはリブロースステーキをきれいに平らげて満面の笑みを浮かべた(33歳である)あと,マスターからのサービスということで供された紅茶のシフォンケーキを,これまたおいしそうに食べる.皿を下げに来たローザにデザートの感想を尋ねられると,満足げな表情で「最高だ」と答えるのである.

 

閑話休題.映画のことだった.ネタバレを気にするかたはご注意ください.

未来のミライ - ネタバレ・内容・結末 | Filmarks よりあらすじを引いておく.

とある都会の片隅の、小さな庭に小さな木の生えた小さな家。ある日、甘えん坊のくんちゃんに、生まれたばかりの妹がやってきます。両親の愛情を奪われ、初めての経験の連続に戸惑うくんちゃん。そんな時、くんちゃんはその庭で自分のことを“お兄ちゃん”と呼ぶ、未来からやってきた妹・ミライちゃんと出会います。ミライちゃんに導かれ、時をこえた家族の物語へと旅立つくんちゃん。それは、小さなお兄ちゃんの大きな冒険の始まりでした。 待ち受ける見たこともない世界。むかし王子だったと名乗る謎の男や幼い頃の母、そして青年時代の曾祖父との不思議な出会い。そこで初めて知る様々な「家族の愛」の形。果たして、くんちゃんが最後にたどり着いた場所とは?ミライちゃんがやってきた本当の理由とは――

 

家族のアルバムをめくってみせるシーンがあるが,わたしのような,いまここだけを生きるのが得意でない人間にとって,昔からの写真が詰まったアルバムというのは魅力的な小道具に映る.それは一種の「生きてきた」ということの,手にとって見ることのできる証左であろう.もっともわたし自身は写真を撮られるのがきらいなので(魂が抜かれるから),文字に残すほうが性に合っているのだけれど.そして,くんちゃんにとってよりファンタジックな形で機能する「アルバム」があり,それが中庭に植わっている樫の木なのである.

 

彼には現実において数々のうまくいかないことが起こるが,そんなときに中庭へ出てくると,突如として家族がかつて生きていた過去へと時をこえる体験をする(未来のミライちゃんは正直さほど重要でないように思われる……).例えば,そうとうにしたたかで腕白な幼少の母とともに遊び,そののちに彼女が祖母にひどく叱られるのを聞く,そのことに関する共感と共苦.脚を負傷しながらも戦争を生き抜き,馬やバイクを乗りこなす曾祖父にたいする尊敬や憧憬の念.自らに近しいひとたちについて,こうした基本的な感情を抱くことにより,彼は現実の生活においてすこしずつ成長していく(ところで,共感という感情の構造には大いに興味がある.わたし自身が日常を生きることが,共感によって支えられる部分はかなり多いのではないか).

 

終盤,彼は「好きくな」かったミライちゃんの兄として生きること,すなわち家族の共同体に一員として参画することを決意する.樫の木のイメージを媒体として,綿々と紡がれてきた家族の歴史のページが次々に繰られていくが,このあたりの演出はすばらしいと思う(ただ,ミライちゃんの説明口調はいただけなかった).彼は,その無数の葉の一枚であることを自覚し,肯定的にとらえるのである.

 

樹木というものにはひとを惹きつける力がある.それは人間よりはるかに長い寿命をもち,またひとつところに根をおろして動くことがない.ということは,ある土地に居を構え,産まれては生き,死ぬことをくり返す血縁で結ばれた共同体と想像的に重ね合わせやすい.また,その相貌も特徴的であり,土地を貫流する血をしっかりとした幹が,積み重なる個々のエピソードを繁る枝葉が,それぞれ象徴するというような見方ができよう.伝統ある大樹ほど,それを見上げる者に,気の遠くなるほど永い時間の堆積を,一望のもとに把握させるような気持ちにさせる.それが樹木のもつ力ではないかと思う(こうして書いてみると当たり前のことだなあ).

 

最後に,大江健三郎の「雨の木」シリーズの最初の一篇『頭のいい「雨の木」』から長めの引用をとって終わる.

――「雨の木」というのは,夜なかに驟雨があると,翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて,雨を降らせるようだから.他の木はすぐ乾いてしまうのに,指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので,その葉に水滴をためこんでいられるのよ.頭がいい木でしょう.

 嵐模様のこの日の夕暮にも,驟雨がすぎた.したがっていま暗闇から匂ってくる水の匂いは,その雨滴を,びっしりついた指の腹ほどの葉が,あらためて地上に雨と降らせているものなのだ.パーティがおこなわれている斜め背後の部屋の喧噪にもかかわらず,前方に意識を集中すると,確かにその樹木が降らせている,かなり広い規模の細雨の音が聞こえてくるようなのでもあった.そのうち眼の前の闇の壁に,暗黒の二種の色とでもいうものがあるようにも,僕は感じた.

 そのように感じはじめてみると,ひとつの暗黒は巨大な徳利型のバオバブの樹のようであり,その暗黒のへりに底なしの奥へ落ちこんでゆくような,吸引力のある暗黒があって,そこにはたとえ遅い月の光があらわれても,山襞や海をふくめ,いかなる人間世界の事物も見出されぬだろうと信じられる,そのような暗黒.これは百年あるいは百五十年前,アメリカ大陸からここに移住してこの建物を作った者らが見た,その最初の夜の暗黒とおなじものだろう……,(略)

 

ゼーバルト『鄙の宿』(と,『土星の環』)

 

鄙の宿 (ゼーバルト・コレクション)

鄙の宿 (ゼーバルト・コレクション)

 

 内容紹介:

ジャン=ジャック・ルソー、ローベルト・ヴァルザーなど、ゼーバルトが偏愛した作家・作品と人生を振り返る。彼らは時代の波に乗らなかった「脇役」であった。そして、「幸福」とは言えなかった人生を送り、書くことを止められなかった作家たちであった。
19世紀から20世紀にかけて、急速に変貌を遂げていく近代社会、資本主義、そしてナショナリズムへの傾斜を背景にしながら、そうした趨勢と思潮に背を向け、逃避し、孤独で病的な作家たちの生涯が、ゼーバルトならではの独自な視点から取りあげられた逸話を交え、いつものように印象深い図版を豊富に織り交ぜながら綴られる。彼らが一見小さな領域に引きこもっているかに見えて、むしろ誰よりも「時代の災厄」を感知し、それぞれが言葉で相対していたことが、ゼーバルト流の息の長い密度の濃い文体で明かされる。時空を越えた連想や脱線から時代が捉えられ、歴史を越えて、生きる苦悩のごとき普遍的な生々しさが浮かび上がり、心を強く打つ。
ゼーバルトの歴史へのまなざし、近代に対する鋭い批評性を改めて認識させられる傑作であり、「コレクション」の完結となる。カラー口絵6点収録。

 

わたしがゼーバルトを知ったきっかけはなにであったか,定かには思い出すことができない.たしか数年前のこと,誰かが Twitter で『アウステルリッツ』に言及しているのをたまたま見かけたことだったような気がする.いずれにせよ,決して日本において人口に膾炙した作家ではないと思われる.ところで,わたしは別のひとによってお膳立てがなされていないとめったに旅行などしないたちであるが,なかには寸暇を惜しんで,さして名を知られているわけでもない土地へ出かけていくのを好む御仁もいらっしゃることだろう.予定はあくまでざっくりとだけ組んでおいて,わざわざ寂れたところを選んでぶらぶらと歩き廻ったり,朽ち果てた建築を見つけて嬉しくなったり,ローカル線に乗って窓外をただ眺めてみたり,なんでもないようなものの写真を撮ってみたり,地元のかたとすこし話してみたり,地域の歴史が気になって資料館を訪ねてみたり,するのだ.一例ではあるが,きっと意外とたくさんいるであろうそういうひとびとに,ゼーバルトはもっと読まれてもよいのではないかと思う.

 

いまやすっかりこの作家の虜になってしまった.白水社ゼーバルト・コレクションは,法外なプレミア価格がついてしまっている『土星の環』を除いて揃えた.傑作『アウステルリッツ』が絶版になってしまっているのは実に惜しいし,大好きな『土星の環』もやはり手元に置きたい作品であるから,復刊を望んでやまないところだ.内容は言うに及ばず,このシリーズは(原文のことはわからないが)訳文の日本語も流麗で美しい.このまえ『鄙の宿』にすこし触れたので,読み返してみて,せっかくだからなにか関連するようなしないようなことを書いておこうと思い立った.

 

この本に紹介されている作家たちの気質は,まえがきに目を通すとおおよそ窺い知ることができるだろう.「あの奇矯な,感情の逐一を文字に変換させずにはおかず,驚くべき精妙さをもって人生を回避する行動障害の消息」などという(個人的にやたら気に入ってしまった)フレーズが飛び出してくる.それから,ヴァルザーのエピソードを引いてみたい.

ヨーゼフ・ヴェールレという,スイスのヘリザウの精神病院でヴァルザーの看護人をしていた人の話だった.ヴァルザーは,当時文学には完全に背を向けていたものの,いつもチョッキのポケットにちびた鉛筆と手製の紙片をしのばせていて,ちょくちょくなにかメモをしていた,というのである.ところが,とヨーゼフ・ヴェールレは続けていた,人に見られていると思うや,ヴァルザーはまるで悪いことか恥ずかしいことでも露見したかのように,そそくさと紙片をポケットに押し込んでしまった,と.嫌気がさそうが出来なくなろうが,物を書くこととは,あっさりと解放されるいとなみではないのに違いない.文筆を擁護する言は,書く側の立場からはほとんど出て来まい.報いられることはあまりに少ないのだ.

 

なかでももっとも有名なのはジャン=ジャック・ルソーであろう.ここではルソーについてのエッセイにだけ触れる.最晩年に著された『孤独な散歩者の夢想』にはわたしも感銘を受けた.フランス語の散文の歴史において屈指の美文と讃えられているらしい「第五の散歩」は,『エミール』および『社会契約論』が危険思想とみなされパリを追われたルソーが,迫害を逃れつつ二ヶ月のあいだ逗留したスイス・ベルンはビール湖に浮かぶサン・ピエール島での安閑とした日々を綴ったものである.ゼーバルトは初めてビール湖を眺め下ろした学生のときから実に三十一年後にして,ようやくこの島へ足を踏みいれる.

 私はと言えば,ルソーの部屋にいて,過ぎ去った時代へと連れ戻されたかのような心地であった.それは幻想ではあったが,遠いエンジンの音ひとつしない百年か二百年前に世界中をひたしていたのと変わらぬ静けさが島をひたしていただけにその幻想には容易に入り込めた.なかんずく日帰りの行楽客が帰ってしまう夕暮れには,島は文明社会にはもはやほぼ皆無となった静寂のなかに沈んで,ときおり湖面をわたる微風にポプラの巨樹の葉かなにかが揺れるほかは,動くものひとつなかった.

 

自分がいくらいやだと言っても頭の歯車が勝手に思考を始めること,そうして湧きだす想念を強迫的に書きつけねばいられないこと,そうしたことにほとほと疲れ果てたルソーは,書物を紐解くこともペンを手に持つこともやめて,島の植物採集にかまけるようになる. 「第五の散歩」が引かれている.

「私は『サン・ピエール島植物誌』を作る計画をたて,島のあらゆる植物を一本残らず記述することにした.記述はじゅうぶん詳細にして,死ぬまで暇つぶしにこと欠かないようにするつもりだった.なんでも,レモンの皮について本を一冊書いたドイツ人がいるという話だが,私とて牧場の芝草の一本一本,岩をおおう地衣の一枚一枚について,一冊ずつ本を著していたかもしれない.要するに私は,草の毛一本,植物の微細な部分ひとつなおざりにすることなく,しっかり記述しないではおかない気持ちだった.(略)」

ここには,仕事をやめて純粋に愉しみのための趣味に走ろうとするものの,生来の完璧主義的な性向がまたしてもそれを(しかも到底仕上がりそうにない)仕事めかしてしまう ,というルソーのどこかおかしみを含んだもの哀しさがみてとれるだろう.

 

わたしのとある友人は,視界のすべてがのっぺりした画面で尽くされることに冷や汗をかくほどの恐怖を覚えると語っていた.例えば,広い建物のまっ白な天井や,澄み切った青空といったもの.自分がそちらへ吸い込まれて消えてしまうような感覚に襲われるのだという.しかし,もしかすると,ルソーが真に望んでいたこととは,まさにこうした忘我の体験であったのかもしれない.彼はよく晴れた日に,凪いだ湖面へボートを漕ぎ出すことを好んだ.

低地の厚い空気の帳から解き放たれた,どこか超自然的な印象の風景,一切を忘れ,自分すら忘れ,やがてどこにいるのかも判然としなくなるような風景.「風景のこのうえなく清澄な一瞬は」とルソーにおける透明性をテーマに研究しているスタロバンスキーが書いている,「個人の存在がその端から溶けていって,夢想のうちに薄い大気へと変容していく瞬間でもある」.すっかり自分を透明にしてしまうこと,スタロバンスキーによれば,それが近代的自伝の発明者ルソーの究極の野心だった.

 

最後に,『土星の環』についてすこしだけ.この旅行記とも歴史ものともエッセイとも小説ともとれる不思議な魅力にあふれる作品であるが,やはりゼーバルトがそうとう思い入れているのであろう,その人生の襞に複雑な陰翳の刻まれた文人に関する記述がところどころに挿入される.わたしがかろうじてその手になるものを読んでいたのはジョゼフ・コンラッドくらいであったような憶えがある.さて,そのなかに,エドワード・フィッツジェラルドという名前がある.

フィッツジェラルドが生前自分で完成させ出版した唯一の仕事は,ペルシア詩人オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の珠玉の翻訳である.フィッツジェラルドは,八百年の時を超えて,ハイヤームにもっとも自分に親和しい者を見いだしたのだった.二百二十四行に及ぶ詩の翻訳に費やしたはてしのない時間を,フィッツジェラルドは死者との対話と名づけ,自分は死者からの知らせを伝えようとこころみているのだと述べている.

 

これに関連して,さいきん投稿されたある動画を紹介したい.

まったく異なる媒体から情報を得ていて,ときにそれらが一瞬の交錯をみせることがあるが,これはつねに愉快な体験であろう.この動画シリーズはとても作りが丁寧であり,投稿者の書物に対する偏愛のごときものが感じられてたのしい(それになんというか,動画の特質上,決めどころで気障な言葉遣いを用いたりしているが,それを人目に晒すことの羞恥について,共感できるような気がする).わたしはどうしてもこの宣伝がしたかったのだ,満足.暇なときにでも,ぼーっと眺めてみていただきたい.

 

また,印象的だった箇所を引いてみよう.本作には,イギリス貴族階級の斜陽に思いを馳せる場面がいくつかあるが,そのひとつ.英語のルビがふってある文は,英語のほうを用いることにする(ちなみに,すこし英語がおかしい気がしたので英訳版を参照したところ,たぶんそちらのほうが正しいので,それに準じている).

荒れる一方の屋敷そのものは,もちろん買い手がつきません.それでわたしたちは呪われた魂みたく,ひとつところにずっと縛られて今日まできたのです.娘たちのえんえんとした縫い物,エドマンドがある日はじめた菜園,泊まり客をとる計画,みんな失敗に終わりました.十年ほど前にクララヒルの雑貨屋の窓にチラシを貼ってからというもの,あなたは,とアシュベリー夫人は言った,うちにいらしたはじめてのお客さまなのですよ.情けないがわたしはとことん実務にむかない人間,じくじくと物思いにふける性分です.家じゅうそろって甲斐性のない夢想家なのですわ,わたしに劣らず,子どもたちも.'It seems to me sometimes that we never got used to being on this earth and life is just one great, ongoing, incomprehensible blunder.' アシュベリー夫人が話を終え,そうしてみると私にはその話の意味が,ここに残って,日々邪気のなくなっていく彼らの人生をいっしょに分かってほしい,と無言のうちに頼まれていることであるかのような気になってくるのだった.

 'I have come to say goodbye,' と私は言って,枝葉の繁ってできた緑の四阿に足を踏みいれた.キャサリンは巡礼の帽子のような,ドレスとおなじく赤い鍔広の帽子を両手で下げていたが,すぐそばにたたずんでいるのに,はてしなく遠いところにいるようだった.眼はうつろで,視線は私を素通りしていた.'I have left my address and telephone number, so that if you ever want...' 私は言いさして,それ以上のことばをのみ込んだ.なんと続ければよいのかもわからなかった.キャサリンはいずれにせよ上の空だった,とそのとき気づいた.'At one point,' とかなりたってから彼女が言った,'at one point we thought we might raise silkworms in one of the empty rooms. But then we never did. Oh, for the countless things one fails to do!'

 

わたしは自分の実人生(公私にわたる広義の人間関係くらいの意味だが)に文字通りなにも期待することがない.より正確にいうと,なにに対しても過大な期待をしては裏切られる性分なので,もうそういうことはやめて,さして恃むところもない自己だけに責任を押しつけるほうを選んだ,ということになるだろうか.なにか人間と関わることを試してみようと外界へくり出していった時期もあったが,結局はわりに合うものでないと感じて切り捨ててきた(あれも「はしか」のようなものだったような気がする,人間はただそのつどの「はしか」にかかり続けて死んでいくのかもしれない).もちろん,そうした営為は,ある種のっぴきならない状況へ自分を追い込むことで初めて見えてくる景色がある,というような性質を帯びていることは承知しているつもりでいる.けれども今のところ,他人にまとまった時間を割いてしまっていいのか,という疑念がどうしてもつきまとう(ときどきここにも書いているが,もちろん,よい出会いも多々あります,念のため.やはり根本のところで人間が好きなのだと思う).

 

堂々巡りのすえにわたしが舞い戻ってくる地点はたいていいつも同じであって,それは,そのときのわたしにとって「ぴったりした」言葉,現状を描きとり把握させてくれるようなそれ,である.さりげない日常の一コマの,精緻な描写,分析.それを読む愉悦さえ与えられるならほかにはなにもいらないと感じられる.こういう見つかるか見つからないかまったくわからないようなものに,生活のほとんどすべてを支配されているのだと考えると,空恐ろしくなる.言葉は究極的に空虚な,周縁的な性格のものであろう,わたしは空虚だけを欲して,そのなかでのみ生きようとしている.なかば強迫的に,読むことと書くことだけに価値をおいてしまっている.どうやらこれは,あまりかかずらうべきでないたぐいの代物であったように思われてならない.ずっと周縁部に居続けるということ,すなわち参画を拒むということだ.

 

この記事がこういう色調をしているのは,思考が完全に自死に支配されているのをどうにか書くほうに振り向けて綴っているからだろうと思う.死ぬとどうやら意識がなくなるらしい,それはとてもよいことだ.まあ,わたしも元気なときはそれなりにちゃんと元気だし,適当でいい加減なはずだ,たぶん.元気でいるなんていうのもひたすらに馬鹿らしくてくだらなくて厭になるけれど,なぜならそういうポジティヴな状態はしょせんまがい物であるという認識から抜け出せないので.自分の気分が移ろうことはほとんど耐えがたい.十分に睡眠をとったり,ゆっくりとお湯に浸かったり,おいしいものを食べたりすれば気分も好転すると言われるし,たいていその通りなのだけど,そんなことをくり返して生きていくその総体がとかく受け容れがたい.三角関数を均してはただのゼロにし続けているような感じがする.そういうわけで,わたしは浮世の得体の知れなさに対する涙ぐましい抵抗として,どんなにしようのないことでも書いておくことにしている.書き出すまではほんとうに億劫だし無価値だと感じているが,少しずつ筆を進めるうちにぽんぽんと想念が浮かんだりして,最終的に存外よく書けたと思うものである.「よく」というのは,全体としてうまい「かたち」を与えることができた,というくらいの意味であろうか.自分の綴った文章というのは,いかに駄文であってもそれなりに愛おしい.

 

あっちへこっちへといろいろ書き散らしているが,やはりこうして吐き出しているとずいぶん気が軽くなる.ようはデトックスというやつだろうか.画面から目を離して現実へ立ち返ると,すぐさまじっとりした暑さが意識に上る.買い物へ出かけようにも,日の暮れかかるころでないと身体が参ってしまう.ドアを開くと外気はほのかに暖色を帯びている感じがして,夕食の支度をするくらいの時刻であるからか,どこからともなく湿った風にのって,日本的な「さしすせそ」の,煮炊きの匂いがただよってくる.なんだか急に昔日へと引き戻されるような思いがする.わたしの幼少の記憶は,ばらの香りによって喚起されるのではない,匂いそのもののなかに,わたしは思い出を嗅ぐのだ,とはベルクソンだったか.階段を降りると,しばらく水を吸っていないらしい鉢植えの葉が,先端をくたりと地面へ丸めて佇むのが見え,横から差し込む西日が路面に落とす長い影は,わずかにふらふらと揺れている.わたしはそんなに夏がきらいでもないのかもしれないと,そんなことを思う(でもやっぱり暑いものは暑い!).

話し言葉と書き言葉

わたしはどうにも会話をするのが不得手であると自分で思っているのだが,これはそもそも話し言葉の特質のようなものによっているのではないかと,なんとなく思ったので書き留めておく.

 

大学の友人たちとはどうせ無茶苦茶な言葉の応酬しかしないので,そういうのはとりあえず棚に上げるとして,一般的に会話の場面では,そこを支配する空気を白けさせたり緊張させたりするようなコード外の言葉の使用は基本的に禁じられている.そしてたいていの場合,わたしはまさにその抑圧されがちな言葉で語られる内容にしか興味がないのだ.だから日常会話,話すために話しているような話にはついつい上の空になってしまったりする(ただし,その内容にまじめに参画せずとも外側から笑いをとれるゆえに許される形式というのが存在し,それを皮肉とか諧謔とかと呼ぶ).

 

このコードによる制約は,もちろん多人数であるほど強く,一対一のときにはある程度まで緩和されるだろう.さらに,小説など読んでいると,ひと昔前までは手紙のやりとりというコミュニケーションが頻繁にあったらしいということがわかる.これはもちろん書き言葉の形式であって,ひとりでゆっくりと考えて文章を練ることになるが,そうしていると,その内容がしだいに広がりをもち,豊かになっていくということは,じっさいに書かれているかたならよくご存じのことと思う.こうした方法では,(ものぐさでなく筆まめでなければならないが)会話の場面でとりこぼしがちな大切なことが伝達されうるのではないか,という気がする.手紙をしたためることと,SNS 上のメッセージのやりとりとでは,同じ書き言葉でもずいぶん性格が異なるのではないか,というのはさすがにわたしの懐古趣味か.

 

さて,こうした理由のゆえにわたしは社交の場が苦手なのだと思うのだが,それでもじっさいに出かけていくと,顔を合わせるひとたちとなるべく理解し合いたいと感じる.しかしなんといおうか,わたしのほんとうに話したいことは,会話においていつもまとまった言葉の連なりを成してくれない.それが場のコードをくぐり抜けるかどうか,どうしても不安につきまとわれる.それでもなんとかしてたどたどしく話すうちに,どこか細かな誤解を積み重ねているのではないか,という感覚はぬぐいがたくある.このあたりがもどかしく,結果として帰り路では重箱の隅をつつくような,しようのない反省をくり返すことになる.

 

その点,共通した本の話ができると,これは実に喜ばしいことである.たぶん,口語から漏れ出たあらゆることがらが本に書かれているのではないかと思う(だからもしわたしが話したいことを話すときは,書き言葉を使って長く話すことになるような気がする).お互いにある一冊の本を読み通した,というのを知ることは,世間の言葉づかいを離れて,ひとつの筋を通して考えられたことがらが長々とつづられている,それを一応は共有しているということであろう.あまり大っぴらには口にしづらい世界のとらえ方のひとつを誰かと分かち合っているということ,それはやはり嬉しいことである.

 

書いていてわたしは救いようもなくめんどうな人間だと思った.ほんとうはこんなことなどいっさい書きたくはないような気がしている.話すということは(ふつうは)さして労力を使わないけれど,書くことには(それを公表することも含めて)つねに一定の負荷がかかる.だからこそ書かれた言葉にはある種の価値があるのだと思うし,わたしはみなさんが筆を執って,すこしく内面に言及した文章を読みたいとつねづね願っている.終わり.

 

追記.あけすけな例を思いついたので.ちょっとでも小説を読むなり映画を観るなりするひとなら,そのなかでひとが自殺するなり殺人を犯すなりすることは誰でも知っている.(世人のすきな)村上春樹が描く人物なんてめちゃくちゃあっさり首を吊るではないか.これをもうすこしだけでも現実の人間のほうへ引き寄せて,自死を口の端へ上らせつつ,明るくへらへらと生きていってもよさそうなものだ.どうしてそんなにまじめなふりを装わねばならないのか.わたしはなべてまじめな話が苦手だ.世間的には話し言葉(現実)と書き言葉(虚構)とは互いに交じり合わないようなので,わたしはここで至極まっとうなことしか書いていないつもりでいるのだが,やはり異常の烙印を押されて迫害されるのであろうか.どなたかジャッジをお願いいたします.

酒やめむそれはともあれ永き日のゆふぐれごろにならば何とせむ

本来ならば,終日一歩も外に出ずただ頭のなかだけで考えたことを書きつけたいのだが,これがうまくまとまらない(寝かせるうちにこちらの気分がころころ変わるので,書き足すと内容の統一感が失われたりする)ので,またまた遊興日記のごときものである.友人が書いてもいいと言っていたので,立ち入ったことを書くかもしれないが,差し障りのあるようだったら連絡してほしい.

 

不思議な夢を見た朝であった.たしか小学校の幼馴染だったと思うが,彼女がわたしにクイズを出すのだ.一点の絵画があって,そのどこか一部の上に薄めの木片を貼り,そのあとに全体をペンキかなにかで平らに塗り込めるから,見て正しい絵の向きを答えろ,というようなものであった.だいいち,その絵は立派な額縁に収まっていたのだし,立てるための台すらついていたのだから,画面をどんなに腐心して一様に均そうとも,答えは外しようのないものに思われた.それなのに,相手がずいぶんと得意げな顔をしているものだから,わたしは額の装飾の細部やキャンバスの裏などを細心に点検して,記憶に留めようとした.そしてなんとも残念なことに,そのあたりで目が覚めてしまったのである.果たして,あの問答の顛末はいったいどのようなものだったのだろうか,気がかりである.

 

やたらと早い梅雨明けの宣言が出された.日中の気温は連日三十度を超え,白いものに反射する陽射しは,あとに若干の残像を引くほどに眼を灼く.いよいよ夏も本番といった趣がある.風が強いのはありがたいことかもしれないが,通り抜けていく空気の生ぬるさはあまり爽快とはいえない.一日だから,お昼は久しぶりに丸亀製麺で釜揚げうどんを食べようと思って,事前に検索した上野中央通り店へ汗をかきかき歩いていったところ,開店は七月五日であった.落胆が大きかったが,こんなこともあるものである,もうすこしきちんと調べればよかったか.

 

昼下がり,友人と落ち合って,カンヌでパルムドールを獲ったと話題の『万引き家族』を観た.ファーストデイだからお得だ.是枝監督の作品を観たことはなかったのだが,とてもよかった.うまくいっているようで,ところどころに歪みの仄見えるこの「家族」はいったいなんなのか,その事情はある綻びをきっかけに明らかとなる.人間のありのままを放り出すように見せてくれていると思う.『海街diary』や『そして父になる』など,観てみたくなった.

 

アイスコーヒーを飲んで時間を調節し,根津まで歩いていく.不忍池のぐるりに咲く紫陽花は,その鮮やかな色が褪せつつあった.駅前でもうひとりと合流し,三人で予約しておいたお店へ.やたらいろいろなお肉を食べて,ワインをたくさん飲んだ.ワインもずいぶんとご無沙汰であったような気がして,おいしかった.さいきんは一時期ほどアルコールを飲んでいない.酩酊したいとはつねづね思っているのだが,あとの苦労がつい頭に浮かんでしまい,量を抑えてしまう.それでもけっこう満足がいくので,いいかなという感じだが,歳であろうか.

 

さて,そもそもこの会の開催は,(初めの)友人が永らく付き合っていた恋人に振られてしまったことに因っている.四年も一緒にいても突然そういうことが起こりうるらしい.わたしも似たようなものだが,精神的に不安定なところのある人間は,あるとき思いつめてゆくりなしに人間関係をすっぱり切り捨てようとすることがあるから,うまくやればよりを戻せるのではないか,というような話もしたが,まあ,部外者には推し量りえない微妙な力学があるのであろう,人間と人間のことだし.他人にすぐ考えつくような策は片端から試したあとのことなのかもしれない.

 

それにしても,彼の落ちこみようはひどかった.もちろん,まじめくさって慰めるような心優しいひとはここにはいないので,酒の肴にしてさんざん笑っていたのであるが,わたしはいつも誠実でまじめで心優しい(?)ので,ちゃんと考えつく限りのアドバイスをしたつもりである.どうか許していただきたい.彼はこの三人のなかではもっともまともな人間だとわたしはみなしていたが,気分が沈んでいると強迫的な症状が出たりするらしく,案外そうでもないことがわかってきた.ここのところ,顔を合わせる周りの人間が強迫気味だったり離人気味だったりで,相対的に自分がまともだということが判明しつつある.じっさい,わたしはかなりいい加減な人間だと思う.

 

 ひとりの人間に自らの生きがいのようなものを恃み,強く依存してしまうのはやはりリスクが大きいのではないか,というようなことが話題になった.当事者のほかのふたりが,他人を信用しないようにしている人間だからかもしれないが.できれば,自分ひとりでのめりこんで充足できそうななにかを見つけるのがよいだろう.わたしは,とりあえずは読むことと書くこととで当面のあいだは遊んでいられそうなので,その点では幸せだと思う.読むものはあるていど絞っていかなければならないと感じるけれど.

 

こういう趣向をしていると,いつでもひとり第三者でいようと考えるようになる.徒に気持ちをかき乱されたくないから,ふだんはひとと関わることはあまりしないが,この飲み会のように,ときたま娑婆で人間関係の話を仕入れては,わたしは冷笑し軽口を叩くであろう,視線にわずかの羨望と嫉妬を交えて.先のことはわからないから,知らないうちにいつの間にか渦中にいるということもあるかもしれないが,やはり外側にいることを傾向として好むだろう.自分のしたいことのためだけに時間を使い,穏やかで満ち足りた心持ちでいることをなによりの喜びとするだろう.自他の境界にしっかりした壁を築くこと,醒めた状態を保つことに心を砕くだろう.ひとに執着するようなことのないよう,瑕疵を見つけては厭うように努めるだろう.わたしはこうした努力をしていないと,ついつい過度にひとを期待するし信頼してしまう.寂しいような気もするが,バランスの調節だと考えるしかあるまい,自己防衛は大切だ.

 

お店を出たあと,大学でもうすこし飲んだ.夜が更けると,なるほど,夏の夜の空気とはたしかにこういう風であったと,腑に落ちるようなものがあった.終わり.タイトルは若山牧水

本の話をしたという話

ふだんレジ打ちの店員さんとしか言葉を交わさないわたしであるが,久しぶりに人間と会って,コーヒーを飲みながら(ほかのひとらは煙草も吸いながら)だらだらと書物やらなにやらについての四方山話をしたところ,(ちょろいので)精神が虚無から躁になってたいへん気分がいい.以前も同じような理由で記事を書いたが,今日もそうしようかと思う.たまにこういうイベントでもないと,ここに投稿するモチベーションがなかなか湧かないものである.

 

はて,梅雨の晴れ間であったか,それとも薄く曇っていたのだったか,少しまえの天気を思い出すのでさえおぼつかない.ともかくカフェで落ち合う旨をとり決めて,約束の時刻にやや遅れ気味であったから,後楽園駅の改札を出てすたすたと足早に歩いていると,しだいにじっとりと汗がにじんでくるくらいの気温であった.いちど方角を間違えて真逆の方向へ歩いたりしたあげくにお店へ足を踏み入れると,喫煙席に見分けやすい先客の姿があった.冷房が体表の熱を奪っていくが,身体の内側までが落ち着くにはある程度の時間を要し,テーブルについてからもしばらくは汗が引いていかない感覚がある.

 

とりあえず,適当に鞄に入れてきた本やお互いに知っている本について,「この一節がめちゃくちゃいい」とか「この表現がとにかくいい」とか「ここは声に出して読むと調子がいい」とか,そんなことを言い合っていたような気がする.言葉の細部にやたらとうるさい友人をもってわたしは幸せであると思う,あんまりそういうひとっていないので.それと,まえに話題に上っていたので,中公新書高橋睦郎百人一首』を持っていったが,これについても昔話を交えてずいぶんと盛り上がった.彼の話を聞いていると,わたしが中高生のときに受けた国語教育はだいぶつまらないものだったような気がしてくる(どちらにしても,たいして興味を抱かなかったかもしれないけれど).あと,『枯木灘』の紀州弁を読み上げてはやたらとテンションが上がっていた,たぶん流れている血が中上健次と似通っているのであろう.中村文則がおもしろいという話をされ,『遮光』を薦められたので,千円以内の本は実質タダだからなどどわけのわからないことを言って笑いながらその場でポチった.

 

さて,ここまででだいたい三時間ほど.上述の友人があまり気乗りのしないらしい飲み会へ後ろ髪を引かれるようにして出かけていき(案の定というか,のちほど泥酔していたようである,面子の厳しい酒席ではとにかくアルコールを入れて,意識を曖昧にさせるか気分を高揚させるかすることがほぼ唯一の勝ち筋であることは言うまでもない),もう一人の,今日で二回目にお会いするひとともう三時間くらい喋っていた,よく話が途切れもせず続いたものだ(いま思い返すと,そんなに長居していたとは思えないほど時間の経つのが速かった).

 

ローベルト・ヴァルザーの名前が出たことが驚きであった.わたしはゼーバルトの『鄙の宿』に収められたエッセイでヴァルザーのことを知り,近所のブックオフにたまたま並んでいたその作品集を買うか買うまいか逡巡しているうちに売れてしまったのであるが.わたしの方では断片的に知っているだけとはいえ,こんな話の通じるひともそうはいまい.貴重な会合である.

 

たしかこの話題は,病気を昂進させるような書を選んで読むべきか否か,みたいな文脈で持ち上がったのだと思う.ようは,(周囲の人間らの読書事情も踏まえつつ)三島とかを根を詰めて読むとちょっと危ないよね,というような話.たしかに『金閣寺』や『豊饒の海』はそういう雰囲気を漂わせている.個人的には,これらももちろん好きではあるが,『沈める滝』や『愛の渇き』,あるいは戯曲を推したいところだ(『宴のあと』を読んでいないので読みたい,百円で見つけられないと買わないので).しかしまあ,こういうのを楽しめるのも二十代のうちという気もするし,病気を極めるというのもひとつの手かもしれない.「突き抜けた根暗」というのもまれではあるが,存在しているものだ,少なくともわたしはひとり知っている.蛇足だが,わたしは短篇『海と夕焼』がとても好きである,共感してくれる方がいると嬉しい.

 

もう一方の極として,古井の名前が出た.ここのところ猫も杓子も古井由吉であるが,ご容赦願いたい.二十代の青年ではやく年をとりたいと考えているひとはあまりいないはずであり,わたしもその例に漏れないつもりでいるのだが,古井の文章というのは実に不思議なもので,老年に差しかかるあたりからの作品をつらつら読んでいると,こういう年の食い方は悪くないかもなあという気分にさせられるものがあるのだ.だいたいどの小説を選んでもそんなに印象は変わらず,べつだん何かが起こるわけでもない,毎日決まった時間にやれやれといった風で机に向かって筆を執る生活が描かれるのだが,退屈でありながら奇妙に静穏な心地よさがある.

 

そんなこんなで,さしあたり目の前にはいつでも日常生活がぶら下がっているわけだし,人間嫌いは明日からまたおとなしくひとりで淡々と机に向かいましょうというありきたりな結論をもって,解散と相成ったのだった.終わり.