umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

新年の生存報告

ずいぶん間が空いてしまい,年も明けて一月ほどになった.とうとう死んだのかと思われないためにもたまには書かないといけないような気もするのだが,なにも書く必要を感じないのだから仕方がない.なんだかここのところとても平らなのです.平らか.日記もそれなりにたいへんで,ぜんぶ以前に書きつけたことだという思いと,文字になってしまったものはなべて嘘なのだという思いとが去来してペン先がためらってしまいがちである.しかし,拙文をたのしみにしていると言ってくださるかたもいるので,折にふれてがんばりたい.

 

一週間まえの自分は自分ではないと思っている,とよく言っていた友人がいる.先日,このことについて確信めいたものが降ってきた.なるほど,昨日のわたしと今日のわたしとはまったく違う人間だ.今朝といまでも違うし,数秒まえといまでもすっかり違う.しかし当然のことながら,これを思いついて書きつけたときのわたしと,この記事を書いているわたしもずいぶん違うので,いまこの主張を読んでも字面以上のことがらが摑めているようには感じられない.ともあれ,つねになにかがさらさらと零れ落ちてゆくという点においてはどこか悲しみのまといつくふうな考えでもあるが,わたしがいつもまっ白で新しいということは,たしかに一種の救いであろう.

 

「裏切られる期待の感覚」というフレーズが日記にある.読まれない本がもっとも魅力的な本だ,というようなこと.「期待の感覚」,これはどこかで目にしたことがあると思った.そうだ,『万延元年のフットボール』の書き出しである.

 夜明けまえの暗闇に眼ざめながら,熱い「期待」の感覚をもとめて,辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする.内臓を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように,熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを,おちつかぬ気持で望んでいる手さぐりは,いつまでもむなしいままだ. 

 そして改めて目を通してみると,この晦渋な冒頭部が初めてまともに読めたという気がした.熱い「期待」の感覚!わたしのほとんどすべての行動は,これにすがりつくようにして為されるのではないだろうか.それによってようやく身体を起こすことのできるような,そういうところのもの.(ところで『万延元年』についてあれこれ書き散らしたものを永らく温めてしまっているので,いい加減に形を整えて公開しないとなあと思っています.思うだけかもしれないけど)

 

年が明けてすぐのころ,是非にと薦めてもらった濱口竜介監督の『寝ても覚めても』を友人と連れ立って滑り込みで観にいった.これはほんとうにいい映画だったのでみなさんにも観てほしい.忘れられない台詞をひとつ:

わたしはまるでいま,夢を見ているような気がする.ちがう.いままでのほうが,ぜんぶ長い夢だったような気がする.すごく,幸せな夢だった.

それにしてもいいタイトルだ.夢を見ること.友人が教えてくれたところによると『ハッピーアワー』もとてもおもしろいらしい.上映時間が5時間を超えるというのはさすがに驚いたけれども.


映画 『寝ても覚めても』 2018 予告編

 

とても好きでごたごた書いてみたい本というのはいくつかあるのだが,さいきんは辞書をもくもくと引き続けるなどのほうにかまけているのでうまく気力を割けない.でもやっぱりテクストにたいする悲しいまでの思慕みたいなものは変わらずあって,そういういわくいいがたい想いがふと吐露される瞬間に共感を覚えたりすることもままある.喜ばしいひとときである.蓮實重彦『魅せられて』のあとがきの最終パラグラフを引いて終えることにしよう.

 

 そう,著者は,いま,改めて小説に「魅入られて」いる.この「あとがき」のコンテクストにはまったくおさまりのつかぬ問題だが,ヴァージニア・ウルフからマーガレット・ドラブルまで,あるいはダシール・ハメットからトマス・ピンチョンまで(何という名前の組み合わせ!),あるいは樋口一葉森鷗外正岡子規(彼は小説家ではないが)等々の作品を,ふとした偶然から,これといったあてもないまま読み直していた一時期を持ちえたことが,この題名を導きだしたのである.人は,やはり,書くあてもないまま,ただ「魅せられて」小説を読まねばならない.それを一時の気まぐれに終わらせないと大っぴらに宣言する意味で,恥も外聞もなく,あえて『魅せられて』という題名の書物を世に送りだそうとしているのである.