umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

九月の初め,雨に冷えた日

なにをしていても現実感が乏しく,ただ底深い悲しみがすっかりわたしをひたしているような感じがしてだめなことが多い.堂々巡りの考えをいったん保留にしておいて,気力を絞ってとりあえずちゃんとした食事を摂り,小康の安寧において机に向かって筆を執るというのは,そんなに悪いことではないように思われる.頭のなかだけのことでなく,実地に手を動かすというひとつの作業を通して固着させていくこと,そして(ディスプレイにしろノートにしろ)白い地が文字で埋まっていくことの素朴なたのしみは,たぶん厳然としてある.どんなに甲斐のなさそうな考えも,ある量の文章になって,ページを蕩尽することができるというのは,けっこういいことである.まあ,書くまえにあったかもしれない甘美さのごときものは,えてして文字の形をとるにつれて卑近な現実感をまとっては失墜してゆくから,それはそれでひとつやるせないことなのだけれど(そうして生活をしなければならない,人間は習慣づけられた生活をして元気になるのだ).日記にはほとんど単純作業の愉悦と似通うところがあるのだが,ブログとなるともうすこし思考の強度が必要になる.

 

どうやら夏風邪をこじらせたらしい.わたしは蒸し暑いのも苦手だし,冷房や扇風機にさらされるのもそんなに得意でない.もともとの予定をキャンセルさせてもらって,しばらく臥せっていた.眠ることだけは得意なので,ずっと寝ていられる.ときおり降りしきる強い雨や雷鳴の音を,ぼんやりした意識で聞いていたような気がする.なんでも関西の実家に帰った友人のところに数人が集ってバーベキューをしたり酒を飲んだり花火を見たりしているらしいが,翻ってわたしのしたことといえば枕頭にあった『風の歌を聴け』をぱらぱら読んでいたくらいのものだ.まあ,夏の終わりにはふさわしい本ではないかと思うし,それはそれでそんなに悪くないのだけれど.いつでも,ただ活字を読んでいるだけでもたのしいというような純粋な状態でいたい.とても有名だが,書き出しを引いておこう.

「完璧な文章などといったものは存在しない.完璧な絶望が存在しないようにね.」

 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った.僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが,少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった.完璧な文章なんて存在しない,と.

 しかし,それでもやはり何かを書くという段になると,いつも絶望的な気分に襲われることになった.僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ.例えば象について何かが書けたとしても,象使いについては 何も書けないかもしれない.そういうことだ.

 8年間,僕はそうしたジレンマを抱き続けた.――8年間.長い歳月だ.

 もちろん,あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り,年老いることはそれほどの苦痛ではない.これは一般論だ.

 20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと,僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた.おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け,欺かれ,誤解され,また同時に多くの不思議な体験もした.様々な人間がやってきて僕に語りかけ,まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ,そして二度と戻ってはこなかった.僕はその間じっと口を閉ざし,何も語らなかった.そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた.

 

 


映画『ペンギン・ハイウェイ』 予告2

さて,別のこと.先日は話題の『ペンギン・ハイウェイ』を観てきた.とくに森見登美彦は好きなわけではなく,宇多田ヒカルの曲が聴きたかったというのが大きいのだが.なんだか都合のいい女がふたりも出てくるのがよくわからなかったし,二時間あるなかで筋も中だるみしている感じが否めなかったのだが,それでも最後の見どころはおもしろかったので,けっきょくはよしとなっている.やはりアニメーションにおいて視覚を愉しませる力はとても強い,ほとんど暴力といってもいいかもしれない.

 

本作であるが,たぶんいろいろなオマージュが仕掛けられている.アオヤマ君がスズキ君に向かって口にする「スタニスワフ症候群」や,草原に浮かぶ謎の水球を〈海〉と呼んで研究するあたりはレムの『ソラリス』であろう(タルコフスキーの映画を家で観てうとうとせずに通すのは,わたしにはなかなか難しい).アオヤマ君とお姉さんがチェスを指す「海辺のカフェ」は,そのまま『海辺のカフカ』であろう.それから,アオヤマ君とウチダ君が街を流れる川の源の突き止めようとして,最後にそれが街をぐるっと循環していることを発見するが,そのことを記した手書きの地図は,『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の,あの壁に囲われた印象的な「世界の終わり」の地図と重なるようにわたしには思えた(新潮文庫のものがいい).これには一角獣も出てくるし.そういうわけなので,ちゃんと小説のほうも読んで考えようと思い立ったのだが,これがまったく先へページを繰ろうという気にならなくてダメなのだ.一般的に,読みたくない本よりは読みたい本を読んだほうがいい,よってこの件は終わり.最後に宮沢賢治の『詩ノート』より,関係するようなしないような一篇を引いておく.

青ぞらのはてのはて
水素さへあまりに稀薄な気圏の上に
「わたくしは世界一切である
世界は移ろふ青い夢の影である」
などこのやうなことすらも
あまりに重くて考へられぬ
永久で透明な生物の群が棲む

 

 

また違う話.八月の終わりに家族で鳥取と島根へ旅行をしてきた.わたしは案外まめに(人間以外のものの)写真を撮る性質であるが,あとでその雑多なカメラロールをきちんと整頓してアルバムを作ったりできるほどにまめではなく,けっきょくクラウド上に堆く積もった大量の写真は下層のほうから忘れ去られていく.さしてあとで使うわけでもないのに,必ず同じものを数枚は撮ってよいものを選ぼうとする癖が乱脈さをより増しているのは間違いがない.それでも,今回は両親に頼まれて写真をてきとうにまとめて送ったので,だいぶすっきりした.一枚貼っておこう.羽田から鳥取コナン空港(すごい名前)へ向かう機内から富士山と富士五湖がきれいに見渡せた.窓側でないとなかなかこうはいかない.

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この旅行のあいだに,宿でさくらももこの訃報に接することとなった.わたしは昔から『ちびまる子ちゃん』のファンなので,なんとも残念な気持ちである(ちなみに,友人から同じ作者による『ちびしかくちゃん』というのを薦められて読んだが,強烈でした).いま,アマゾンのプライムビデオでアニメの第一期を観ることができるが,原作のアクの強いエピソードがそのまま見られてたいへんおもしろい.それにしても文通とかっていいなあと思いませんか.文通だよ文通,昭和だなあ.もう平成も終わろうというのに.わたしも文通とは言わないまでも長いメールのやりとりなどがしたい.誰かやってくれませんか.

 

追記.旅先で購った本を紹介しようと思っていたのに忘れていた.

 一冊目.鳥取県北西端から日本海へ伸びる弓ヶ浜半島のそのまた先端,境港市水木しげるロードにて.『高野聖』と『黒猫』のコミカライズも入っている.

 二冊目.四季折々に美しい姿をみせる日本庭園で有名であるらしい島根県足立美術館にて.横山大観もよかったけれど,個人的に榊原蘇峰がとても気に入ったので,この小さな図録を.

足立美術館ミュージアムショップ / 榊原紫峰