umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

本好きの幸と不幸

この記事であるが,ちょこちょこいじるうちに,書き始めてからとうとう三ヶ月も寝かせてしまった(時季のことなのに!).いつまでも下書きで引っ張るわけにもいかないので,そろそろ公開する.

 

京都で,みながよくやるように持て余した時間を使って鴨川の河川敷を歩いていた.なにせ寒かったものだから,ひとの姿もまばらであった.わきの小さな流れの底に凧がへばりついて,その尾がひらひらと揺れていた.並行して流れる(あの『高瀬舟』の)高瀬川沿いをしばらく散策したりもした.川のある街というのはすてきではないかと思う.粉雪の舞うなか永観堂へ参ったりもしたが,ぼんやりと水の流れ落ちる音が聞こえ,奥まったほうへ歩いていくと,小さな滝があったのだった.ほかに誰もおらず,しばらくその前でぼーっと佇んでいた.水の流れは定常であっても平衡ではない.『方丈記』を引くまでもないが,そこには動き,場所を変え続けるものの新しさ,絶え間ない更新性のようなものが感じられる.わたしはわたしの外からやってくる新しさに,いつでも揺さぶられるような気がしている.そういうわけで,わたしは河川に惹きつけられるのかもしれない.

 

気だるい休日になにかしら行動を起こすには,一定の気力を必要とする.正直なところ,本を開くのにも一苦労するのだが,それでも,いったん読み始めてしまえばわりと入っていける.わたしには,言葉のそのままの意味で,自分にはなにもないという感覚が根強い.それゆえ,外部から摂取する文章は新鮮さをもってわたしに迫り,強く影響を与え,わたしをその度ごとに様々に異なった心持ちにしてくれる.それは何度読み返した本であろうと変わることはないし,きっと,すべて憶えた本でもそうではないだろうか.言葉がひとの認識を縛る力ほど強力なものもない.読んだ言葉は,すっかりわたしを満たす.「ゆく河の流れ」に臨むときと対照させても,そう大きく外れてはいまい.その感覚が好きで,わたしは本を読む.

 

本のことについてなにか書いてみたいと,いつも漠然と思っている.定義から始めるならば,ここでいう本好きとは,日に日に部屋の空間を書物が浸食していき,そのうち主人の寝る場所がなくなるのではないか,終いには(紀田純一郎『古本屋探偵の事件簿』の「書鬼」のごとく)その重みで家がどうかなるのではないかなどと考えているひとのことである.ちなみに,もちろん条件は建物によってまちまちであろうが,そんなに頑強な建築でないなら,床が抜けることを危惧し始めるのは五千冊くらいからであるらしい.わたしなどもっているのは文庫ばかりであるし,(たぶん)未だ千にも満たないくらいなのでまだまだであろう.いまの部屋で冊数を五倍にしたら,文字通り足の踏み場はなく,とうてい生活ができなくなることは間違いない.将来的には書庫が欲しいと思っている.

 

本好きの不幸のひとつは,つねに興味があらゆる方向へ広がっていくことにあるだろう.この運動はある本のリファレンスからまた別の本,そしてまたリファレンスへと,留まることを知らないものだ.全体への志向とでも言おうか.人間の幸せの一端は,なにかに「ハマる」ということが担っている.拡散と集中とのあいだでうまい収まりどころを見つけなければならない.読むことが拡散的である一方,書くことは集中的であるような気がする.一般的に無からなにかを創ることは集中的であり,それもまた大切なことだ.

 

むかし,新聞の広告で『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズの発刊を知り,なんとなくおもしろそうだと思って買いに走って読んだところ嵌ってしまったのを思い出す.それからしばらく古書もの,愛書ものを読んでいた.『せどり男爵数奇譚』などの,古本マニアの狂気じみた生態を垣間見る古書ミステリもよいのだが,もっとしみじみとした,本好きの悲しい性癖を感じないわけにゆかないような作品もまたよい.古いものだとフローベール『愛書狂』がもっとも有名であるような気がするが,わたしのお気に入りはアナトール・フランスシルヴェストル・ボナールの罪』である.同好の士は,手にとられるとなにか感じるところがあるかもしれない.

 

ところで,わたしは初版本や稀覯本には特に興味が湧かないが,古書店を巡っていてたまに安価な絶版本を見つけることができるとやはり嬉しくなる.例えば新潮文庫で挙げるなら,アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ』,マラマッド『マラマッド短篇集』,マルロー『人間の条件』などがある.