umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

あつき日は心ととのふる術もなし心のまにまみだれつつ居り

このあいだの連休ですこし実家へ戻り,久しぶりに間近で生い茂る植物を見るような思いがした.きれいに晴れて,ときおり着衣の下を吹き抜ける風が汗を乾かしていく日であった.とくに柿の木は,年季が入ってごつごつした,あまり健康そうには見えない樹皮と裏腹に,先のほうから細い枝を長く伸ばし,若々しい黄緑色の葉をたくさん茂らせていた.昔から蕗も大きな葉を地面の上に広げて群生しているが,この煮物もずいぶんと口にしていなかったので,懐かしい味がした.雑草を片づけて,少々のトマトやきゅうりなどの野菜の苗を植えた.夏には実をつけることだろう.

 

ご近所さんの育てているラズベリーやブルーベリー,小ぶりないちごなどが青い実を結び始めている.気が滅入っていても,なんとか外に出るとこれらが目に入って少し救われるような思いがする.植物の力は偉大である.そういえば以前,友人から鉢植えでレモンの木を育てるとじっさいに実るし楽しいという話を聞いたことがある.部屋も明るくなるだろうか.

 

わたしは冬の生まれだからか,自分では寒い季節のほうが好きだと思っている.関東では雲ひとつない青空の広がる日がずっと続き,深く吸い込むと肺に沁みるような清冽な空気はからっとして気持ちがよい.たまに雪の降り積もる年もあるが,一夜にして窓の外の景色が一面に陽光をはね返す白で覆われてしまうのを目の当たりにするのは,幼少のときから少しも変わらず心躍る経験だと思う.夏は蒸し暑く,外を出歩くと汗が噴き出してくるのが不愉快であるし,実家にいたころは庭の雑草が日ごとに芽吹いては伸び,樹木は好き勝手にこんもりと繁り,また虫が,とくに蚊が多くて寝苦しくもあった(それにしても,あの蚊の鳴く音のなんと耳障りなことか).

 

それでも,季節の変わり目にあたるこの頃というのは,どうしてもじきに到来する夏に対して,なにか理想的な期待を抱きたくなる時期だ.といっても別にメディアの騒ぎ立てるようなひととの出会いとか,とくにそういうものではないけれど.季節というのも不思議なもので,内心わくわくしながらそれを待ち構えているうちに,気づけば終わりに差しかかっているというような,そういうたぐいのものである.よく春や秋は短くて,もう夏だ,もう冬だ,と言われるのを耳にするが,わたしにとっては,四季のどれも同じように短いように思われてならない.

 

道の向こう,建物の陰から立ち上がっている入道雲が目に入るとわくわくしてくる.あんなに厚みがあって陰翳がくっきりとわかり,まるでそびえ立つ山のような存在感を示す雲が見られるのも,これからの季節だけである.ほんとうはビルもなにもない,だだっ広い草原で,地平線の下から湧き上がるそれを眺めていたいような気もするが,とりあえず東京にいるなら仕方がない.それからもちろん,積乱雲は夕立を連れてきてくれる.外にいるとちょっと悲惨な目に遭うかもしれないが,屋内ならこれほど愉快なこともないと思う.猛烈な雨がたちまちアスファルトの熱を奪い,その叩きつけられる音が耳に心地よく響く.窓の外へぼーっと顔を向けていると稲妻の走るのが見えるかもしれない.昔から雷の好きな子どもだったように記憶している.雨雲が過ぎ去ると,雲間から光の帯が細く差し込んでくるのが見えるだろう.外に出れば,冷えて湿った外気がむき出しの温い肌にまとわりつき,雨と陽の入り混じった匂いが鼻をつくはずだ.

 

さて,雨ということで,書いているうちに『群青日和』を聴いたり『言の葉の庭』を観たりしたくなった.みなさんは夏の雨はお好きであろうか.そういえば,マルグリット・デュラスには『夏の雨』という小説があったのをたったいま思い出した,これはおもしろいです.まとまりがないけど終わり.タイトルは斎藤茂吉『白桃』より.

本好きの幸と不幸

この記事であるが,ちょこちょこいじるうちに,書き始めてからとうとう三ヶ月も寝かせてしまった(時季のことなのに!).いつまでも下書きで引っ張るわけにもいかないので,そろそろ公開する.

 

京都で,みながよくやるように持て余した時間を使って鴨川の河川敷を歩いていた.なにせ寒かったものだから,ひとの姿もまばらであった.わきの小さな流れの底に凧がへばりついて,その尾がひらひらと揺れていた.並行して流れる(あの『高瀬舟』の)高瀬川沿いをしばらく散策したりもした.川のある街というのはすてきではないかと思う.粉雪の舞うなか永観堂へ参ったりもしたが,ぼんやりと水の流れ落ちる音が聞こえ,奥まったほうへ歩いていくと,小さな滝があったのだった.ほかに誰もおらず,しばらくその前でぼーっと佇んでいた.水の流れは定常であっても平衡ではない.『方丈記』を引くまでもないが,そこには動き,場所を変え続けるものの新しさ,絶え間ない更新性のようなものが感じられる.わたしはわたしの外からやってくる新しさに,いつでも揺さぶられるような気がしている.そういうわけで,わたしは河川に惹きつけられるのかもしれない.

 

気だるい休日になにかしら行動を起こすには,一定の気力を必要とする.正直なところ,本を開くのにも一苦労するのだが,それでも,いったん読み始めてしまえばわりと入っていける.わたしには,言葉のそのままの意味で,自分にはなにもないという感覚が根強い.それゆえ,外部から摂取する文章は新鮮さをもってわたしに迫り,強く影響を与え,わたしをその度ごとに様々に異なった心持ちにしてくれる.それは何度読み返した本であろうと変わることはないし,きっと,すべて憶えた本でもそうではないだろうか.言葉がひとの認識を縛る力ほど強力なものもない.読んだ言葉は,すっかりわたしを満たす.「ゆく河の流れ」に臨むときと対照させても,そう大きく外れてはいまい.その感覚が好きで,わたしは本を読む.

 

本のことについてなにか書いてみたいと,いつも漠然と思っている.定義から始めるならば,ここでいう本好きとは,日に日に部屋の空間を書物が浸食していき,そのうち主人の寝る場所がなくなるのではないか,終いには(紀田純一郎『古本屋探偵の事件簿』の「書鬼」のごとく)その重みで家がどうかなるのではないかなどと考えているひとのことである.ちなみに,もちろん条件は建物によってまちまちであろうが,そんなに頑強な建築でないなら,床が抜けることを危惧し始めるのは五千冊くらいからであるらしい.わたしなどもっているのは文庫ばかりであるし,(たぶん)未だ千にも満たないくらいなのでまだまだであろう.いまの部屋で冊数を五倍にしたら,文字通り足の踏み場はなく,とうてい生活ができなくなることは間違いない.将来的には書庫が欲しいと思っている.

 

本好きの不幸のひとつは,つねに興味があらゆる方向へ広がっていくことにあるだろう.この運動はある本のリファレンスからまた別の本,そしてまたリファレンスへと,留まることを知らないものだ.全体への志向とでも言おうか.人間の幸せの一端は,なにかに「ハマる」ということが担っている.拡散と集中とのあいだでうまい収まりどころを見つけなければならない.読むことが拡散的である一方,書くことは集中的であるような気がする.一般的に無からなにかを創ることは集中的であり,それもまた大切なことだ.

 

むかし,新聞の広告で『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズの発刊を知り,なんとなくおもしろそうだと思って買いに走って読んだところ嵌ってしまったのを思い出す.それからしばらく古書もの,愛書ものを読んでいた.『せどり男爵数奇譚』などの,古本マニアの狂気じみた生態を垣間見る古書ミステリもよいのだが,もっとしみじみとした,本好きの悲しい性癖を感じないわけにゆかないような作品もまたよい.古いものだとフローベール『愛書狂』がもっとも有名であるような気がするが,わたしのお気に入りはアナトール・フランスシルヴェストル・ボナールの罪』である.同好の士は,手にとられるとなにか感じるところがあるかもしれない.

 

ところで,わたしは初版本や稀覯本には特に興味が湧かないが,古書店を巡っていてたまに安価な絶版本を見つけることができるとやはり嬉しくなる.例えば新潮文庫で挙げるなら,アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ』,マラマッド『マラマッド短篇集』,マルロー『人間の条件』などがある.

雑記,というより断片

無聊を持て余している.だんだんと日記や Twitter との区別がつかなくなってくるかもしれないが,まあそれでもよかろう.

 

家の近所の方で,プランターや植木鉢をたくさん並べて幾種類もの植物を育てておられるひとがいる.ついこの間まで葉のすべて落ちたか細い枝えだは寒々しく,枯れてしまったのではないかとすら思えたが,いまや若々しい緑色を茂らせており,その見た目の嵩の違いは驚くほどである.そういえば,街路わきに植えられているツツジは鮮やかな花を咲かせていたが,それもだんだんと萎れてきた.時の経つのは早い.田舎育ちのわりに草木の名前をたいして知らないのは恥ずかしい気がするので,ちゃんと覚えようと思う今日この頃.

 

先日,気分が沈んでいるときにふと『暗夜行路』を引っぱり出して読み始めた.ページを繰るうちに気持ちがすーっと落ち着いてくるような,とてもよい作品である.どの一部分を切り出してきて読んでも価値があると感じられるような,そういう小説が好みだ.プロットあるいは内容がおもしろいと言われるような作品はだいたいそんなにおもしろくはない.筋に少しでもリアリティの欠如が感じられるとすぐに醒めて投げ出したくなってしまう.「深さ」や「全体」はたいてい胡散臭いもので,より大切なのは「表層」や「部分」のほうだ.

 

ひとと会うのは重労働だ,会う前から疲れている.誰かと相対していて,相手のちょっとした仕草や振る舞い,発話の断片などに嫌悪そして失望を覚えることもあるだろう.わたしは厭な人間なので,ひとの長所よりも気に障るところばかり目につくのだ.しかし,そうしたことからすぐに,内心で相手を切り捨ててしまうことは避けたほうがよかろうと思う.ある程度の期間は付き合ってみないことには,人間のことなどわかるものではない.簡単に割り切らないこと.それにわたしは,なにかもっと根っこのところで,どうしても人間が好きな気がする.

 

話題の『リズと青い鳥』を観た.初見のときはやや引き伸ばしすぎではないかと感じられたが,二回目の鑑賞では強く印象に残った.儚げな画がとても作品に合っていてきれいだし,その動きも感情を語りだすよう非常に繊細に作られている.例えばみぞれの髪の数本が浮いている無頓着な感じや,横に垂れた髪を触る癖など,こちらに訴えかけるものがある.みぞれは周りに無関心なようでいてその実よく見ており,真似するのが好きである.本作では図書委員とのくだりや「ハッピーアイスクリーム」であろうが,そういえば本編でも,大会後に握りこぶしを仲間と合わせるのにはまっていたのではなかったか.オーボエのソロも圧倒されるものがあった.ヴァイオリンではないが,まさに「節ながき啜泣」のごとく歌い上げる,彼女のその表情は物悲しげに映った.

 

都美術館のプーシキン美術館展へ足を運んだ.けっこう楽しめたし,図録の装丁もお洒落で,ロシアに関連するグッズも並んでいたりするのでおすすめである.ところで,わたしはセザンヌを見ると小林秀雄『近代絵画』とメルロ=ポンティ『眼と精神』が頭に浮かんでくる.同時代のルノワールが明朗な社交家であり,そして若く美しい女性の身体を豊穣なる色彩に描いたのと対照的に,セザンヌは大の人間嫌いで気難し屋,その求めるところはモチーフの本質へと内向的にずんずん下っていく.この画家の描こうとしたものはいったい何なのか,そのいわく言い表し難い様相はいかにも分析好きな批評家や哲学者を惹きつけそうである.後者の扉には次の引用がある(みすず書房より).

「私があなたに翻訳してみせようとしているものは,もっと神秘的であり,存在の根そのもの,感覚の感知しがたい源泉と絡みあっているのです.」

J・ガスケ『セザンヌ』 

この詩人ガスケによる画家の回想録は,小林も折に触れて引いている.分析の糸口としては,まず画家自身の言葉に耳を傾けなければならないだろう.この機会に岩波文庫版を買ってしまおうと思ったのだが,なんと絶版になっており,Amazon ではプレミアがついている.本は少しでも欲しいと感じたときが買いどきである.

「人薬」の験あらたか

ひとと会うとたいがいはなんともいえない居心地の悪さを覚えるわたしであるが,そのぶんたまには感動するほどの出会いもある.これほどに気分がよくてはしゃいでいるのはほんとうに久しぶりかもしれないので,書き留めておくのも悪くないだろう.「人薬(ひとぐすり)」というのは精神科医斎藤環が著書でよく持ち出す概念だが,よかれ悪しかれやはりひとの精神に大きな影響を与えるのは同じひととのやりとりなのであろう.

 

いつも通り虚無を煮詰めたような朝を迎え,晴れやかな空のもと最終日であるらしい池袋西口公園の古本市をさまよって子規の歌集など手にとっていたが,ひょんなことから友人とカフェで作業することになった.これはどうでもいいことだが,彼は首にチョーカーを巻きヘットフォンをかけている.ひとがひとを判断するのに第一印象は極めて重要な材料となるのだから,身なりによる差別化は有効な手段であると,いたって当たり前なことを今更に納得する.わたしもブログの記事をプリントしたTシャツを着るべきかもしれない.あと,もっとどうでもいいけれど,彼に「おまえ声出てなくない?」と言われてしまった.ほんとうにひとは声の出し方を忘れるのである.

 

閑話休題.差し出がましいことだが,彼が別の友人ふたりとご飯に行くというのにご一緒させてもらうことにした(いつでも人恋しいので).一抹の不安と期待を抱えつつ実際に話してみると,それぞれ煙草を喫むひとと三島を好むひとであったので,ごくごく自然に信頼することができた.わたしの乏しい経験に照らして,喫煙者と三島を読むひとにろくなのはいない.急いでつけ加えるが,これはもちろん褒め言葉である.あまり内容を詳らかにはできないのでもどかしいところだが,久方ぶりに邪悪で愉快な会話ができて数ヶ月ぶんは笑えた.あるひとの見た目から受ける印象が,話すにしたがって明らかになる内面からのそれと著しく乖離していくのを目の当たりにするのは実におもしろい体験である.もちろんこれはわたしの側からの勝手な像の構成にすぎないことは承知しているが,今日わたしは『禁色』の南悠一のごとき人間に出会ったような気がしたのだ.少なくともわたしのこの感動そのものは錯覚ではありえないのだから,それはそれで大切にするとしよう.

 

「生きていればなにかしらいいことがある」などというのは虚言だと信じているが,生きていれば存外いいこともあるらしい.とりあえずしばらくは生きていてもよさそうだ.あと,もう少し活動的になりたい.終わり.

吉本隆明『エリアンの手記と詩』

軒場の燕の掛巣などを

珍らしげに確かめていたおまえの影よ!

 

おまえは何かを忘れてきたように

視えたものだ!

抱えこむような手振りで

けれど何も持つてはいなかつた

あずけるような瞳で

けれど何も視てはいなかつた

それから

亀甲模様の敷石によろめいたりして

おまえの肢は重たそうだつた

 

誰も知らなかつたろう

あふれるもの想いが

おまえの影を浸していることなんか

風が思いがけない色彩をして

おまえを除けていつたことなんか……

 

いつか友人にこれを薦めたことがあったが,酒の席であったし,たしか夜通し飲んでいたはずだからどうせ憶えていないであろう.ここに書き留めておけばそのうち目に触れることになるだろうから,都合がよい.面と向かって以前にも一度したことのある話をくり返すのは間が抜けている.

 

 本作は戦後詩壇を代表する詩人である吉本隆明の,最初期の長篇散文詩である.くり返し読み込んだ作品なので,愛着がある.これを読まれる同年代の方々に自信をもって薦めたい.わたしは吉本隆明の詩が好きで,まえから詩全集を手元に揃えたいと思っているのだが,費用と置き場所のことを考慮するにいまだ果たせずにいる.詩を紹介するにあたって下手な解説を添える愚を犯したくはないが,本作ならばいささかやり易かろうと思われる.詩であることに間違いはないのだが,読んでいくとストーリーがあるということが明確にわかり,なかばは小説のようでもあるのだ.上に引いたのは主人公エリアンが最後にものする詩の一部で,いわば「詩中詩」である.

 

本作はとにかく暗い,どうしようもないほどに暗い.まったくおどけたところもなく,まじめで思い詰めている.若き日の詩人が,絶望と深刻さのどん底で綴っているような印象を受ける.ある程度,吉本本人の遍歴に重なるところもあるようだ.思いをのせた硬質で怜悧な言葉は,壮烈にひたむきさや切実さを伝えてくれる.全体を総合すると一種のビルドゥングスロマンのような構成になっており,わたしの感覚ではヘッセの小説,例えば『トニオ・クレエゲル』や『デミアン』などと雰囲気が似通っているように思える.

 

十六歳のエリアンは,イザベル・オト先生のところで詩を教わっていて,そこで一緒のミリカを秘かに恋している.「如何に細い計算をしても意識は死の方へ流れてい」くような気質のエリアンは,オト先生もやはりミリカを恋していることを告げられ,ある日ついに小刀で咽喉を突くが,死にきれない.病院で目覚めたエリアンは,傷が癒えたら都を離れることを心に決め,退院すると遠い北国へ旅立つ.そこで孤独を噛み締めつつどうにか暮らすうちに成長したエリアンは,都のミリカへ便りを送る.オト先生からの年長者としての便りと,病を得たミリカからの便りが最後に添えられている.先生の慈しみにあふれた助言は胸を打つものであり,とくに「イエスではなくパウロのように生きなさい」というくだりは印象深い.気に入った箇所を引いているときりがないし疲れるので,オト先生の詩をだけ引用して終わろう.

 

お聴きよ!

おまえの微かな魂の唱……

夜更けの風の響きにつれて

さだかならぬ不安を呼び寄せている

 

〈エリアン!〉

みしらぬ愛の戦きをいつ覚えた?

未だ言葉も識らないのに

どうやつて伝える?

 

さりげない物語が

異様なおまえの重たさを運んで

いつたどり着くのか

 

なりわいも苦しさも知らぬ

ひとりの少女のところへ!

 

〈エリアン!〉

おまえは未だわからないのだ

おまえの求めているものが

天上のものか地にあるものか

 

それから

おまえの想うひとりのひとが

はたして

そのように美しい魂なのか……

死ぬことを持薬をのむがごとくにも我はおもへり心いためば

自殺を思うことは,すぐれた慰めの手段である.これによってひとは,かずかずの辛い夜をどうにか堪えしのぐことができる.

ニーチェ善悪の彼岸』信太正三訳 

 「使やしないよ.僕は使やしない.あの時の話のように,ただ自由を持っていたいだけだ.これさえあればいつでもと思うと,これからの苦しみに堪える力になりそうなんだ.そうだろう.僕の最後の自由というか,唯一の反抗というかは,それしかないじゃないか.しかし,僕は使わないと約束するよ.」

川端康成『山の音』(青酸加里についてのくだり)

 

さいきんとみに思うが,ひとと面と向かって自分の考えるところや思うところをわかってもらうことほど難しいことはない.ほとんど絶望的といってもいい.なにかを期待しているとほぼ間違いなく裏切られる(だから,期待しない訓練をせねばなるまい).やはり執拗に詰めて文字として書くほかなさそうに思われる.書くこととはなにか,さまざまに箴言めいた言説はあるが,そのひとつとして「復讐」であるというのがあるのは,間違いないであろう.つけ加えて,書くこととはすぐれて「迂回すること」でもある.

 

どうでもいいこと.わたしは部屋の掃除が苦手であるが,立つ鳥跡を濁さずというやつで,これが終わったら死ぬのだと真剣に考えているときれいに片づけられることがわかってきた.これを読まれる方々もライフハックとしてぜひ実践してみてほしい.しかしこれも,自らに生命保険をかけてしまうのと同じ態度であるから弱いといえば弱いけれど.

 

あるとき寝入ったまま二度と目が覚めなかったならばどんなによいだろうと思うことはしばしばあるであろう(?).ここのところ愉快な夢を見ることが多い(メモをとろうにも内容は起きたそばから揮発していく).往々にしてわたしには夢の世界のほうが魅力的に映る.

 

さて,自殺を想うことだった.そういえば,いぜん睡眠薬をしこたま呑み下した知人がいたけれど,けっきょくそれは未遂に終わった.今時は芥川のようにバルビタールに溺れて死ぬこともできないから世知辛い.自殺というとわたしには入水が頭に浮かぶ.おそらくそれは,梶井基次郎『Kの昇天―或はKの溺死』の印象深い抒情と,いつかとっぷり日の暮れた由比ヶ浜を散歩したときの,あの見晴るかす限りの漆黒とを合成したものに惹かれるところがあるからであろう.これは小品であるが,目に浮かんでくる情景は美しい.砂浜は満月によって蒼く照らされ,海には夜光虫が光っている.そこで「K君」は,行きつ戻りつしながら自分の月光による影をしつこく観察しているのだ.そうしてじっと見つめていると,「見えて来る」ものがあるという.青空文庫より引く.

自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を溯って、それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。

そのときは表情を緩め,いくらやっても「おっこちる」のだと彼は言うが,遂にあるときすっかり昇っていってしまった,というわけだ. 魂が月へ近づくにつれ,身体のほうは海へと入っていく.

 

この記事は仙台への小旅行先で宿泊したホテルで思いついた.わたしはどうもホテルのよく効いている暖房が得意でない.別に暑いわけではないが,無性に不安になるのだ.かといって切ってしまうと寒い.明け方までろくに眠れず,気が触れそうになりながら呻いていたが,ふとだいたいこういうことを書こうと浮かんだので,急いでメモをとった.気が触れそうになることにも効用はあるのかもしれない.タイトル(啄木『一握の砂』より)をこんな風にしておくと,そもそも主な路線があいまいなので,なにを書いても脱線の感があまりなくて気が楽である.

金井美恵子『愛の生活・森のメリュジーヌ』

 

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

 

 内容紹介:

《わたしはFをどのように愛しているのか?》との脅えを透明な日常風景の中に乾いた感覚的な文体で描いて、太宰治賞次席となった19歳時の初の小説「愛の生活」。幻想的な究極の愛というべき「森のメリュジーヌ」。書くことの自意識を書く「プラトン的恋愛」(泉鏡花文学賞)。今日の人間存在の不安と表現することの困難を逆転させて細やかで多彩な空間を織り成す金井美恵子の秀作10篇。

早稲田文学2018年春号で,金井美恵子のデビュー50周年記念特集「金井美恵子なんかこわくない」が組まれていた.19歳であの『愛の生活』を書いてから50年なのかと,20代なかばのわたしが思うのもおかしなことだろうか.そういうわけで,鮮烈な処女作を含むこの初期短篇集を本棚から引っぱり出して読み返してみて,まったく色褪せることなくとてもよかったので,紹介してみたい.とはいえ,わたしはこの本についてどうこう論じられるほどの能力を持ち合わせないので,いくつかの作品について好みの箇所を適当に引用するに留める(傍点はボールド体で代えた).

 

  • 『愛の生活』

一緒に暮らしているFは朝いつものように仕事へ出かけたが,職場へ電話をしてみると休んでいるという.ありふれた物のありようや自他の行動を執拗に観察してはいいようのない不安に襲われる,そうしたどこか気だるい日常を描く.自らのすることを,あたかももうひとりの自分がつねに点検しているような感覚.颯爽とした硬質な文体は読んでいて実に小気味よく,格好がいい.書き出しを引く.

一日のはじまりがはじまる.

昨日がどこで終ったのか,わたしにははっきりとした記憶がすでにない.

昨日がどんな日であったかを,正確に思い出すことがわたしには出来ない.枕元の時計を見ると十時だ.昨日の夕食に,わたしは何を食べたのだったろう?昨日の夕食に,わたしが食べたのは,牡蠣フライ,リンゴとレタスのサラダ,豆腐のみそ汁だった.

以下,引用.

幸福はいつまでたっても幸福のままだ,という逆説的な不幸が現れて来る時,突然崩れ去る幸福な日常というイメージでしか,日常性を捉えることの出来ない人は,幸福のモロサを提出してみせたのではなく,事件が起って事態は一変するだろうという風に考える,一種のロマンチストでしょう? 

わたしはバッグにノートと万年筆をしまい,伝票を摑むと階段を昇って,会計場まで歩いて行く.カウンターのあたりには,いつも色とりどりの服を着た華奢な感じのウエイトレスが何を考えているのか面白くなさそうな顔でつっ立っている.アリガトウゴザイマシタ,という声に送られるのが,わたしはいやだ.わたしはいつも彼女たちに軽く会釈をしてしまう.その会釈に彼女たちが気づかないことを,わたしは軽く頭を下げながら願っている.

わたしがスパゲッティ・ミート・ソースを特に嫌いなのは,一つにはあの回虫を思い出すからかもしれない.ゆであげたばかりの,スパゲッティの温いぬめりは,あの回虫の隠花植物的な光沢に似ている.

わたしが見ているのに気づくと,若い男は少し狼狽え気味に口許でフォークをとめる.

わたしは彼を見て,回虫的に微笑を浮かべてやる.鈍感な微笑の返礼.彼はわたしの考えていることも,微笑の意味も知らないのだ.

―回虫って御存知?

男は思い出したように,スパゲッティの皿を覗く.

―似てるわね.それ.

彼は最後の二,三口ほどのスパゲッティを残したまま,物も言わずに席を

立つ.わたしは悪趣味だろうか?

 

これは引用だけ.

あの人の微笑の中には無数の意味が充たされていて,誰もそのすべての意味を完全に知ることは出来ない.彼女自身にとってさえ完全に知ることは出来ないだろう.ぼくたちは鏡の前に立ち,腕を彼女の胴と胸に巻きつけ,顎を彼女の肩にのせ,微笑みに充たされた意味をひとつひとつ発見して行く.彼女の微笑の最大の意味は愛であり,その中にしのび寄って来る死,悪意とからかいの針,優しさ,苦痛,空虚,悲しみ,それから燃えあがる意志―.ぼくが微笑の意味をひとつひとつ言うたびに,彼女は身体を小刻みに震わせて笑った.そんな時あの人の身体は手の中から逃げようとしてもがく子猫のように生々と弾み,腕の力を強めなければ,あの人はぼくの腕をすり抜けて笑いながら走っていってしまいそうだった. 

彼女は眼をさまし,微笑みを浮べてぼくを見つめ,〈あなたは夜の間中,うなされていたわ.きっと悪い夢を見ていたのね?かわいそうに〉と言った.〈やっぱり,夢だったんだ.あなたがいなくなってしまうなんて,悪い夢に違いないもの〉彼女はぼくの髪を愛撫しながら言った.〈わたしはあなたの前からいなくならないわ.あなたがわたしの全てを知ろうとしないかぎり,わたしたちは一緒よ.いつも,いつも,永遠に二人だわ〉ぼくは悪い予感に全身を貫通され,震える声で彼女を問いつめた.〈あなたの全てを,ぼくは知りたい.どうして知ろうとしてはいけないのです?〉彼女は初めて浮べたきっとした表情と厳しい口調で答えた.〈あなたはわたしを愛しているのでしょう.わたしを愛するということは,あなたの眼がわたしだけを見るということ,わたしにしか視線を注がないことだと最初に言ったはずです.その為にあなたは無数の眼をすてて,森へ入っていらしたはずです.それに,あなたはまだわたしの全てを知る資格も権利も持ってはいないわ〉 

 

  • 『兎』

「あたし」の父親は食用の兎を飼っていて,月に二度,その一匹を絞め殺してはごちそうを作っていた.父親と「あたし」以外の家族はこの儀式を忌むべきものとみなし,ふたりは晩餐を物置小屋の小さなテーブルで行っていた.ある日,他の家族が忽然と姿を消してより,ふたりは外へ出かけることもせず,来る日も来る日も兎料理をお腹いっぱいに食べては好きなだけ眠る生活を送るようになる.父親はますます太り,体調は悪化し,いつの間にか兎を殺す役目は「あたし」に回ってきた.「あたし」の感覚は次第に常軌を逸していく.

最初はとてもいやだったのですが,すぐにあたしは,殺すことも楽しみの一つだってことを理解できるようになったのです.まだあたたかい兎のお腹に手を入れて,内臓をつかみ出す時は幸福でした.肉の薔薇の中に手をつっ込んでいるみたいで,あたしはうっとりして我を忘れるほどでした.指先に,まだピクピク動いている小さな心臓の鼓動が伝わったりする時,あたしの心臓も激しく鼓動しました.もちろん,兎を抱いて首を絞める時にも,内臓に手をつっ込むのとは違った快楽がありました.首を絞める時の快楽をもっと強烈に高めるために,あたしはいろいろな方法を試してみたものです.兎は耳をつかんでいるととてもおとなしいし,あの柔らかでまっ白なくりくり太った生き物を自分の手で殺すのは,とても残酷なことのように思われたのですが,だんだんそれが甘美な陶酔に充ちた快楽に変って行くのが,はっきりわかりました.手の力を少しずつ強めて行くと,兎は苦しがって脚を蹴るものだから,それがあたしのお腹にあたり,とても興奮しました. それから指の中で兎の首が完全に折れたのがわかり,それと同時に激しい痙攣が兎の身体をかけぬけるのが,あたしのお腹に伝わるのです.はじめのうちは膝に兎をのせて絞め殺していたのですが,胸に横抱きにして,脇腹に腕を思いきり押しつけるようにして殺すやり方もためしてみました.これもわりあい感じがよかったのですけれど,ちょっと油断すると腋の下からするりと兎が逃げてしまうので,あまり良い方法ではありませんでした.結局,あたしが一番満足を味わえた方法は,兎の身体を股の間にはさんでおいて,首を絞める方法でした.これはかなり気に入って,しばらく続けていたのですが,そのうち,裸の脚が直接兎の毛皮に触れていたら,もっと気持がいいだろうと思いつき,いつもは殺す時ブルージンズをはいていたのをスカートにして,スカートをまくりあげて股の間に兎をはさんでみたのです.そして,兎殺しの血の秘儀が全裸で行なわれるようになるまでに,長い時間は必要ではありませんでした.