umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

猫について

来れ,わが麗しき猫,わが戀の炎ゆる心に.

       汝が趾の爪をかくして,

金銀と瑪瑙の混れる美しき眼の中に

       わが體を投入れしめよ.

ボードレール『猫  LE CHAT』,鈴木信太郎

 

学部を卒業してこのかた,友人は減ることこそあれ,増えることはない.一時は人間と積極的に関わろうと外へ出かけていくこともあったが,たいていは笑顔で解散したのち,帰り道でひとり後悔する羽目になった.ひとと会って話すことについての後ろ暗い思い出は徐々に積もっていくのに,予定を立てる段階ではいつでも明るい期待をばかりしてしまうのはなぜなのだろう.ともかく,顔を突き合わせてあれこれ喋るべき相手は慎重に選ばねばならないのだと思う.これから新しく関係を築くにしても,初対面のそののちまで連絡をとるほどに目の前の人間に興味が持てるかというと,あまり自信がない.ときには気質の似たひとに思いがけず巡り合えることもまた,間違いないことなのだけれども.とかく同年代と話が合うことが少なすぎる.

 

日ましに募る寂寥で人生がいよいよにっちもさっちもいかなくなったら,猫を飼いたいと,ここのところそんなことを思ったりもする.それも能うかぎり恩知らずなやつがいい.小学校からのある友人は無類の猫好きであって,彼の家にはいつも幾匹かの猫がいて,ときたま遊びに行くと触れ合う機会があった.いまではお互い地元を離れてしまったから,ここ数年はすっかりご無沙汰であるが.

 

どうして猫が好きかといえば,小説にはときおり登場してくる(そして現実には絶対に存在しない!),孤独で,自由で,物静かで,どこか陰のある,といった一群の典型的な形容を受ける人物,にそっくりであるように思われるからである.わたしはどうも,他人に興味のなさそうなひとを好んでしまう性癖であるらしい.それに猫は人間と違って喋ったりなどしない.喋れるのだから,喋るべきだ,というような了解は息苦しい空気を形成する.

 

いま住んでいる家の近所にはけっこうな数の野良猫がいるようで,ふらふら歩いているとアスファルトのうえに佇んでいるのを見かけることが多い(実に,猫は佇んでいるだけでも詩的だ).近づくと当然のことながら(江の島の猫ほどひとに慣れていないので)逃げられてしまうが,ついつい何度も追いかけてしまう.俊敏に走り去っては少し離れたところで止まりこちらをじっと窺う,あの小憎らしい表情が好きである,しかし決して追いつかせてはくれない.そういえば,映画『耳をすませば』の雫は,電車のなかでシートの隣に飛び乗ってきた太った不思議な猫に惹きつけられ,彼を無我夢中に追いかけるうちに地球屋へとたどり着いたのであった.この出来事は雫の言うところの「物語」の「始まり」であったわけだ.ちなみにこいつは,自分に向かって吠えかかる飼い犬を,門扉の上から尻尾を垂らして見物するような「性悪」である.猫を追いかけるというのは魅力的なモチーフだといえよう.

 

古今東西,芸術家や文学者にも猫をこよなく愛するひとたちがいる.三島もそうとうな猫好きであったようだ.

私は猫が大好きです.理由は猫というヤツが,実に淡々たるエゴイストで,忘恩の徒であるからで,しかも猫は概して忘恩の徒であるにとどまり,悪質な人間のように,恩を仇で返すことなどはありません.

―『不道徳教育講座』「人の恩は忘れるべし」

あの憂鬱な獣が好きでしゃうがないのです.芸をおぼえないのだっておぼえられないのではなく,そんなことはばからしいと思っているので,あの小ざかしいすねた顔つき,きれいな歯並,冷たい媚び,なんともいへず私は好きです.

―猫「ツウレの王」映画

 「犬」という言葉が使われている,対照的な一節も引いてみよう.

何かにつけて私がきらひなのは,節度を知らぬ人間である.一寸気をゆるすと,膝にのぼつてくる,顔に手をかける,頬つぺたを舐めてくる,そして愛されてゐると信じきつてゐる犬のやうな人間である.女にはよくこんなのがゐるが,男でもめづらしくはない.

―「私のきらひな人」

愛し愛されたいのであるが,いざ愛されてみると強烈な違和感とともに即座に相手を切り捨ててしまう.三島は,自身が愛されるに足ると考えるには自己を嫌悪しすぎており,相手について愛するに足ると考えるには自己を愛しすぎている.そういうわけで,彼は彼を決して愛さない孤高の猫を追いかけ続けることを選ぶのである.