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アンドレイ・タルコフスキー

紹介記事みたいなものを書いてみようと思った.それがどのようなもので,またどのような形であるにせよ,昔の作品を掘りおこして触れておくことにはなんらか意味があるだろう.さして自分の言葉を記すわけではないかもしれないが,まあ,わたしは引用がしたくて書いているようなものなので,よしということにする.

 

さて,またまた堀江敏幸から始まるのであるが,友人がくり返し読んでいると教えてくれた『河岸忘日抄』(タイトルがいい!)という小説をすこしずつ読み進めている.はたしてこれは小説なのか,ほとんどエッセイにもひとしいのではないか,というのは判断のしづらいところである.

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

 

 内容紹介:

ためらいつづけることの、何という贅沢──。ひとりの老人の世話で、異国のとある河岸に繋留された船に住むことになった「彼」は、古い家具とレコードが整然と並ぶリビングを珈琲の香りで満たしながら、本を読み、時折訪れる郵便配達夫と語らう。ゆるやかに流れる時間のなかで、日を忘れるために。動かぬ船内で言葉を紡ぎつつ、なおどこかへの移動を試みる傑作長編小説。

 

堀江も,ところどころに散りばめられた種々の引用が独特の魅力を放っている作家だと個人的には思っている.この本も例外ではない.はじめのほうから,話題のとっかかりとしたい箇所を引く.

 風にあらがいながら蝋燭に火を灯し,熱い鉱泉が薄く底を浸した空間を,ロシア生まれの詩人がそれを消さないよう幾度も往復するという映画の一場面を,彼は脈絡なく思い浮かべる.イタリアのおだやかな丘陵地帯にある聖堂で,心臓を病んだこの詩人はひとりの男と出会う.おのれのことばかり考えず,そして家族のことだけを考えず,もっと多くの人間を救おうとするべきだったと語るそのいくらか頭のおかしい男の言葉からなにかを得て,詩人は取り憑かれたように炎の受け渡しを試みるのだ.あと一歩で宗教的な祭儀に到達しそうなその行為と胸のうちにしまわれた故郷の村の光景がしだいに重複して,自身の記憶と過去の情景にばかり目をむけるあのノスタルジアという一種の弱さがこのうえない強さに転換されていくさまを,若い日の彼は,字幕のついた劇場で食い入るように見つめていたものだ.眠りに入るまぎわや目が醒める直前の白濁した意識のなかで,なぜかときおり,彼の脳裏にあの蝋燭が灯る.びちゃびちゃという水の音と詩人の吐く息だけが聞こえるあの場面に,いまあらたに打楽器の響きが加わり,さらに海の怪物の姿が寄り添う.Kは生き物というより,人間の弱さを弱さのまま強制終了させてしまう神の装置だったのではないか.そして,船の書棚に見出したその映画作家の,封印された時に関する考察の一章を,彼はゆっくりと読み進める.

 

「『ノスタルジア』において追求したかったのは,〈弱い〉人間という私のテーマだった.〈弱い〉人間とは,外見的な特徴からは戦うひとのように見えないけれども,思うに,この人生の勝利者なのである.すでにもうストーカーがある独白のなかで,唯一まちがいのない価値であり人生の希望だとして,弱さを擁護していた.私は実際的な方法で現実に適応しえない人々を,つねに愛してきた.私の映画にけっして英雄は登場してこなかったが,強い精神的な信念を抱き,他者にたいする責任をみずから負う人物たちはいた」(アンドレイ・タルコフスキー『封印された時間』,アンヌ・キチーロフ&シャルル・H・ドゥ・ブラント共訳,レトワール社/カイエ・ドュ・シネマ社,一九八九)

 

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ノスタルジア』のあの有名な,9分間にわたるラストのワンカットの描写である.ずいぶんまえに一度観たきりで,どんな作品だったか,ほとんど思い出せなかった.だいぶ眠かったけれど,それでもどのシーンも目に収めておきたいと思ったのを憶えている.それにやはり,最後のあたりは印象深かった.実はこの映画,家の近所のツタヤでは,在庫を検索すると店内にあることになっているのに,DVDが見あたらないのである.以前,店員さんにその旨を伝えて探してもらったが,けっきょく見つかることはなかった.じっさい,仮にどこか別のところに紛れこんだりすると,取り戻すのが困難であろうというのは予想できることではある.

 

そういうわけで,大学からの帰り道にある大きな店舗に立ち寄った.事前に確認しなかったのが悪いといわれればその通りなのだが,今度は貸出中となっていた.なんともやりきれない感じがする.代わりといってはなんだけれども,未見の『アンドレイ・ルブリョフ』を借りていくことにした.さて,わたしには3時間におよぶ映画をきちんと鑑賞する才覚のないらしいことは経験から知っている.しかし,このたびは集中して食い入るように最後まで観てしまったのだった.

 

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舞台は15世紀初頭のロシア,東方教会イコン画の巨匠アンドレイ・ルブリョフの遍歴を描く伝記映画である.クライマックスへと連なるエピソードを紹介したい.後半へ差しかかってしばらく経つころ,やや唐突に,なにやら鐘の建造が始められるらしいことがわかる.教会の巨大な鐘の鋳造は国の一大事業なのであろう,ものすごい数の人員と資材が投入される.指揮を執るのは少年と青年のあいだくらいにみえる,鋳物師の息子ボリースカ.彼は自分だけが父親の秘伝を受け継いだのだと言い張っていた.高慢で不遜,ときに非常な子どもらしさをあらわにする彼は,自らを邪険に扱うずっと年上の職人を相手に激情を隠さず渡り合い,必死の情熱を傾けてことにあたる.炉に火が入ると,上裸の男たちが水をかぶりつつ薪をくべ,後ろでは大がかりなふいごがばたばたと上下する.ボリースカの合図で,直視できないほどに白く輝く銅が,煙を上げながら四つの炉から型へと流れこむ.やがて崩された土の下から姿を現した鐘の威容に,彼は膝を折って寄り添い,大公の紋章に手を這わせる.鐘は引き上げられ,大勢のひとびとのまえで初めて鳴らされるときがくる.ボリースカはそわそわとして,すっかり落ち着きを失っている.なにせ失敗であったとわかれば文字通り首が飛ぶのである.鐘の舌が,きしみとともに動き始める.そして,一部の見物人の意地の悪いささやきあいと裏腹に,鐘は鳴る.はじめくぐもった頼りなげな音で,つづいて舌が大きく往復するごとに,次第にたしかな荘厳たる音をあとから重ね,あたかも自らの力を確認してまわりに誇るかのように,鳴るのである.式が終わったあと,地面に倒れこんで泣きじゃくるボリースカを,ルブリョフが抱き起こす.実のところ死んだ父親は息子に,秘伝などなにひとつ教えてはいなかったのだ.ルブリョフはふたたび,絵を描くことを決心する.

 

もうひとつ,タルコフスキーといえば,大江健三郎の連作『静かな生活』には「案内人(ストーカー)」という短篇が収められている.考えてみると,なるほど,両者のテーマにはなにほどか共通するものがあるようにも思われる.

静かな生活 (講談社文芸文庫)

静かな生活 (講談社文芸文庫)

 

内容紹介:

精神の危機を感じて外国滞在を決意した作家の父に、妻が同行する。残された3人の兄弟妹の日常。脳に障害を持った長男のイーヨーは“ある性的事件”に巻き込まれるが、女子大生の妹の機転でピンチを脱出、心の平穏が甦る。家族の絆とはなんだろうか――。〈妹〉の視点で綴られた「家としての日記」の顛末に、静謐なユーモアが漂う。大江文学の深い祈り。

 

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 「深夜テレヴィ映画から弟が録画してくれた,タルコフスキーの『ストーカー』を見た.」と書き出されるこの小品は,そのまま映画『ストーカー』の感想談義といった趣向になっている.複数の視点がそれぞれに織りなす考え方,感じ方の違いがおもしろい.(大江の描く人物は文章体でよどみなく長ながとしゃべるが,このあたりがハマるひとはハマると思う.わたしはとても好きである.)はじめにとった引用といくらか似通うような箇所を引いてみたい.

 案内人の奥さんは暗い情熱をひそめている美しい人で,発作を起したように床に倒れて苦しむ際も,静かに苦しんでいる姿体の全体が美しい.つい「成人向け映画」を連想してしまったのも,ハッとするほど官能的な美しさがあったからだと,オーちゃんなら分析するのじゃないだろうか? 実際,私は,自分がこんなに美しい躰になることはあるまいと,羨望より尊敬の心で思っていた.しかもその案内人の奥さんが,どうしても危険な「ゾーン」に客ともども出かけずにはいられない夫に絶望して,――結婚したのがまちがっていた,だから「呪われた子供」が生まれたという,その言葉に私は心を奪われてしまったのだった.

 なんとか無事に「ゾーン」から帰った,疲れきっている案内人も,客たちが「ゾーン」の中心の「部屋」で人間にあたえられるはずの魂の喜びを本当にはもとめていなかったとさとって絶望している.案内人は,「ゾーン」が堕落した人間を立ちなおらせると信じている,可哀想なほど真面目な人だから.その案内人をベッドに寝かせてやった後で,奥さんは突然私たちの方へまっすぐふりかえる.それからインタビューのカメラに答えるように,心のなかで思っていることを話し始める.劇映画の手法にこんなやり方がよくあるのかどうか知らないけれど――私の母方の祖父は映画監督だったし,伯父も現役の監督だけれど,私は弟同様映画をわずかしか見ていないから――,そのシーンは本当に好きだった.奥さんは,夫がノロマでみんなからバカにされていた青年であること,自分が結婚する際に母親から,案内人は呪われているから,変な子供しか生まれないはず,と反対されたことを思い出す.それでも自分がこの人と結婚したのは,ずっと単調な生活より,苦しいけれどたまには幸せもある生活の方がいいと,後からコジつけたのかも知れないけれど,ともかくそう思ったからだと話す.このところで私は,――いいえ,あなたは後からコジつけたのじゃなく,そのように始めから考えていられたのだし,その考え方は正しいと思う,と叫びたい気持ちだったのだ.

 

最後に,関係のあるような,でもたぶんない話.1931年に生まれ,97年に京都市龍安寺のアトリエで自裁した麻田浩という画家がいる.たとえば,新潮文庫の三島『鍵のかかる部屋』のカバーは麻田の仕事だ.わたしは以前,京都国立近代美術館を訪れたときに,麻田浩没後10年展の図録が半額で販売されているのをみて喜んで購入したのであった.タルコフスキーの神秘的で美しい画面を見ていると,いつもこの画家の描く廃墟の絵が脳裡に浮かんでくるような気がするのである.以上.

麻田 浩  静謐なる楽園の廃墟

麻田 浩 静謐なる楽園の廃墟