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『WXⅢ 機動警察パトレイバー』

 

WXIII 機動警察パトレイバー [Blu-ray]

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 ゆうきまさみによる原作コミック「廃棄物13号」をモチーフに、サスペンスタッチで展開されるシリーズ最大の異色作! 昭和75年の東京、続発する奇怪なレイバー連続殺人事件。事実解明に挑む城南署の刑事、秦と久住は捜査を進める中、事件の鍵を握るひとりの女性科学者に出会い巨大な陰謀の渦に巻き込まれていく…。総監督:高山文彦、脚本:とり・みきの新規スタッフが放つ新世紀の“パトレイバー”。

(公式サイトより)

映画についてなにか書いてみたいと思った.せっかくならば,あまり知名度が高くないであろう作品について,掘り起こして光を当てるほうがよかろう.というわけで,いつだったか忘れたがむかし観て以来いくども観直している,わたしのお気に入りのアニメ映画『WXⅢ 機動警察パトレイバー』についてその筋を追ってみたい.本作はパトレイバーの劇場版第三作にあたるが,おそらく前の二作品のほうがずっとよく知られているのではなかろうか.そちらの監督はあの押井守だし,Amazon のレビューをチェックしてみたってこの『WXⅢ』は明らかに日陰の存在である(Google の検索窓に「パトレイバー3」と打ち込むと,「つまらない」がサジェストされる).それも無理はない気がしていて,だいいちパトレイバーがほとんど出てこないのだ,せいぜいラストの大掛かりな作戦においてとってつけたように出動するくらいであり,完全に脇役となっている.そういうわけで,当時の熱心なレイバーファンにとってはしこりの残る作品であったのだろうが,裏を返せば,いま鑑賞するのになんら特別の予備知識も要らず,むしろ入っていきやすいのではないかと思う(わたしもパトレイバーにはまったく明るくない).そしてなにより,ストーリーはとてもよくできているのである(つまらなくなどない!).物語は基本的に,昔気質の中年の刑事である久住武史と,それよりは若いこれも刑事の秦真一郎とがその足でもって聞き込みをくり返すことで進んでいく.BGM は控えめで環境音が多く,なんとも静かで地味な印象を全体に添えている.とてもロボットものとはいえないだろう,むしろ刑事ものだ.

 

さて,以下で詳細な内容に入っていきたいのだが,当然ながらネタバレになってしまうので,ちょっとでも興味のあるかたはぜひ先に本編を観ていただきたい.トレーラーもけっこうネタバレ感が強かったので,あえてリンクを貼ることはしない.ひとつ余計なことをつけ加えておくと,たぶん煙草を嗜まれるかたは本作を気に入られるのではないかと思うのである(わたしは吸わないけれども).

 

冒頭,東京湾を航行する漁船が航空機の墜落を目撃する謎めいたシーンで映画は幕を開ける.続いて,曇り空のした草野球でピッチャーをしていた秦は,突然の呼び出しを食らう.現場に立ち合い,秦は久住に尋ねる.「遺体って,これだけですか?」「ああ」

雨の降りしきる駐車場で,秦は自分の車を出そうとすると,真っ赤な車のボンネットを開けて窮しているらしき女性の後ろ姿を見かけ,声をかける.暗い色調の画面に,その白皙と黄色いワンピースとが鮮烈に,一種異様に,映る.送り届ける車内で,髪を拭き終わったタオルを畳んだ彼女に,秦は話しかける.

「煙草,吸いたいんじゃないですか?車に乗ったとき,灰皿のほう見てたから.構いませんよ,どうぞ,吸ってください」

「身体に悪いのに,なかなかやめられなくて」

「ぼくも前は吸ってたから,わかります」

 大学へ着くと,彼女は大きなトランクを教室へと運んでいくのだった(いくつかの視点が順繰りに切り替わりつつ進行していくので,ここではこの女性に関するシーンをメインに据えることにしたい).

 

ここから刑事ふたりの聞き込み捜査が始まる.すでに4件の事件が起きていたが,今度は潜水艇がその調査中に破壊されたという報告が下る.担当者に聞いてみると,作業モニタには,魚のひれのようなものが写り込んでいた.秦は久住を助手席に乗せるが,煙草に火をつけようとする久住に,「この車は禁煙です」と言い放つ.しかしその後,久住は足元に落ちていた赤地に金の装飾入りのライターを見つけ,意地悪い口ぶりで「この車,禁煙じゃなかったのか?」イニシャルは M.S. となっていた.

 

大学で生物学の講義をする女性.通常の細胞とは異なり癌細胞にはテロメアを修復する機能があるため,分裂回数に限度がなく,永久に増殖することができる.

「この細胞も,小児性の癌で亡くなった患者の一部です.本人は死んでいるのに,その癌細胞はいまでも生きている.不思議な気がするわね」

ライターを返しに来た秦.「このためにわざわざ?」「まあ,それもあるんですけど……実はこれは口実でして」ここで初めて彼女の名前がわかる.「岬冴子です」

 

ふたりはデートに出かける.アントン・チェーホフ桜の園』を観に行くのである.いったいどちらのチョイスなのだろうか.ラネーフスカヤ夫人の真に迫る台詞が流れる.岬は俯き加減に,無表情なようで神妙に,聴き入っている.

どんな真実?あなたには真実や嘘のありかが見えていてわたしには見えない.あなたは大事な問題を片っ端から解決した気でいる.でもどうでしょう.それはあなたがまだ若くって苦しみ抜いたことがないからじゃなくって?わたしたちに比べれば,あなたはずっと勇敢で正直でまじめだけど,でもすこし寛大になってわたしを許してほしい.だって,わたしはここで生まれたんだし,父も母もお祖父さんもここで暮らしていて,わたしはこの家が大好きで,この桜の園のない生活なんか考えられないの.もしどうしても手放すというのなら,いっそこのわたしも一緒に売ってちょうだい.

 5年ぶりにパリから自分の土地に戻ってきた領主ラネーフスカヤだが,もはや一家は裕福ではないという現実を直視しない彼女は散財の悪癖をやめることができない.とうとう競売にかけられた桜の園の行く末が気にかかって仕方がない彼女に,醒めた大学生トロフィーモフは,領地はもう「昔の夢」なのだから,落ち着いて真実を見るようにと諭す.それにたいして彼女は上のように応じるのである.なお,原作ではこの後ろにはさらに,「坊やもここで,溺れ死んだんですものね」と続く(新潮文庫神西清訳より).

 

ナイトクラブのすぐそば,またも湾岸で殺人が起こる.そして近くの備蓄基地に異常が発生し,ライトがすべて落ちる.(運悪く)パトカーに乗っていた秦と久住は現場を見に行くことになる.「タクシーにしときゃよかった」「まあ,これも公務ですから」

ここで,久住がどこかその存在を感じていた,また秦は信じていなかった,「やつ」が姿を現す.アクションシーンであるが,安全なところにいる若い秦が,歳のいった,おまけに足の不自由な久住が必死に逃げるのをサポートするという展開になっている.こうしたシリアスな場面にあっても,コミカルに響く台詞があるのが好みである:

「久住さん,一番上の階に非常口があります!心臓が破れようが,とりあえずそこまで走ってください!」

「走ってやろうじゃねえかこのやろう!」

 

回収された怪物の肉片を分析してもらうため,東都研究所に赴く秦.ここで岬と出くわす.本職はこちらで,大学で講義しているのはアルバイトだと言う.彼女の机の上には,夫婦とその子どもの3人が写っている家族写真がある.娘の名前は一美(ヒトミ),夫は3年前に事故で亡くしたのだと語る.秦は自分のことを公務員だと言っていたが,ここで刑事であることを明かす.

 

分析結果によると,肉片の細胞はニシワキセルとヒト癌細胞の融合体のようなものであるという.秦と久住はニシワキセルについて調べ,西脇順一という人物にたどり着く(詩人の西脇順三郎となにか関係があったりはしないのだろうか,これはわからない).ニシワキトロフィンという物質の発見者であり,また来須とともに東都研究所の設立者である.10年以上前に亡くなっている.「私と家族」と題された記事で,西脇の隣に座る制服の少女に秦は目を留める.「どうした?」「いや,別に」

 

秦は岬に電話をかけるが,つながらない.東都研究所を訪ねてクロだと確信した久住は,さらに西脇順一の線をあたる.西脇家の墓へ足を運ぶ久住は,雨が降り始め傘を開く,その向かうずっと先を横切っていく女性.墓石を目にするや否や,彼は傘を捨て道路のほうへあわてて駆け出す.手をかけたフェンスの向こう,真っ赤な車が曲がり角を膨らみ気味に左折すると,急加速して目線の先へと走り去っていく.霊前には花束が供えられ,線香が白い煙を上げているのだった.

 

久住は秦を自宅に招く.壁の全面を埋め尽くす膨大な量のレコード.「俺はアナログレコードしか聴かないんだ」久住は交通課に頼んで西脇家の墓参りをしていた女性を調べていた.岬冴子,旧姓は西脇.

「お前付き合ってるのか?」

「そんなことまで調べたんですか?」

「女のイニシャルが,ライターと同じだった.それに最近のお前の様子.調べたわけじゃない」

「彼女に嫌疑でも?」

「東都の主任研究員だからな,疑うのは当たり前だろう」

 秦は岬冴子のことは自分が調べると言う.

「パソコンネットの伝言板に書くのか?逃げたガールフレンドを探していますって」

「久住さんのも書いてあげましょうか?わたしを捨てた家族を探していますって」

「秦,頭を冷やせよ」

 

 大学研究室の人間に無理を言って,岬のロッカーを開けてもらう秦.大きなトランクが転がり出て,中身が明らかになる.DAT プレーヤーとスピーカー,そして小さなビンには「ニシワキトロフィン」のラベル.これは怪物の餌となるものだ.研究室で行方不明になっていた試薬であるらしい.彼女のアルバイトの理由はここにあった.

 

秦は,岬のアパートを訪ね,管理人に鍵を開けてもらう.なかはもぬけの殻であったが,ひとつだけ施錠された部屋があった.管理人が見ていないことを確かめて,秦は折りたたんだ紙で鍵を開ける.そこで彼は,異様な光景に面食らうことになる.それは壁一面に引き伸ばされた,一美の写真であった.

 

さらに秦は,岬家の両親を訪ねる.冴子から,秦が来たら渡すように頼まれていたものがあるという.それは,一美のことを撮ったホームビデオと,「子守唄」とテープの貼られた DAT であった.ビデオを再生すると,ピアノを弾く一美の姿が映し出される.ベートーヴェンピアノソナタ第8番『悲愴』.そして一美は,小児性の癌で亡くなったことを告げられるのだった.「子守唄」を,いったい何に聴かせていたのだろうか.

 

「子守唄」DAT を分析する久住.すべての事件現場付近で,この DAT が含む超音波領域の音に類似した波形の音が発せられていたことが明らかになる.CD はヒトの可聴域外の音をカットしてしまうが,アナログオーディオではそうでない.久住ならではの気づきであろう.岬は,この DAT を用いて怪物をおびき出し,自ら餌を与えていたのだ.岬がひとりトランクを手に埠頭に立っていたシーンはこれを暗示する.ひょっとすると,冒頭のシーンもその帰りだったのかもしれない.岬家の父が庭の池の鯉を手を叩いて寄って来させ,餌をやっていたのは暗喩的である.同時に,これを利用して怪物をおびき出し,細胞を死滅させる特殊弾頭で処理する作戦が立案される.

 

現場にやって来た岬を,秦は招き入れる.

「なぜ僕にテープを渡した?」

「尋問してるの?」

「理由を知りたい」

「わからないわ.もしかしたら,もしかしたら似ていたせいかもしれない.あなたあのひとに少し似てる.だから,ほんとうはあなたに止めてほしかったのかもしれない.わからない.もう忘れちゃったわ.理由なんか忘れちゃった」

 「彼女」の誕生の過程を話す岬.

「まるで魔法を見てるようだった.そう,あの子は新しく生まれ変わったのよ」

「生まれたのは,君の子どもなんかじゃない.生まれてきたのは,怪物だ」 

「怪物,ベイカーズダズン,廃棄物13号,いろんな名前でみなが呼ぶけど,わたしにはあの子の名前はひとつだけよ」

"baker's dozen" とは,13を意味する.「パン屋が量目不足を怖れて1ダースに1個おまけしたことから」(新英和中辞典より)なお,『悲愴』の作品番号は13である.

 

スタジアムに「子守唄」の音声が響き渡る.無邪気な,あどけない声.

「岬一美です.これから,ベートーベンの,ピアノソナタ8番を弾きます.聴いてください」 

 満場の拍手とともに曲は始まり,それを聞いた「彼女」は会場へと入ってくる.なんとも皮肉で残酷な演出であるように思われる.秦の手を振り払った冴子は,はるか上方よりその様子を見下ろしている.

 

作戦は予定通りに進行し,特殊弾頭が撃ち込まれると同時に,冴子は突き出した鉄骨の突端より身を投げる.しかし,すんでのところで秦がその左手首を掴む.動きの鈍った「彼女」のわきに,陸自の戦闘ヘリが降り立つ.「シナリオが変わった」火炎放射が始まる.上半身を覆っていたカウルが外れ,その乳房が露わになる.「彼女」は東京湾の底で,少女から大人へと,確実に成長していたのであった.かたく掴まれた手は雨に濡れ,久住が駆けつけるまでもちこたえられようはずもなかった.「彼女」のくずおれる断末魔とともに,冴子の手は秦のそれを離れる.けっきょく,冴子は「あの子」が焼き殺されるその最期まで,見届けることになってしまった.

 

ラストシーン.西脇家の墓に参った秦は,さりげない仕草でもって「前は吸ってた」煙草を口に咥えると,赤いライターで火をつける.これは冴子のライターであろうか.なんともシニカルでペーソスに満ちた,気の利いた幕の引きかたではないかと思う.冒頭の邂逅の後,車内で愉しげに喋りかける秦と,ラストの喪服に身を包み,とくにどうという表情も浮かべない秦.これら始まりと終わりを結ぶ小道具として煙草はある.内心の思いを面に出さない程度には彼もプロであるが,一連の事件の真相が表沙汰にされないことに対するささやかな反抗と,それから冴子と自らの運命に対するそれとを,ここに見てとることができるのではないだろうか.

猫について

来れ,わが麗しき猫,わが戀の炎ゆる心に.

       汝が趾の爪をかくして,

金銀と瑪瑙の混れる美しき眼の中に

       わが體を投入れしめよ.

ボードレール『猫  LE CHAT』,鈴木信太郎

 

学部を卒業してこのかた,友人は減ることこそあれ,増えることはない.一時は人間と積極的に関わろうと外へ出かけていくこともあったが,たいていは笑顔で解散したのち,帰り道でひとり後悔する羽目になった.ひとと会って話すことについての後ろ暗い思い出は徐々に積もっていくのに,予定を立てる段階ではいつでも明るい期待をばかりしてしまうのはなぜなのだろう.ともかく,顔を突き合わせてあれこれ喋るべき相手は慎重に選ばねばならないのだと思う.これから新しく関係を築くにしても,初対面のそののちまで連絡をとるほどに目の前の人間に興味が持てるかというと,あまり自信がない.ときには気質の似たひとに思いがけず巡り合えることもまた,間違いないことなのだけれども.とかく同年代と話が合うことが少なすぎる.

 

日ましに募る寂寥で人生がいよいよにっちもさっちもいかなくなったら,猫を飼いたいと,ここのところそんなことを思ったりもする.それも能うかぎり恩知らずなやつがいい.小学校からのある友人は無類の猫好きであって,彼の家にはいつも幾匹かの猫がいて,ときたま遊びに行くと触れ合う機会があった.いまではお互い地元を離れてしまったから,ここ数年はすっかりご無沙汰であるが.

 

どうして猫が好きかといえば,小説にはときおり登場してくる(そして現実には絶対に存在しない!),孤独で,自由で,物静かで,どこか陰のある,といった一群の典型的な形容を受ける人物,にそっくりであるように思われるからである.わたしはどうも,他人に興味のなさそうなひとを好んでしまう性癖であるらしい.それに猫は人間と違って喋ったりなどしない.喋れるのだから,喋るべきだ,というような了解は息苦しい空気を形成する.

 

いま住んでいる家の近所にはけっこうな数の野良猫がいるようで,ふらふら歩いているとアスファルトのうえに佇んでいるのを見かけることが多い(実に,猫は佇んでいるだけでも詩的だ).近づくと当然のことながら(江の島の猫ほどひとに慣れていないので)逃げられてしまうが,ついつい何度も追いかけてしまう.俊敏に走り去っては少し離れたところで止まりこちらをじっと窺う,あの小憎らしい表情が好きである,しかし決して追いつかせてはくれない.そういえば,映画『耳をすませば』の雫は,電車のなかでシートの隣に飛び乗ってきた太った不思議な猫に惹きつけられ,彼を無我夢中に追いかけるうちに地球屋へとたどり着いたのであった.この出来事は雫の言うところの「物語」の「始まり」であったわけだ.ちなみにこいつは,自分に向かって吠えかかる飼い犬を,門扉の上から尻尾を垂らして見物するような「性悪」である.猫を追いかけるというのは魅力的なモチーフだといえよう.

 

古今東西,芸術家や文学者にも猫をこよなく愛するひとたちがいる.三島もそうとうな猫好きであったようだ.

私は猫が大好きです.理由は猫というヤツが,実に淡々たるエゴイストで,忘恩の徒であるからで,しかも猫は概して忘恩の徒であるにとどまり,悪質な人間のように,恩を仇で返すことなどはありません.

―『不道徳教育講座』「人の恩は忘れるべし」

あの憂鬱な獣が好きでしゃうがないのです.芸をおぼえないのだっておぼえられないのではなく,そんなことはばからしいと思っているので,あの小ざかしいすねた顔つき,きれいな歯並,冷たい媚び,なんともいへず私は好きです.

―猫「ツウレの王」映画

 「犬」という言葉が使われている,対照的な一節も引いてみよう.

何かにつけて私がきらひなのは,節度を知らぬ人間である.一寸気をゆるすと,膝にのぼつてくる,顔に手をかける,頬つぺたを舐めてくる,そして愛されてゐると信じきつてゐる犬のやうな人間である.女にはよくこんなのがゐるが,男でもめづらしくはない.

―「私のきらひな人」

愛し愛されたいのであるが,いざ愛されてみると強烈な違和感とともに即座に相手を切り捨ててしまう.三島は,自身が愛されるに足ると考えるには自己を嫌悪しすぎており,相手について愛するに足ると考えるには自己を愛しすぎている.そういうわけで,彼は彼を決して愛さない孤高の猫を追いかけ続けることを選ぶのである.

 

赤坂憲雄『性食考』

二月のなかばに京都へ旅行をしてきた.以前にも幾度か訪うているから,どこを見て回ろうか思案していたのだが,すぐ頭に浮かんだスポットとして,あの『檸檬』の丸善がある(ところでわたしは京都の地理にうとく,一番の繁華街といえばあの四条河原町のあたりを指すということを知らなかった.そもそもまともに足を運んだことがなかったと思う).さっそく行ってみると,美術書や洋書が充実しており,さらに椅子と机があって「座り読み」ができたりもして,至れり尽せりである.そしてその机の並びの脇に『檸檬』のコーナーが設けられており,バスケットに持参したレモンを置いたり,購入した新潮文庫の『檸檬』にスタンプを押したりすることができる.ただ,やはり檸檬は「ゴチャゴチャに積みあげ」られた「本の色彩」の「城壁の頂き」に据えつけられなければ,「あの気詰まりな丸善も粉葉みじん」にできないのではないだろうか,というようなことを思う(引用は青空文庫による).ちなみに併設されているカフェでは,「檸檬」というスイーツが提供されていたりもして,これはおいしかった.

 

ここまでが枕である.わたしはいちおう本の紹介をしたいと思っているのだ.その丸善の人文書コーナーをふらふらしていたときに,目に飛び込んできた平積みの本が,赤坂憲雄『性食考』であった.

 

性食考

性食考

 

内容紹介:

「食べちゃいたいほど,可愛い.」このあられもない愛の言葉は,〈内なる野生〉の呼び声なのか.食べる/交わる/殺すことに埋もれた不可思議な繋がりとは何なのか.近代を超え,いのちの根源との遭遇をめざす,しなやかにして大胆な知の試み.神話や物語,祭りや儀礼等を読み解き,学問分野を越境してめぐる,魅惑的な思索の旅.

 

表紙絵が印象的なので,つい手に取ってしまった.あとがきによると,著者自らが鴻池朋子の絵の一部分を選んだものであるらしい.眺めるうちに,それが著者をして想起せしめたのは宮沢賢治の『狼森と笊森,盗森』のある場面であったという.横着したいので,青空文庫からそのまま引いてしまおう.

そして蕎麦そばと稗ひえとが播まかれたやうでした。そばには白い花が咲き、稗は黒い穂を出しました。その年の秋、穀物がとにかくみのり、新らしい畑がふえ、小屋が三みつになつたとき、みんなはあまり嬉うれしくて大人までがはね歩きました。ところが、土の堅く凍つた朝でした。九人のこどもらのなかの、小さな四人がどうしたのか夜の間に見えなくなつてゐたのです。
 みんなはまるで、気違ひのやうになつて、その辺をあちこちさがしましたが、こどもらの影も見えませんでした。
 そこでみんなは、てんでにすきな方へ向いて、一緒に叫びました。
「たれか童わらしやど知らないか。」
「しらない。」と森は一斉にこたへました。
「そんだらさがしに行くぞお。」とみんなはまた叫びました。
「来お。」と森は一斉にこたへました。
 そこでみんなは色々の農具をもつて、まづ一番ちかい狼森オイノもりに行きました。森へ入りますと、すぐしめつたつめたい風と朽葉の匂にほひとが、すつとみんなを襲ひました。
 みんなはどん/\踏みこんで行きました。
 すると森の奥の方で何かパチパチ音がしました。
 急いでそつちへ行つて見ますと、すきとほつたばら色の火がどん/\燃えてゐて、狼オイノが九疋くひき、くる/\/\、火のまはりを踊つてかけ歩いてゐるのでした。
 だん/\近くへ行つてみると居なくなつた子供らは四人共、その火に向いて焼いた栗や初茸はつたけなどをたべてゐました。
 狼はみんな歌を歌つて、夏のまはり燈籠とうろうのやうに、火のまはりを走つてゐました。
「狼森のまんなかで、

火はどろ/\ぱち/\
火はどろ/\ぱち/\、
栗はころ/\ぱち/\、
栗はころ/\ぱち/\。」
 みんなはそこで、声をそろへて叫びました。
「狼どの狼どの、童わらしやど返して呉けろ。」
 狼はみんなびつくりして、一ぺんに歌をやめてくちをまげて、みんなの方をふり向きました。
 すると火が急に消えて、そこらはにはかに青くしいんとなつてしまつたので火のそばのこどもらはわあと泣き出しました。
 狼オイノは、どうしたらいゝか困つたといふやうにしばらくきよろ/\してゐましたが、たうとうみんないちどに森のもつと奥の方へ逃げて行きました。
 そこでみんなは、子供らの手を引いて、森を出ようとしました。すると森の奥の方で狼どもが、
「悪く思はないで呉けろ。栗くりだのきのこだの、うんとご馳走ちそうしたぞ。」と叫ぶのがきこえました。みんなはうちに帰つてから粟餅あはもちをこしらへてお礼に狼森へ置いて来ました。

 

このお話では,子どもたちは「向こう側」へ漂い行くすんでのところで「こちら側」へ連れ戻されている.本文中にもいくどか触れられている絵本の『かいじゅうたちのいるところ』では,オオカミの着ぐるみを身にまとった少年マックスは,いつの間にか怪獣たちの世界へ,一度とはいえじっさいに行ってしまう.人間と動物との境界がどこか曖昧で,互いに変身して移り変わることができる,そういう始原への考察は本書のひとつのテーマである.ちなみに現実の例もあって,著者が聞き書きした山形県のあるムラでの狩猟の情景が参考に挙げられている.曰く,「はじめて春の熊狩りに参加した少年は,獲物の熊が捕れたときには,解体されたばかりの熊の毛皮をかぶせられた」そうだ.

 

「食べちゃいたいほど,可愛い.」に着想を得て説き起こされる,いわばコインの裏表である食欲と性欲,その複雑に絡まり合った二本の幹を言葉をよすがとしてたどりながら,「この世のはじまりの風景」を見定めようとする道程,それが本書の全体を成している.しかしこの試みは,いずれ「薄明のなかの不定形としかいいようのない影の部分」にはばまれることを避けられない.そのことが理由かどうかはわからないが(それと,岩波書店のウェブ連載がもとになっているので),本書は終始ひとつの論旨に貫かれた書き方がなされているというよりは,各章が比較的に独立したエッセイとして,多角的な視座から「影の部分」の周りを輪郭づけていこうとしているように思われる.そういうわけなので,けっこう気楽に,たのしく読める(散漫に感じられる部分も多いといえば,その通りであるが).

 

書き起こしに,芥川龍之介が,のちの妻となる文(フミ)へ宛てた手紙が引かれているが,実は同じ手紙の内容が以前に Twitter で流れてきたのを見たことがあったので,少し驚いてしまった.ここにも引いてみよう.

 二人きりでいつまでもいつまでも話してゐたい気がします  さうして kiss してもいいでせう  いやならばよします  この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい気がします  嘘ぢやありません  文ちゃんがボクを愛してくれるよりか二倍も三倍もボクの方が愛してゐるような気がします  何よりも早く一しよになつて仲よく暮しませう  さうしてそれを楽しみに力強く生きませう

 もちろん,これが引かれているのは「頭から食べてしまひたい位可愛いい」というフレーズがあることによるのであるが,なんというか,こんな手紙が残っていては彼の自死もかたなしという気がしなくもない.気の毒なことである.

 

閑話休題.本書では実に多種多様な民話や昔話,童話がとり上げられているが,宮沢賢治の『蜘蛛となめくぢと狸』の分析には舌を巻かざるを得なかった.誰しもかつて一度は聞いたことのある童話であろう.注目されるのは,へびに足を噛まれたとかげを,なめくじが嘗めて治してあげましょう,という場面である.青空文庫より引く.

そしてなめくじはとかげの傷に口をあてました。
「ありがとう。なめくじさん。」ととかげは云いました。
「も少しよく嘗めないとあとで大変ですよ。今度又また来てももう直してあげませんよ。ハッハハ。」となめくじはもがもが返事をしながらやはりとかげを嘗めつづけました。
「なめくじさん。何だか足が溶とけたようですよ。」ととかげはおどろいて云いました。
「ハッハハ。なあに。それほどじゃありません。ハッハハ。」となめくじはやはりもがもが答えました。
「なめくじさん。おなかが何だか熱くなりましたよ。」ととかげは心配して云いました。
「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ハッハハ。」となめくじはやはりもがもが答えました。
「なめくじさん。からだが半分とけたようですよ。もうよして下さい。」ととかげは泣き声を出しました。
「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ほんのも少しです。も一分五厘りんですよ。ハッハハ。」となめくじが云いました。
 それを聞いたとき、とかげはやっと安心しました。丁度心臓がとけたのです。
 そこでなめくじはペロリととかげをたべました。そして途方とほうもなく大きくなりました。

 一読してみて奇妙に思えるのは,なぜ「丁度心臓がとけた」とき,とかげは「安心」するのか,ということだ.著者はこれを,「恐怖にまみれた快楽の果て」,「性的なエクスタシーへと押しあげられてゆく」末の,「永遠の切断としての死」の訪れとみる.すなわち,このなめくじととかげとの絡みあいは,「嘗める」ことの意味が,傷を治すことから愛撫することや味わい食べること,ついには殺すことへと重層的に変化していく様を表しているのだという.本書で問題となっているいくつものモチーフが,この小品のなかに巧みに編み込まれていると考えると,この作品の魅力はいや増すであろう.

 

このほかにも,サルトル存在と無』の「穴の実存主義精神分析」や,夢野久作ドグラ・マグラ』における,絞め殺した美女をその白骨化に至るまで観察し写生した絵巻物など,興味をそそる題材がそこかしこに散りばめられている.もしよかったら,手にとってみていただきたい.

洒落と散文

Twitter を彷徨していると,ときおりほとほと感心させられるようなセンスあふれる呟きに出会うことがある.たいていは諧謔の一行である.諧謔は短ければ短いほどよいが,それはおもしろさを説明するのがより難しくなるからであろうか.発信する側と受け取る側とのあいだで共有されている文脈を絶妙に把握して書かれるシニカルな一言には,つい口角が上がってしまうし,反射的に like をつけざるを得ない.ほんとうはいくつかお気に入りを引いてみたいのだが,さすがにそれはまずかろう.わたしのアカウントの Likes でも見ていただければ,嗜好の一端が垣間見えるかもしれない(いや,やっぱり見なくていいです).

 

玄妙なる一行が羨ましく思えるところはたくさんある.まず気取りがないところがいい.散文を気取らずにつづるのは,よほど道化を演じてみせなければ不可能である.短い文では,自分をさらけ出すようなみっともない真似はしなくて済む,孤高の表現である.加えて軽やかさ,明るさというのも感じられる.高橋睦郎がどこかで,自分は重いほうへ重いほうへ思いがけず進んでしまうから軽妙さは羨ましい(谷川俊太郎を評してのことだったか,間違っていたらすみません),というようなことを言っていたのを思い出す.真面目さから抜け出すのにもっとも優れた手法はユーモアであろう.

 

わたしもひとと話すときは多分に皮肉屋になっていると思うが(というか口を開くと皮肉ばかり言いたくて困るのだが),どうも書くこととなるとうまい洒落は浮かんでこない.そういうセンスのあるひとを妬ましく思ってしまう.散文はあれこれ考えて付け加えながら書いているとどんどん長くなっていく.そうしていると(わたしにとっては)自然な流れとして深刻で真面目な方向へ文章が傾斜しがちであり,そういったものはあまり好まれない.顔を背けられないように軽やかに書くのは難しい.泥臭くて勝算のなさそうな相対化を続けねばならないというのは,散文のある種の宿命かもしれない.だが一方で,散文は世界の全体を覆い尽くせるのではないかというような夢想を抱かないこともない.

 

ところで,この記事の内容は入浴中に思いついたので,すぐに書き留めることができずにけっこう焦った.防水のタブレットでも購入することを検討すべきであろうか.それより一等困るのは眠っているときで,すなわち夢のなかであるが,こればかりはどうしようもない.わたしはひとりでいるとだいたいいつも上の空でこんなことばかり妄想しているのであるから,考えてみると笑える話ではある.

ブログを書く

どうしてブログを始める気になったかと言えば,ある程度まとまった量の改まった文章を,ひとの目に触れうる(だから,批判されうる)形で書くということは大切であろうと考えたからという,月並みな理由による.Twitter で短い思いつきを,別にただの冗談であるからという留保をつけて放言するのは楽であるが,それだけではやはりよくない気がする.日記をここ一年間ほどつけていて,そこではできるだけきちんとした日本語で自らに誠実に雑感を記すことにしているが,到底ひとに見せられるものではないし,ノートに手で綴っているから,書き散らしたのちにあちこち線を引っ張って推敲をするのは気が引ける.というわけで,文章を書くにしても多様な場があるものである.あちこちへ手を拡げると,このことについてはここで書くことにしよう,というようなことを余計に考えねばならないので,それもまためんどうではあるが(わたしの友人には,すべてひとつところに,例えば日記に,まとめて書いておかなければ気が済まない,というような奇妙な潔癖性を理解してくれるひとがいると思っている).Twitter のアカウントをわけているときの厄介さと同根である.そこではどうしても,読むひとに対してまた自身に対して,分裂した人格をどう扱いどう捌くかという問題が生じてくる.

 

いちいちこんな細かいことまで自らが納得いくように言葉で規定しないと気が済まないのは不幸なことであるが,なんにせよこだわるということは大切であろう.細かいことへのこだわりと,そこへ向けて最良の表現を探し,いつもすこしだけ理想とずれていくそれを手繰り続ける分析癖,そうしたものがなければこんなブログなど書きはしまい.やや自らに言い聞かせるように,「神は細部にやどる」と信じている.さて,こういうことを考えていると,わたしには埴谷雄高『死靈』の自序が思い出されてくる.名文を長く引くというのはいつでも後ろめたいものであるが,許していただきたい(講談社文芸文庫による).

一種ひねくれた論理癖が私にある.胸を敲つ一つの感銘より思考をそそる一つの発想を好む馬鹿げた性癖である.極端にいえば,私にとっては凡てのものがひややかな抽象名詞に見える.勿論,そこから宇宙の涯へまで拡がるほどの優れた発想は深い感動からのみ起ることを私は知っている.水面に落ちた一つの石が次第に拡がりゆく無数の輪を描きだす音楽的な美しさを私は知っている.にもかかわらず,私は出来得べくんば一つの巨大な単音,一つの凝集体,一つの発想のみを求める.もしこの宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶して,しかもその一語をきっぱり叫び得たとしたら――そのマラルメ的願望がたとえ一瞬たりとも私に充たされ得たとしたら,こんなだらだらと長い作品など徒らに書きつづらなくとも済むだろう.私はひたすらその一語のみを求める.けれども,恐らくその出発点が間違っている私にはその一つの言葉,その一つの宇宙的結晶体はつねに髪一筋向うに逃げゆく影である.架空の一点である.ついに息切れした身をはたと立ち止まらせる私は,或るときは呻くがごとく咏嘆し,また或るときは限りもなく苛らだつ.そして,ついにまとまった言葉となり得ぬ何かがそのとき棘のような感嘆詞となって私から奔しり出る.即ち,ach と pfui! 私にとって魂より奔しり出る感情はこの二つしかなく,ただそれのみを私は乱用する.

 「胸を敲つ一つの感銘より思考をそそる一つの発想を好」んだ埴谷は,「この宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶」するような一語を求めたが,それはついに「髪一筋向うに逃げゆく影であ」った.その過程であるところの「だらだらと長い作品」が『死靈』であり,わたしのすきな本のひとつである.

 

名刺代わり

そこそこの数の記事を書きためれば,このブログは名刺代わりになって便利なのではないか,というようなことを考えていた.この歳にもなれば,積み上げてきた経験は各々そうとうに異なるものであるから(なのにいつでも人間とはその身一つとしてわれわれの知覚に現れる,これもずいぶんと不思議なことである),価値観の違いも大きく,初対面の人間と適切な距離をとりつつうまく付き合えるようになるにはある程度の時間が必要である.それもだいたいは表面的なものに終始しがちというのが実情ではあるまいか.かといって,自分のことについて周りに知らしめるために,昔からの Twitter アカウントを見せることなど気恥ずかしくてできるわけがない(ほとんど妄言で構成されているので).作家であれば,ぜひこれを読んでからわたしに会うようにしてほしい,というような一書があるのではなかろうか.これはそのひとが思考や想像に費やした多くの時間を注ぎ込んでいるという点で,優れた自己紹介の形式に思われる.それからこれはすこし違う話だが,人間そのひと自身と,そのひとの書いたものという分裂はひとつのおもしろいテーマであるとずっと考えている.わたしもなるべく継続して書いていきたい.

 

書いているうちにぽんぽんと頭に浮かんでくることを文章の合間に挿入していくと,通して読んだときにリズムが悪くなっていたり,散漫に感じられたりしてうまくないのかもしれない.それでも,今は泡沫のごとき思考の飛跡をすらキーボードがすばやく辿りなおしてくれるから便利だと思う.そういえば,出典が定かでないのだが,坂口安吾は頭に次々ひらめく書きたいことに手のほうが追いつかないからと速記を習得しようとしたが断念したというようなことをいつか読んだ覚えがある.サルトルは占領下のパリのカフェで『存在と無』を書き継いだが,彼もまた書きつけるべき想念の浮かんでくるあまりの速さに,インク壺にペン先を浸すのさえもどかしいと感じたそうである.

 

話をもとに戻そうとしてみる.わたしはひとの読んでいる本,あるいはひとの本棚にたいして異様なまでに興味をそそられるが,それはそれらがそのひとの人となりをいくぶんか担うものだと考えているからであろうか.わたしがよく知らないひとのことを知ろうとするに際し,自らの場合をそのまま他者へ投影するからかわからないが,あまりそのひとのふるまいや口にする言葉を信用していない節がある.そのひとがひとりでいるときにしていることこそを信用しようとし,そのひとつとして読書があるのかもしれない.顔を知っている人間の書いたものに関しても強く読んでみたいと感じるが,これも同じ心理によるのか.あるいは,誰かがものを書かねばいられない状況というものにも(自分に引き寄せる形で)興味をもつ.前提としてすこし加えると,たぶんわたしはかなり人間に関心を寄せるほうではないかと思う.正直なところ,(実在の)人間に興味がなさそうに見えるひとを羨ましく思っているようなところがある.しかし,そういう点で自分に嘘をついても仕方があるまい.

 

それにしても,ほんの手短に片手間に行われる,いわゆる「自己紹介」ほど中身がなく,形骸化しているものもない.そんなに簡便に「自己」が「紹介」できてはたまったものでないと思う.そういう場では結局のところ,広く世間に受け容れられている技能や特技がもてはやされるだけだ.だんだんと社交ぎらいの僻みが出てきてしまうので,もうそろそろ筆を擱こう.社交が厭というのは,他者と会って話す際の果てしない博打性が好みでないからなのかもしれない.おまけにこの賭けはたいていの場合,わたしが負けるようにできているのだから.

古井由吉『槿』

 

 
槿 (講談社文芸文庫)

槿 (講談社文芸文庫)

 

 

 古井由吉という名前を初めて聞いたのは(恥ずかしながら最近のことで),数か月前に友人から新潮文庫の『杳子・妻隠』(引用はこれによる)を手渡されたときである.古井はこの『杳子』によって1971年の芥川賞を受け,今や日本文壇の長老となった.さっそく読んでみて,驚くほかはなかった.率直に言って,こんな文体に触れたことがなかったのである.筋を簡単にたどるだけならどうということはない,すこし神経症の気のある女と,それを放っておくことのできない男との,青年期の恋愛の物語だ.要約すればすべて消えてなくなってしまうような,そういう類のお話.しかしながら,人間の精神的な部分について,正常と異常とのあわいを揺れ動くさまをこんなに見事に描くことができるのかと,妙に感心してしまったのを憶えている.

 

なにげない生活の一場面にどこかおかしな女がひとり入り込んできて,そこにゆくりなく日常の陥穽は口を開き,世界はその場面を軸として再構成される.不思議にふるまうのは人間だけではなく,その場の情景すべてが奇妙な印象を与えるようになってしまう.この小説において精神の違和を描きとっているのは,そのひとの外面の客観的な描写でも,そのひと自身の内面の告白というわけでもない.どこか親近性のある,けれども透明な第三者との交流を通して,彼の見ている世界が彼女を中心にすべて裏返ってしまう,そうした方法によって可能になっているものなのだと思う.

 

杳子の最後の台詞が印象に残っている.彼女は「健康人」である姉の,「いつだって,なにもかも,おんなじ」なふるまいに打ちのめされ,とうとうSに向かってこう言い放つ.

「明日,病院に行きます.入院しなくても済みそう.そのつもりになれば,健康になるなんて簡単なことよ.でも,薬を呑まされるのは,口惜しいわ……」

 

前置きが長くなってしまった,本題は『槿』である(この字はムクゲであるが,アサガオと読ませる).『杳子』より13年後,古井45歳の作で,谷崎賞作品であり,昭和文学のなかでも傑作のひとつに数えられるらしい.わたしは河出書房新社の『古井由吉自撰作品 五』(引用はこれによる)でこれを読んだが,この巻の解説は保坂和志が担当しており,それは次のような一文で書き出される.

古井由吉の書いたものを解説するとは,解説する自分,さらには解説という行為そのものが馬鹿みたいな気分にどんどん浸食される.

身も蓋もない書き方であるが,(それなりに苦労しつつ)『槿』を読み終えてみれば,まさしくその通りだと思わざるをえない.『杳子』よりも会話文は少なく,改行も減ったことによってさらにねちっこさを加えた地の文の描写は,どの場面をとってきてわかりやすく説明しようと試みても,どだい圧縮は不可能であり,無理に掬ってみれば水のように指のあいだをつたい落ちる,そういう性質のものである.そういう点において,この作品の全体はうまく批評に解体されうるものではなく,古井の文体はその固有の世界を拓いているように思われる.

 

さて,本作の主人公である杉尾は「四十を越した」中年の男で,妻帯しており,二人の娘がいる.「学校を出て十年の職」は捨て,それからはものを書く仕事をしている(だから,彼は一応は古井の写しである).物語は彼の子どものころの短い回想から書き出される.名調子であると思うし,好みである.何箇所か抜き出してみる.

腹をくだして朝顔の花を眺めた.十歳を越した頃だった.厠の外に咲いていたのではない.

 

縁先の鉢植の前に尻を垂れて初めは花を見てもいなかった.ただ腹の内を測っていた.おさまっているのがかえってあやうく感じられた.小児にとって夏場の死はまず腹の内にあった.

 

あの朝,十歳の小児が露に濡れて,自分は生き存えられないような体感を抱えこんで股間には重苦しい力を溜めていた.

「色に似あわず青く粘る臭気」を伴い,「粘りながらやはりどこか線香の鋭さをふくん」だ朝顔のモチーフは本作のところどころに現れてくる.

 

それにしても,この書き出しからもなんとなく察せられることであるが,どこまでいっても後ろ暗い雰囲気を湛え,重苦しく湿っぽい小説である.とりあえずは『杳子』と対照させることにすると,『杳子』における日常的な空気の明るさ,透明度はほとんど消え去っている.『槿』で場面に光が差し込んでいるように感じられるところはあまり見られないし,つねに靄の立ち込める仄暗いどこかで,話が進んでいくような感じがする.さらに比較して言うならば,本作によりいっそうの重厚感や重層性を加えているのは(もちろん長篇であるということもあるが),それぞれの人物が抱え込んでいる自らの過去,生きてきた時間の重みといったものであろう.過去はもはや,記憶に頼って想起するという仕方でしか到達することが叶わないのであり,そしてそこには曖昧さや妄想,思い込みといった要素が容易に入り込んでしまう.人物によって語られることと,実際に起こったこととの隔たりは謎のまましばらく中空に留め置かれ,とくに気にせず続けられる会話のなかに消えていく.それでいて,聞く側も語られた内容に影響を受けないわけにはいかないから,製作される過去はさらに錯雑としたものになっていく.一方で,会話を幾度か繰り返すうちに,はっきりしなかった昔の記憶が次第に明瞭な輪郭をもつようにもなっていく.

 

主な登場人物として,杉尾と数寄な縁で結ばれることになった女性が二人出てくる.殺人事件があったのだと言い張ってきかない居酒屋の女将もそうとう奇妙なひとであるが,ここでは措いておく.まずは冒頭近く,病院に献血をしに行った杉尾は,同じく献血をしていた三十過ぎの女に出会うが,帰り道で体調を崩しているらしい彼女に腕を掴まれる.これが井出伊子である.杉尾は井出をおぶって彼女の木造アパートまで連れて帰るのだが,そこで彼女は藪から棒に

「一度きり,知らない人に,自分の部屋で,抱かれなくてはいけない,避けられないと思ったんです」

 などと言い出す.さすがに首を横に振った杉尾に,井出は,それではお礼に,部屋の中の気に入ったものを持って行ってくれと言い,杉尾はそれを受けて「張出しの内でいつのまにか青い花を咲いた朝顔の鉢植」に手をかけて部屋を後にすることになる.

 

すぐ次の章では,杉尾は妻から,学生のときの旧友が亡くなって通夜が執り行われることを告げられる.その席で会ったのが,故人の妹にあたる萱島國子である.杉尾は遠い昔の,國子についてのおぼろげな記憶を手繰り寄せていく.少し長いが,その回想を引いてみる.

門のくぐり戸の内でごとんと厭な音がして細い足音が遠ざかり,玄関の戸があいて少女の声と,兄らしい声が重たるくかさなった.踵を返すのもあらわな気がして杉尾は夜道をまっすぐに進んだ.林の縁まで来て,頭上からおおいかぶさる大木の,奇怪な枝振りを見あげ,我に返ったものだ.取っ憑いていたものが落ちて遅ればせに,死にたいような,いや,すでに死んで目を蛾のように蒼く光らせて闇の中をさまよっている心地がした.しょろしょろと長い立小便をした.

少女はついと腰を引くと甘い笑みを斜めにそむけ,後ずさりにくぐり戸の内に消えた.戸を閉めたあともしばらく,すぐ内に立って息をひそめていた.髪のにおいが門の外の薄闇の中にまで漂った.

この場面は杉尾の想起として,少しずつ形を変え作中に繰り返し現れる.どうやら杉尾と國子とのあいだに重要ななにかが起こったところのようだが,描写はいたって曖昧であるし,真相はなかなか明らかにならない.この國子という女も変わったところがあり,読み進んでいくと,杉尾を呼び出して,かつて狂人のようになった兄に,杉尾と寝たんだろうと激しく責められたことがある,と語るのだ.それがいつの間にか,少女のころに杉尾に犯されたことがある,という思い込みに転化していく.

 

また別の旧友である石山が,入院している病院から國子へ唐突に電話をかけたり,杉尾が井出と國子とは顔見知りであることを井出から告げられたりしながら,物語は少しずつ進んでいく.

女のとりとめのない浮世離れした話しぶりに対し,杉尾はそれを細部まで問い詰めるようなことはせず,いつも中途半端についていく.読んでいる側は,杉尾が女に「手を触れた」のかすら,注意して読まないと見落としてしまいそうになる.

 

『槿』の世界にあっては,杉尾の側に特別ななにかがあるようには思われない.空っぽで,なにを考えるでもなく,淡々と行為をするだけという印象を受ける,それも周りの状況に流されるようにして.このあたりに中年の男の陰惨さを読み取ることができるだろうか,ある種の諦念,そしてすこしく依怙地になり,我を通すことへの,自らがもっともよくわかっているはずのみっともなさ,そういう陰惨さを,ある程度は古井本人の思いに重ねるように.しかし,その男の目から眺められた女,さらにはその女を含む全世界,はそうとうに異常なものと映っている.これをさほど不自然とも感じさせずに読ませてしまう筆力は見事なものではないかと思う.

 

つらつらと気の赴くままに書いてきたが,やはりしようのないことのような気がしてきた.適当にページを繰って行を目で追っていくうちに,どこでも古井の筆致は解釈しようとする者のはるか先を行ってしまうようである.これを読んで興味をもっていただけた方に,本作を手にとってもらえれば幸いである.