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フェルナンド・ペソア『不穏の書・断章』

誰かが本の話を始めるとき,そこはもはや現実の場ではない.舞台の上といってもいいだろう.どんな荒唐無稽なことがらがあけすけに語られてもいいのだ.だが,内容を噛んで含めるように説明してしまってはたぶんに現実の側に肩入れしているようでいまいちおもしろくない.それに,「噛ん」だらその瞬間に立ち消えてしまう綿菓子のようなものがわたしの好みでもある.引用には妥協がない,それは隔絶した向こう側だ.一節を引いてみせることは,あるいは自らを戯曲の台詞に託して表明することかもしれない.そこでは演技は許可されていて,かつ心から役者の叫びたいことでもある.どうせなら思い切りよく演じてみせるほうが見栄えがいい.そういうときに観客は芝居を褒めることになるだろう.

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

 内容紹介:

フェルナンド・ペソアの書くものは、実名と異名と呼びうる二つの作品のカテゴリーに属している。…異名による作品は作者の人格の外にある。」―別の名と別の人格をもつ書き手たちの作品群が、ペソアという文学の場で、劇的な空間を開いている。20世紀の巨匠たちの列に最後に加わったポルトガル詩人、ソアレス名義『不穏の書』と、本人名義と複数の異名者の断章を旧版を大きく増補・改訂した新編集で。

 

この本もいつから本棚に差さっているのか,忘れてしまった.まあ,そんなことをいい始めればとたんに書架の全体が珍妙なものと映る(なんでこんなに本があるんだ?).世のすべてに関して気が乗らないときに,引っぱり出してぱらぱらと読めばいいのだと思う.もとが断片の寄せ集めなのだから,どこを開いてもよいし,どこで閉じてもまったく構わない.きっといくつかの断章が(巻末で池澤夏樹のいうように)「憑く」だろう.英語だと 'enchant' がうまく当たっている気がする.

 

 ある種の隠喩は,そこらにいる人間よりもずっと現実的だ.本の片隅にひそむある種のイメージは,多くの男女たちよりもずっと鮮明に生きている.ある種の文学のフレーズは,きわめて人間的な個性をもっている.私が書いた文章のいくつかには,私を恐ろしさで凍りつかせる容貌がある.それらがあまりにも人間たちのように見えるからだ.私の部屋の壁の上に,夜になると,暗闇の中にくっきりと姿を映し出すからだ……私は彼らが大声や低い声で読んだ言葉を書き留めたのだ.その響きは――それを消し去るのは不可能だ――絶対的な外在性と完全な魂とをもっている.

 誰にでも自分のお気に入りの酒がある.私は実在するということのうちにすでに十分な酔いを見出す.自分を感じることに酔い,彷徨し,まっすぐ歩いてゆく.時間になれば,みんなと同じように会社に戻る.時間が来てなければ,河まで行って,みんなと同じように河を眺める.私は同じだ.そしてこれらすべての裏側に,私の空があって,私はひそかにその星座となってちりばめられている.私の無限をそこに持っているのだ.

 眼前のこの夜明けは世界で最初のものだ.やがて黄色へと優しく転調し,それから熱い白色に変わるあのバラ色の光線が,西の斜面の建物の上にこんな風に注がれたことはいまだかつてなかった.幾千の眼のように穿たれた窓がある建物は,生まれたばかりの光のなかへとやってくる沈黙へとその顔を捧げている.こんな時間は,こんな光は,こんな私は,いまだかつて存在したことがない.明日やってくるのは,また別のものであろうし,私の見るものも新たに作られた眼で見られるだろうし,新たな光景で満たされるだろう.

 散歩の途中で,私は完璧な文をいくつも作った.だが,帰宅すると,まるで想い出せない.これらのフレーズが名状しがたい詩情を持っていたのは,ほんの一瞬しか存在しなかったからなのか,それとも,それらがけっして書き留められなかったからなのか.

 

日記はつけなければならないが,そうと意識すると実にうっとうしいもので(勝手だなあ),ある日のぶんを書かずに寝入ってしまうこともときおりある.いつも愚痴っているが,書くべきことなどありはしないのだ,まさしく.妙に潔癖だから翌日になって昨日のまっさらなページに手をつけるが,はて,わたしは昨日,なにをしたのだ?正直にいってほとんど思い出すことができない.そんなものはほんとうにあったのだろうか.たかが十数時間まえのことがこんなにもおぼろげであっていいのか?けっこう真剣に驚くべきことにも思える.

 

ふとしたときにきわめてあいまいな,ぼんやりとした,それでいて惹きつけられるような情景が浮かんでくることがある.これはわたしがいつかどこかで現実に目にしたものか,あるいは映画のワンシーンか,はたまた浅い眠りの夢の一片か.考えれば考えるほど,夢であったような気がする.夢はそこから醒めることによって魅力を放つ.自分を夢と現実のあわいでちょうど等量ほどに折半したい.もうだいぶ幽かな存在になってきているとは感じるのだけれど.

 

本を読むのは奇妙な体験である.二十世紀のリスボンの片隅にひっそりと暮らしたひとりの男が,わたしがつい今日や昨日に感じたのと同じようなことを(それは巧みに!)書きつけているらしいのだから.いや,より正確には,それを読まなければ感じたなどとはゆめ思わなかったことを,かな.たとえ最後の一瞬まで生きることに馴染むことの叶わなかったとしても,それはそれでいいのではないか.ただ,フェルナンド・ペソアを読むことができさえするならば,それだけでも.うまく表現できないが,じっさいにページへ視線を落として読むという一回一回の行為がとても大切なことのような気がした.くり返し読むことだ.そのときどきのわたしを喜ばせる断章があることだろう.ペソアを読むと平らになれる.まっ平らでいることはけっこうすばらしい.

 

 どんな微妙な光,定かならぬ物音,香りの記憶,外部の影響が演奏する音楽のせいで,突然,道を歩いている最中に,こんな妄想が私の頭によぎったのだろうか.いま,私はカフェに入って,気ままに,急ぐこともなくそれを書き留めている.考えがどちらのほうに向かって行くのか,どんな方向にそれを向けようとしているのかもよくわからない.今日は軽く靄がかかり,生暖かく,湿っぽく,わけもなくもの寂しく,意味もなく単調な日だ.私はある感情を切実に感じているのだが,その名前がわからない.このよくわからないなにかに確かな論証が欠けているのを私は感じる.私の神経には意志がない.私の悲しみは意識の下で感じるのだ.これらの文を書いているのは――きちんと書けているとは言えないが――,別にそれを言いたいためではない.言いたいことなどなにもない.ただ私の不注意を働かせるためだけに書いているのだ.私は少しずつ,ゆっくりと,丸まった鉛筆で(削る気持ちがないのだ)ぐにゃりとした文字で,カフェでもらったサンドウィッチの白い包装紙に書いている.もっと上等の紙である必要はなかったのだし,白くさえあれば,なんでもよかったのだ.そして,私は満足している,と思う.私はゆったりと椅子にもたれかけている.夕暮れどきだ.単調で,雨も降らず,陰気で不確かな色調の光のなかに暗くなってゆく…….こうして,私は書くのを止める.理由はない.ただ書くのをやめるのだ.