umindalen

本と映画,カイエ.umindalen@gmail.com

「人薬」の験あらたか

ひとと会うとたいがいはなんともいえない居心地の悪さを覚えるわたしであるが,そのぶんたまには感動するほどの出会いもある.これほどに気分がよくてはしゃいでいるのはほんとうに久しぶりかもしれないので,書き留めておくのも悪くないだろう.「人薬(ひとぐすり)」というのは精神科医斎藤環が著書でよく持ち出す概念だが,よかれ悪しかれやはりひとの精神に大きな影響を与えるのは同じひととのやりとりなのであろう.

 

いつも通り虚無を煮詰めたような朝を迎え,晴れやかな空のもと最終日であるらしい池袋西口公園の古本市をさまよって子規の歌集など手にとっていたが,ひょんなことから友人とカフェで作業することになった.これはどうでもいいことだが,彼は首にチョーカーを巻きヘットフォンをかけている.ひとがひとを判断するのに第一印象は極めて重要な材料となるのだから,身なりによる差別化は有効な手段であると,いたって当たり前なことを今更に納得する.わたしもブログの記事をプリントしたTシャツを着るべきかもしれない.あと,もっとどうでもいいけれど,彼に「おまえ声出てなくない?」と言われてしまった.ほんとうにひとは声の出し方を忘れるのである.

 

閑話休題.差し出がましいことだが,彼が別の友人ふたりとご飯に行くというのにご一緒させてもらうことにした(いつでも人恋しいので).一抹の不安と期待を抱えつつ実際に話してみると,それぞれ煙草を喫むひとと三島を好むひとであったので,ごくごく自然に信頼することができた.わたしの乏しい経験に照らして,喫煙者と三島を読むひとにろくなのはいない.急いでつけ加えるが,これはもちろん褒め言葉である.あまり内容を詳らかにはできないのでもどかしいところだが,久方ぶりに邪悪で愉快な会話ができて数ヶ月ぶんは笑えた.あるひとの見た目から受ける印象が,話すにしたがって明らかになる内面からのそれと著しく乖離していくのを目の当たりにするのは実におもしろい体験である.もちろんこれはわたしの側からの勝手な像の構成にすぎないことは承知しているが,今日わたしは『禁色』の南悠一のごとき人間に出会ったような気がしたのだ.少なくともわたしのこの感動そのものは錯覚ではありえないのだから,それはそれで大切にするとしよう.

 

「生きていればなにかしらいいことがある」などというのは虚言だと信じているが,生きていれば存外いいこともあるらしい.とりあえずしばらくは生きていてもよさそうだ.あと,もう少し活動的になりたい.終わり.

吉本隆明『エリアンの手記と詩』

軒場の燕の掛巣などを

珍らしげに確かめていたおまえの影よ!

 

おまえは何かを忘れてきたように

視えたものだ!

抱えこむような手振りで

けれど何も持つてはいなかつた

あずけるような瞳で

けれど何も視てはいなかつた

それから

亀甲模様の敷石によろめいたりして

おまえの肢は重たそうだつた

 

誰も知らなかつたろう

あふれるもの想いが

おまえの影を浸していることなんか

風が思いがけない色彩をして

おまえを除けていつたことなんか……

 

いつか友人にこれを薦めたことがあったが,酒の席であったし,たしか夜通し飲んでいたはずだからどうせ憶えていないであろう.ここに書き留めておけばそのうち目に触れることになるだろうから,都合がよい.面と向かって以前にも一度したことのある話をくり返すのは間が抜けている.

 

 本作は戦後詩壇を代表する詩人である吉本隆明の,最初期の長篇散文詩である.くり返し読み込んだ作品なので,愛着がある.これを読まれる同年代の方々に自信をもって薦めたい.わたしは吉本隆明の詩が好きで,まえから詩全集を手元に揃えたいと思っているのだが,費用と置き場所のことを考慮するにいまだ果たせずにいる.詩を紹介するにあたって下手な解説を添える愚を犯したくはないが,本作ならばいささかやり易かろうと思われる.詩であることに間違いはないのだが,読んでいくとストーリーがあるということが明確にわかり,なかばは小説のようでもあるのだ.上に引いたのは主人公エリアンが最後にものする詩の一部で,いわば「詩中詩」である.

 

本作はとにかく暗い,どうしようもないほどに暗い.まったくおどけたところもなく,まじめで思い詰めている.若き日の詩人が,絶望と深刻さのどん底で綴っているような印象を受ける.ある程度,吉本本人の遍歴に重なるところもあるようだ.思いをのせた硬質で怜悧な言葉は,壮烈にひたむきさや切実さを伝えてくれる.全体を総合すると一種のビルドゥングスロマンのような構成になっており,わたしの感覚ではヘッセの小説,例えば『トニオ・クレエゲル』や『デミアン』などと雰囲気が似通っているように思える.

 

十六歳のエリアンは,イザベル・オト先生のところで詩を教わっていて,そこで一緒のミリカを秘かに恋している.「如何に細い計算をしても意識は死の方へ流れてい」くような気質のエリアンは,オト先生もやはりミリカを恋していることを告げられ,ある日ついに小刀で咽喉を突くが,死にきれない.病院で目覚めたエリアンは,傷が癒えたら都を離れることを心に決め,退院すると遠い北国へ旅立つ.そこで孤独を噛み締めつつどうにか暮らすうちに成長したエリアンは,都のミリカへ便りを送る.オト先生からの年長者としての便りと,病を得たミリカからの便りが最後に添えられている.先生の慈しみにあふれた助言は胸を打つものであり,とくに「イエスではなくパウロのように生きなさい」というくだりは印象深い.気に入った箇所を引いているときりがないし疲れるので,オト先生の詩をだけ引用して終わろう.

 

お聴きよ!

おまえの微かな魂の唱……

夜更けの風の響きにつれて

さだかならぬ不安を呼び寄せている

 

〈エリアン!〉

みしらぬ愛の戦きをいつ覚えた?

未だ言葉も識らないのに

どうやつて伝える?

 

さりげない物語が

異様なおまえの重たさを運んで

いつたどり着くのか

 

なりわいも苦しさも知らぬ

ひとりの少女のところへ!

 

〈エリアン!〉

おまえは未だわからないのだ

おまえの求めているものが

天上のものか地にあるものか

 

それから

おまえの想うひとりのひとが

はたして

そのように美しい魂なのか……

死ぬことを持薬をのむがごとくにも我はおもへり心いためば

自殺を思うことは,すぐれた慰めの手段である.これによってひとは,かずかずの辛い夜をどうにか堪えしのぐことができる.

ニーチェ善悪の彼岸』信太正三訳 

 「使やしないよ.僕は使やしない.あの時の話のように,ただ自由を持っていたいだけだ.これさえあればいつでもと思うと,これからの苦しみに堪える力になりそうなんだ.そうだろう.僕の最後の自由というか,唯一の反抗というかは,それしかないじゃないか.しかし,僕は使わないと約束するよ.」

川端康成『山の音』(青酸加里についてのくだり)

 

さいきんとみに思うが,ひとと面と向かって自分の考えるところや思うところをわかってもらうことほど難しいことはない.ほとんど絶望的といってもいい.なにかを期待しているとほぼ間違いなく裏切られる(だから,期待しない訓練をせねばなるまい).やはり執拗に詰めて文字として書くほかなさそうに思われる.書くこととはなにか,さまざまに箴言めいた言説はあるが,そのひとつとして「復讐」であるというのがあるのは,間違いないであろう.つけ加えて,書くこととはすぐれて「迂回すること」でもある.

 

どうでもいいこと.わたしは部屋の掃除が苦手であるが,立つ鳥跡を濁さずというやつで,これが終わったら死ぬのだと真剣に考えているときれいに片づけられることがわかってきた.これを読まれる方々もライフハックとしてぜひ実践してみてほしい.しかしこれも,自らに生命保険をかけてしまうのと同じ態度であるから弱いといえば弱いけれど.

 

あるとき寝入ったまま二度と目が覚めなかったならばどんなによいだろうと思うことはしばしばあるであろう(?).ここのところ愉快な夢を見ることが多い(メモをとろうにも内容は起きたそばから揮発していく).往々にしてわたしには夢の世界のほうが魅力的に映る.

 

さて,自殺を想うことだった.そういえば,いぜん睡眠薬をしこたま呑み下した知人がいたけれど,けっきょくそれは未遂に終わった.今時は芥川のようにバルビタールに溺れて死ぬこともできないから世知辛い.自殺というとわたしには入水が頭に浮かぶ.おそらくそれは,梶井基次郎『Kの昇天―或はKの溺死』の印象深い抒情と,いつかとっぷり日の暮れた由比ヶ浜を散歩したときの,あの見晴るかす限りの漆黒とを合成したものに惹かれるところがあるからであろう.これは小品であるが,目に浮かんでくる情景は美しい.砂浜は満月によって蒼く照らされ,海には夜光虫が光っている.そこで「K君」は,行きつ戻りつしながら自分の月光による影をしつこく観察しているのだ.そうしてじっと見つめていると,「見えて来る」ものがあるという.青空文庫より引く.

自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を溯って、それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。

そのときは表情を緩め,いくらやっても「おっこちる」のだと彼は言うが,遂にあるときすっかり昇っていってしまった,というわけだ. 魂が月へ近づくにつれ,身体のほうは海へと入っていく.

 

この記事は仙台への小旅行先で宿泊したホテルで思いついた.わたしはどうもホテルのよく効いている暖房が得意でない.別に暑いわけではないが,無性に不安になるのだ.かといって切ってしまうと寒い.明け方までろくに眠れず,気が触れそうになりながら呻いていたが,ふとだいたいこういうことを書こうと浮かんだので,急いでメモをとった.気が触れそうになることにも効用はあるのかもしれない.タイトル(啄木『一握の砂』より)をこんな風にしておくと,そもそも主な路線があいまいなので,なにを書いても脱線の感があまりなくて気が楽である.

金井美恵子『愛の生活・森のメリュジーヌ』

 

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

 

 内容紹介:

《わたしはFをどのように愛しているのか?》との脅えを透明な日常風景の中に乾いた感覚的な文体で描いて、太宰治賞次席となった19歳時の初の小説「愛の生活」。幻想的な究極の愛というべき「森のメリュジーヌ」。書くことの自意識を書く「プラトン的恋愛」(泉鏡花文学賞)。今日の人間存在の不安と表現することの困難を逆転させて細やかで多彩な空間を織り成す金井美恵子の秀作10篇。

早稲田文学2018年春号で,金井美恵子のデビュー50周年記念特集「金井美恵子なんかこわくない」が組まれていた.19歳であの『愛の生活』を書いてから50年なのかと,20代なかばのわたしが思うのもおかしなことだろうか.そういうわけで,鮮烈な処女作を含むこの初期短篇集を本棚から引っぱり出して読み返してみて,まったく色褪せることなくとてもよかったので,紹介してみたい.とはいえ,わたしはこの本についてどうこう論じられるほどの能力を持ち合わせないので,いくつかの作品について好みの箇所を適当に引用するに留める(傍点はボールド体で代えた).

 

  • 『愛の生活』

一緒に暮らしているFは朝いつものように仕事へ出かけたが,職場へ電話をしてみると休んでいるという.ありふれた物のありようや自他の行動を執拗に観察してはいいようのない不安に襲われる,そうしたどこか気だるい日常を描く.自らのすることを,あたかももうひとりの自分がつねに点検しているような感覚.颯爽とした硬質な文体は読んでいて実に小気味よく,格好がいい.書き出しを引く.

一日のはじまりがはじまる.

昨日がどこで終ったのか,わたしにははっきりとした記憶がすでにない.

昨日がどんな日であったかを,正確に思い出すことがわたしには出来ない.枕元の時計を見ると十時だ.昨日の夕食に,わたしは何を食べたのだったろう?昨日の夕食に,わたしが食べたのは,牡蠣フライ,リンゴとレタスのサラダ,豆腐のみそ汁だった.

以下,引用.

幸福はいつまでたっても幸福のままだ,という逆説的な不幸が現れて来る時,突然崩れ去る幸福な日常というイメージでしか,日常性を捉えることの出来ない人は,幸福のモロサを提出してみせたのではなく,事件が起って事態は一変するだろうという風に考える,一種のロマンチストでしょう? 

わたしはバッグにノートと万年筆をしまい,伝票を摑むと階段を昇って,会計場まで歩いて行く.カウンターのあたりには,いつも色とりどりの服を着た華奢な感じのウエイトレスが何を考えているのか面白くなさそうな顔でつっ立っている.アリガトウゴザイマシタ,という声に送られるのが,わたしはいやだ.わたしはいつも彼女たちに軽く会釈をしてしまう.その会釈に彼女たちが気づかないことを,わたしは軽く頭を下げながら願っている.

わたしがスパゲッティ・ミート・ソースを特に嫌いなのは,一つにはあの回虫を思い出すからかもしれない.ゆであげたばかりの,スパゲッティの温いぬめりは,あの回虫の隠花植物的な光沢に似ている.

わたしが見ているのに気づくと,若い男は少し狼狽え気味に口許でフォークをとめる.

わたしは彼を見て,回虫的に微笑を浮かべてやる.鈍感な微笑の返礼.彼はわたしの考えていることも,微笑の意味も知らないのだ.

―回虫って御存知?

男は思い出したように,スパゲッティの皿を覗く.

―似てるわね.それ.

彼は最後の二,三口ほどのスパゲッティを残したまま,物も言わずに席を

立つ.わたしは悪趣味だろうか?

 

これは引用だけ.

あの人の微笑の中には無数の意味が充たされていて,誰もそのすべての意味を完全に知ることは出来ない.彼女自身にとってさえ完全に知ることは出来ないだろう.ぼくたちは鏡の前に立ち,腕を彼女の胴と胸に巻きつけ,顎を彼女の肩にのせ,微笑みに充たされた意味をひとつひとつ発見して行く.彼女の微笑の最大の意味は愛であり,その中にしのび寄って来る死,悪意とからかいの針,優しさ,苦痛,空虚,悲しみ,それから燃えあがる意志―.ぼくが微笑の意味をひとつひとつ言うたびに,彼女は身体を小刻みに震わせて笑った.そんな時あの人の身体は手の中から逃げようとしてもがく子猫のように生々と弾み,腕の力を強めなければ,あの人はぼくの腕をすり抜けて笑いながら走っていってしまいそうだった. 

彼女は眼をさまし,微笑みを浮べてぼくを見つめ,〈あなたは夜の間中,うなされていたわ.きっと悪い夢を見ていたのね?かわいそうに〉と言った.〈やっぱり,夢だったんだ.あなたがいなくなってしまうなんて,悪い夢に違いないもの〉彼女はぼくの髪を愛撫しながら言った.〈わたしはあなたの前からいなくならないわ.あなたがわたしの全てを知ろうとしないかぎり,わたしたちは一緒よ.いつも,いつも,永遠に二人だわ〉ぼくは悪い予感に全身を貫通され,震える声で彼女を問いつめた.〈あなたの全てを,ぼくは知りたい.どうして知ろうとしてはいけないのです?〉彼女は初めて浮べたきっとした表情と厳しい口調で答えた.〈あなたはわたしを愛しているのでしょう.わたしを愛するということは,あなたの眼がわたしだけを見るということ,わたしにしか視線を注がないことだと最初に言ったはずです.その為にあなたは無数の眼をすてて,森へ入っていらしたはずです.それに,あなたはまだわたしの全てを知る資格も権利も持ってはいないわ〉 

 

  • 『兎』

「あたし」の父親は食用の兎を飼っていて,月に二度,その一匹を絞め殺してはごちそうを作っていた.父親と「あたし」以外の家族はこの儀式を忌むべきものとみなし,ふたりは晩餐を物置小屋の小さなテーブルで行っていた.ある日,他の家族が忽然と姿を消してより,ふたりは外へ出かけることもせず,来る日も来る日も兎料理をお腹いっぱいに食べては好きなだけ眠る生活を送るようになる.父親はますます太り,体調は悪化し,いつの間にか兎を殺す役目は「あたし」に回ってきた.「あたし」の感覚は次第に常軌を逸していく.

最初はとてもいやだったのですが,すぐにあたしは,殺すことも楽しみの一つだってことを理解できるようになったのです.まだあたたかい兎のお腹に手を入れて,内臓をつかみ出す時は幸福でした.肉の薔薇の中に手をつっ込んでいるみたいで,あたしはうっとりして我を忘れるほどでした.指先に,まだピクピク動いている小さな心臓の鼓動が伝わったりする時,あたしの心臓も激しく鼓動しました.もちろん,兎を抱いて首を絞める時にも,内臓に手をつっ込むのとは違った快楽がありました.首を絞める時の快楽をもっと強烈に高めるために,あたしはいろいろな方法を試してみたものです.兎は耳をつかんでいるととてもおとなしいし,あの柔らかでまっ白なくりくり太った生き物を自分の手で殺すのは,とても残酷なことのように思われたのですが,だんだんそれが甘美な陶酔に充ちた快楽に変って行くのが,はっきりわかりました.手の力を少しずつ強めて行くと,兎は苦しがって脚を蹴るものだから,それがあたしのお腹にあたり,とても興奮しました. それから指の中で兎の首が完全に折れたのがわかり,それと同時に激しい痙攣が兎の身体をかけぬけるのが,あたしのお腹に伝わるのです.はじめのうちは膝に兎をのせて絞め殺していたのですが,胸に横抱きにして,脇腹に腕を思いきり押しつけるようにして殺すやり方もためしてみました.これもわりあい感じがよかったのですけれど,ちょっと油断すると腋の下からするりと兎が逃げてしまうので,あまり良い方法ではありませんでした.結局,あたしが一番満足を味わえた方法は,兎の身体を股の間にはさんでおいて,首を絞める方法でした.これはかなり気に入って,しばらく続けていたのですが,そのうち,裸の脚が直接兎の毛皮に触れていたら,もっと気持がいいだろうと思いつき,いつもは殺す時ブルージンズをはいていたのをスカートにして,スカートをまくりあげて股の間に兎をはさんでみたのです.そして,兎殺しの血の秘儀が全裸で行なわれるようになるまでに,長い時間は必要ではありませんでした.

 

『WXⅢ 機動警察パトレイバー』

 

WXIII 機動警察パトレイバー [Blu-ray]

WXIII 機動警察パトレイバー [Blu-ray]

 

 ゆうきまさみによる原作コミック「廃棄物13号」をモチーフに、サスペンスタッチで展開されるシリーズ最大の異色作! 昭和75年の東京、続発する奇怪なレイバー連続殺人事件。事実解明に挑む城南署の刑事、秦と久住は捜査を進める中、事件の鍵を握るひとりの女性科学者に出会い巨大な陰謀の渦に巻き込まれていく…。総監督:高山文彦、脚本:とり・みきの新規スタッフが放つ新世紀の“パトレイバー”。

(公式サイトより)

映画についてなにか書いてみたいと思った.せっかくならば,あまり知名度が高くないであろう作品について,掘り起こして光を当てるほうがよかろう.というわけで,いつだったか忘れたがむかし観て以来いくども観直している,わたしのお気に入りのアニメ映画『WXⅢ 機動警察パトレイバー』についてその筋を追ってみたい.本作はパトレイバーの劇場版第三作にあたるが,おそらく前の二作品のほうがずっとよく知られているのではなかろうか.そちらの監督はあの押井守だし,Amazon のレビューをチェックしてみたってこの『WXⅢ』は明らかに日陰の存在である(Google の検索窓に「パトレイバー3」と打ち込むと,「つまらない」がサジェストされる).それも無理はない気がしていて,だいいちパトレイバーがほとんど出てこないのだ,せいぜいラストの大掛かりな作戦においてとってつけたように出動するくらいであり,完全に脇役となっている.そういうわけで,当時の熱心なレイバーファンにとってはしこりの残る作品であったのだろうが,裏を返せば,いま鑑賞するのになんら特別の予備知識も要らず,むしろ入っていきやすいのではないかと思う(わたしもパトレイバーにはまったく明るくない).そしてなにより,ストーリーはとてもよくできているのである(つまらなくなどない!).物語は基本的に,昔気質の中年の刑事である久住武史と,それよりは若いこれも刑事の秦真一郎とがその足でもって聞き込みをくり返すことで進んでいく.BGM は控えめで環境音が多く,なんとも静かで地味な印象を全体に添えている.とてもロボットものとはいえないだろう,むしろ刑事ものだ.

 

さて,以下で詳細な内容に入っていきたいのだが,当然ながらネタバレになってしまうので,ちょっとでも興味のあるかたはぜひ先に本編を観ていただきたい.トレーラーもけっこうネタバレ感が強かったので,あえてリンクを貼ることはしない.ひとつ余計なことをつけ加えておくと,たぶん煙草を嗜まれるかたは本作を気に入られるのではないかと思うのである(わたしは吸わないけれども).

 

冒頭,東京湾を航行する漁船が航空機の墜落を目撃する謎めいたシーンで映画は幕を開ける.続いて,曇り空のした草野球でピッチャーをしていた秦は,突然の呼び出しを食らう.現場に立ち合い,秦は久住に尋ねる.「遺体って,これだけですか?」「ああ」

雨の降りしきる駐車場で,秦は自分の車を出そうとすると,真っ赤な車のボンネットを開けて窮しているらしき女性の後ろ姿を見かけ,声をかける.暗い色調の画面に,その白皙と黄色いワンピースとが鮮烈に,一種異様に,映る.送り届ける車内で,髪を拭き終わったタオルを畳んだ彼女に,秦は話しかける.

「煙草,吸いたいんじゃないですか?車に乗ったとき,灰皿のほう見てたから.構いませんよ,どうぞ,吸ってください」

「身体に悪いのに,なかなかやめられなくて」

「ぼくも前は吸ってたから,わかります」

 大学へ着くと,彼女は大きなトランクを教室へと運んでいくのだった(いくつかの視点が順繰りに切り替わりつつ進行していくので,ここではこの女性に関するシーンをメインに据えることにしたい).

 

ここから刑事ふたりの聞き込み捜査が始まる.すでに4件の事件が起きていたが,今度は潜水艇がその調査中に破壊されたという報告が下る.担当者に聞いてみると,作業モニタには,魚のひれのようなものが写り込んでいた.秦は久住を助手席に乗せるが,煙草に火をつけようとする久住に,「この車は禁煙です」と言い放つ.しかしその後,久住は足元に落ちていた赤地に金の装飾入りのライターを見つけ,意地悪い口ぶりで「この車,禁煙じゃなかったのか?」イニシャルは M.S. となっていた.

 

大学で生物学の講義をする女性.通常の細胞とは異なり癌細胞にはテロメアを修復する機能があるため,分裂回数に限度がなく,永久に増殖することができる.

「この細胞も,小児性の癌で亡くなった患者の一部です.本人は死んでいるのに,その癌細胞はいまでも生きている.不思議な気がするわね」

ライターを返しに来た秦.「このためにわざわざ?」「まあ,それもあるんですけど……実はこれは口実でして」ここで初めて彼女の名前がわかる.「岬冴子です」

 

ふたりはデートに出かける.アントン・チェーホフ桜の園』を観に行くのである.いったいどちらのチョイスなのだろうか.ラネーフスカヤ夫人の真に迫る台詞が流れる.岬は俯き加減に,無表情なようで神妙に,聴き入っている.

どんな真実?あなたには真実や嘘のありかが見えていてわたしには見えない.あなたは大事な問題を片っ端から解決した気でいる.でもどうでしょう.それはあなたがまだ若くって苦しみ抜いたことがないからじゃなくって?わたしたちに比べれば,あなたはずっと勇敢で正直でまじめだけど,でもすこし寛大になってわたしを許してほしい.だって,わたしはここで生まれたんだし,父も母もお祖父さんもここで暮らしていて,わたしはこの家が大好きで,この桜の園のない生活なんか考えられないの.もしどうしても手放すというのなら,いっそこのわたしも一緒に売ってちょうだい.

 5年ぶりにパリから自分の土地に戻ってきた領主ラネーフスカヤだが,もはや一家は裕福ではないという現実を直視しない彼女は散財の悪癖をやめることができない.とうとう競売にかけられた桜の園の行く末が気にかかって仕方がない彼女に,醒めた大学生トロフィーモフは,領地はもう「昔の夢」なのだから,落ち着いて真実を見るようにと諭す.それにたいして彼女は上のように応じるのである.なお,原作ではこの後ろにはさらに,「坊やもここで,溺れ死んだんですものね」と続く(新潮文庫神西清訳より).

 

ナイトクラブのすぐそば,またも湾岸で殺人が起こる.そして近くの備蓄基地に異常が発生し,ライトがすべて落ちる.(運悪く)パトカーに乗っていた秦と久住は現場を見に行くことになる.「タクシーにしときゃよかった」「まあ,これも公務ですから」

ここで,久住がどこかその存在を感じていた,また秦は信じていなかった,「やつ」が姿を現す.アクションシーンであるが,安全なところにいる若い秦が,歳のいった,おまけに足の不自由な久住が必死に逃げるのをサポートするという展開になっている.こうしたシリアスな場面にあっても,コミカルに響く台詞があるのが好みである:

「久住さん,一番上の階に非常口があります!心臓が破れようが,とりあえずそこまで走ってください!」

「走ってやろうじゃねえかこのやろう!」

 

回収された怪物の肉片を分析してもらうため,東都研究所に赴く秦.ここで岬と出くわす.本職はこちらで,大学で講義しているのはアルバイトだと言う.彼女の机の上には,夫婦とその子どもの3人が写っている家族写真がある.娘の名前は一美(ヒトミ),夫は3年前に事故で亡くしたのだと語る.秦は自分のことを公務員だと言っていたが,ここで刑事であることを明かす.

 

分析結果によると,肉片の細胞はニシワキセルとヒト癌細胞の融合体のようなものであるという.秦と久住はニシワキセルについて調べ,西脇順一という人物にたどり着く(詩人の西脇順三郎となにか関係があったりはしないのだろうか,これはわからない).ニシワキトロフィンという物質の発見者であり,また来須とともに東都研究所の設立者である.10年以上前に亡くなっている.「私と家族」と題された記事で,西脇の隣に座る制服の少女に秦は目を留める.「どうした?」「いや,別に」

 

秦は岬に電話をかけるが,つながらない.東都研究所を訪ねてクロだと確信した久住は,さらに西脇順一の線をあたる.西脇家の墓へ足を運ぶ久住は,雨が降り始め傘を開く,その向かうずっと先を横切っていく女性.墓石を目にするや否や,彼は傘を捨て道路のほうへあわてて駆け出す.手をかけたフェンスの向こう,真っ赤な車が曲がり角を膨らみ気味に左折すると,急加速して目線の先へと走り去っていく.霊前には花束が供えられ,線香が白い煙を上げているのだった.

 

久住は秦を自宅に招く.壁の全面を埋め尽くす膨大な量のレコード.「俺はアナログレコードしか聴かないんだ」久住は交通課に頼んで西脇家の墓参りをしていた女性を調べていた.岬冴子,旧姓は西脇.

「お前付き合ってるのか?」

「そんなことまで調べたんですか?」

「女のイニシャルが,ライターと同じだった.それに最近のお前の様子.調べたわけじゃない」

「彼女に嫌疑でも?」

「東都の主任研究員だからな,疑うのは当たり前だろう」

 秦は岬冴子のことは自分が調べると言う.

「パソコンネットの伝言板に書くのか?逃げたガールフレンドを探していますって」

「久住さんのも書いてあげましょうか?わたしを捨てた家族を探していますって」

「秦,頭を冷やせよ」

 

 大学研究室の人間に無理を言って,岬のロッカーを開けてもらう秦.大きなトランクが転がり出て,中身が明らかになる.DAT プレーヤーとスピーカー,そして小さなビンには「ニシワキトロフィン」のラベル.これは怪物の餌となるものだ.研究室で行方不明になっていた試薬であるらしい.彼女のアルバイトの理由はここにあった.

 

秦は,岬のアパートを訪ね,管理人に鍵を開けてもらう.なかはもぬけの殻であったが,ひとつだけ施錠された部屋があった.管理人が見ていないことを確かめて,秦は折りたたんだ紙で鍵を開ける.そこで彼は,異様な光景に面食らうことになる.それは壁一面に引き伸ばされた,一美の写真であった.

 

さらに秦は,岬家の両親を訪ねる.冴子から,秦が来たら渡すように頼まれていたものがあるという.それは,一美のことを撮ったホームビデオと,「子守唄」とテープの貼られた DAT であった.ビデオを再生すると,ピアノを弾く一美の姿が映し出される.ベートーヴェンピアノソナタ第8番『悲愴』.そして一美は,小児性の癌で亡くなったことを告げられるのだった.「子守唄」を,いったい何に聴かせていたのだろうか.

 

「子守唄」DAT を分析する久住.すべての事件現場付近で,この DAT が含む超音波領域の音に類似した波形の音が発せられていたことが明らかになる.CD はヒトの可聴域外の音をカットしてしまうが,アナログオーディオではそうでない.久住ならではの気づきであろう.岬は,この DAT を用いて怪物をおびき出し,自ら餌を与えていたのだ.岬がひとりトランクを手に埠頭に立っていたシーンはこれを暗示する.ひょっとすると,冒頭のシーンもその帰りだったのかもしれない.岬家の父が庭の池の鯉を手を叩いて寄って来させ,餌をやっていたのは暗喩的である.同時に,これを利用して怪物をおびき出し,細胞を死滅させる特殊弾頭で処理する作戦が立案される.

 

現場にやって来た岬を,秦は招き入れる.

「なぜ僕にテープを渡した?」

「尋問してるの?」

「理由を知りたい」

「わからないわ.もしかしたら,もしかしたら似ていたせいかもしれない.あなたあのひとに少し似てる.だから,ほんとうはあなたに止めてほしかったのかもしれない.わからない.もう忘れちゃったわ.理由なんか忘れちゃった」

 「彼女」の誕生の過程を話す岬.

「まるで魔法を見てるようだった.そう,あの子は新しく生まれ変わったのよ」

「生まれたのは,君の子どもなんかじゃない.生まれてきたのは,怪物だ」 

「怪物,ベイカーズダズン,廃棄物13号,いろんな名前でみなが呼ぶけど,わたしにはあの子の名前はひとつだけよ」

"baker's dozen" とは,13を意味する.「パン屋が量目不足を怖れて1ダースに1個おまけしたことから」(新英和中辞典より)なお,『悲愴』の作品番号は13である.

 

スタジアムに「子守唄」の音声が響き渡る.無邪気な,あどけない声.

「岬一美です.これから,ベートーベンの,ピアノソナタ8番を弾きます.聴いてください」 

 満場の拍手とともに曲は始まり,それを聞いた「彼女」は会場へと入ってくる.なんとも皮肉で残酷な演出であるように思われる.秦の手を振り払った冴子は,はるか上方よりその様子を見下ろしている.

 

作戦は予定通りに進行し,特殊弾頭が撃ち込まれると同時に,冴子は突き出した鉄骨の突端より身を投げる.しかし,すんでのところで秦がその左手首を掴む.動きの鈍った「彼女」のわきに,陸自の戦闘ヘリが降り立つ.「シナリオが変わった」火炎放射が始まる.上半身を覆っていたカウルが外れ,その乳房が露わになる.「彼女」は東京湾の底で,少女から大人へと,確実に成長していたのであった.かたく掴まれた手は雨に濡れ,久住が駆けつけるまでもちこたえられようはずもなかった.「彼女」のくずおれる断末魔とともに,冴子の手は秦のそれを離れる.けっきょく,冴子は「あの子」が焼き殺されるその最期まで,見届けることになってしまった.

 

ラストシーン.西脇家の墓に参った秦は,さりげない仕草でもって「前は吸ってた」煙草を口に咥えると,赤いライターで火をつける.これは冴子のライターであろうか.なんともシニカルでペーソスに満ちた,気の利いた幕の引きかたではないかと思う.冒頭の邂逅の後,車内で愉しげに喋りかける秦と,ラストの喪服に身を包み,とくにどうという表情も浮かべない秦.これら始まりと終わりを結ぶ小道具として煙草はある.内心の思いを面に出さない程度には彼もプロであるが,一連の事件の真相が表沙汰にされないことに対するささやかな反抗と,それから冴子と自らの運命に対するそれとを,ここに見てとることができるのではないだろうか.

猫について

来れ,わが麗しき猫,わが戀の炎ゆる心に.

       汝が趾の爪をかくして,

金銀と瑪瑙の混れる美しき眼の中に

       わが體を投入れしめよ.

ボードレール『猫  LE CHAT』,鈴木信太郎

 

学部を卒業してこのかた,友人は減ることこそあれ,増えることはない.一時は人間と積極的に関わろうと外へ出かけていくこともあったが,たいていは笑顔で解散したのち,帰り道でひとり後悔する羽目になった.ひとと会って話すことについての後ろ暗い思い出は徐々に積もっていくのに,予定を立てる段階ではいつでも明るい期待をばかりしてしまうのはなぜなのだろう.ともかく,顔を突き合わせてあれこれ喋るべき相手は慎重に選ばねばならないのだと思う.これから新しく関係を築くにしても,初対面のそののちまで連絡をとるほどに目の前の人間に興味が持てるかというと,あまり自信がない.ときには気質の似たひとに思いがけず巡り合えることもまた,間違いないことなのだけれども.とかく同年代と話が合うことが少なすぎる.

 

日ましに募る寂寥で人生がいよいよにっちもさっちもいかなくなったら,猫を飼いたいと,ここのところそんなことを思ったりもする.それも能うかぎり恩知らずなやつがいい.小学校からのある友人は無類の猫好きであって,彼の家にはいつも幾匹かの猫がいて,ときたま遊びに行くと触れ合う機会があった.いまではお互い地元を離れてしまったから,ここ数年はすっかりご無沙汰であるが.

 

どうして猫が好きかといえば,小説にはときおり登場してくる(そして現実には絶対に存在しない!),孤独で,自由で,物静かで,どこか陰のある,といった一群の典型的な形容を受ける人物,にそっくりであるように思われるからである.わたしはどうも,他人に興味のなさそうなひとを好んでしまう性癖であるらしい.それに猫は人間と違って喋ったりなどしない.喋れるのだから,喋るべきだ,というような了解は息苦しい空気を形成する.

 

いま住んでいる家の近所にはけっこうな数の野良猫がいるようで,ふらふら歩いているとアスファルトのうえに佇んでいるのを見かけることが多い(実に,猫は佇んでいるだけでも詩的だ).近づくと当然のことながら(江の島の猫ほどひとに慣れていないので)逃げられてしまうが,ついつい何度も追いかけてしまう.俊敏に走り去っては少し離れたところで止まりこちらをじっと窺う,あの小憎らしい表情が好きである,しかし決して追いつかせてはくれない.そういえば,映画『耳をすませば』の雫は,電車のなかでシートの隣に飛び乗ってきた太った不思議な猫に惹きつけられ,彼を無我夢中に追いかけるうちに地球屋へとたどり着いたのであった.この出来事は雫の言うところの「物語」の「始まり」であったわけだ.ちなみにこいつは,自分に向かって吠えかかる飼い犬を,門扉の上から尻尾を垂らして見物するような「性悪」である.猫を追いかけるというのは魅力的なモチーフだといえよう.

 

古今東西,芸術家や文学者にも猫をこよなく愛するひとたちがいる.三島もそうとうな猫好きであったようだ.

私は猫が大好きです.理由は猫というヤツが,実に淡々たるエゴイストで,忘恩の徒であるからで,しかも猫は概して忘恩の徒であるにとどまり,悪質な人間のように,恩を仇で返すことなどはありません.

―『不道徳教育講座』「人の恩は忘れるべし」

あの憂鬱な獣が好きでしゃうがないのです.芸をおぼえないのだっておぼえられないのではなく,そんなことはばからしいと思っているので,あの小ざかしいすねた顔つき,きれいな歯並,冷たい媚び,なんともいへず私は好きです.

―猫「ツウレの王」映画

 「犬」という言葉が使われている,対照的な一節も引いてみよう.

何かにつけて私がきらひなのは,節度を知らぬ人間である.一寸気をゆるすと,膝にのぼつてくる,顔に手をかける,頬つぺたを舐めてくる,そして愛されてゐると信じきつてゐる犬のやうな人間である.女にはよくこんなのがゐるが,男でもめづらしくはない.

―「私のきらひな人」

愛し愛されたいのであるが,いざ愛されてみると強烈な違和感とともに即座に相手を切り捨ててしまう.三島は,自身が愛されるに足ると考えるには自己を嫌悪しすぎており,相手について愛するに足ると考えるには自己を愛しすぎている.そういうわけで,彼は彼を決して愛さない孤高の猫を追いかけ続けることを選ぶのである.

 

赤坂憲雄『性食考』

二月のなかばに京都へ旅行をしてきた.以前にも幾度か訪うているから,どこを見て回ろうか思案していたのだが,すぐ頭に浮かんだスポットとして,あの『檸檬』の丸善がある(ところでわたしは京都の地理にうとく,一番の繁華街といえばあの四条河原町のあたりを指すということを知らなかった.そもそもまともに足を運んだことがなかったと思う).さっそく行ってみると,美術書や洋書が充実しており,さらに椅子と机があって「座り読み」ができたりもして,至れり尽せりである.そしてその机の並びの脇に『檸檬』のコーナーが設けられており,バスケットに持参したレモンを置いたり,購入した新潮文庫の『檸檬』にスタンプを押したりすることができる.ただ,やはり檸檬は「ゴチャゴチャに積みあげ」られた「本の色彩」の「城壁の頂き」に据えつけられなければ,「あの気詰まりな丸善も粉葉みじん」にできないのではないだろうか,というようなことを思う(引用は青空文庫による).ちなみに併設されているカフェでは,「檸檬」というスイーツが提供されていたりもして,これはおいしかった.

 

ここまでが枕である.わたしはいちおう本の紹介をしたいと思っているのだ.その丸善の人文書コーナーをふらふらしていたときに,目に飛び込んできた平積みの本が,赤坂憲雄『性食考』であった.

 

性食考

性食考

 

内容紹介:

「食べちゃいたいほど,可愛い.」このあられもない愛の言葉は,〈内なる野生〉の呼び声なのか.食べる/交わる/殺すことに埋もれた不可思議な繋がりとは何なのか.近代を超え,いのちの根源との遭遇をめざす,しなやかにして大胆な知の試み.神話や物語,祭りや儀礼等を読み解き,学問分野を越境してめぐる,魅惑的な思索の旅.

 

表紙絵が印象的なので,つい手に取ってしまった.あとがきによると,著者自らが鴻池朋子の絵の一部分を選んだものであるらしい.眺めるうちに,それが著者をして想起せしめたのは宮沢賢治の『狼森と笊森,盗森』のある場面であったという.横着したいので,青空文庫からそのまま引いてしまおう.

そして蕎麦そばと稗ひえとが播まかれたやうでした。そばには白い花が咲き、稗は黒い穂を出しました。その年の秋、穀物がとにかくみのり、新らしい畑がふえ、小屋が三みつになつたとき、みんなはあまり嬉うれしくて大人までがはね歩きました。ところが、土の堅く凍つた朝でした。九人のこどもらのなかの、小さな四人がどうしたのか夜の間に見えなくなつてゐたのです。
 みんなはまるで、気違ひのやうになつて、その辺をあちこちさがしましたが、こどもらの影も見えませんでした。
 そこでみんなは、てんでにすきな方へ向いて、一緒に叫びました。
「たれか童わらしやど知らないか。」
「しらない。」と森は一斉にこたへました。
「そんだらさがしに行くぞお。」とみんなはまた叫びました。
「来お。」と森は一斉にこたへました。
 そこでみんなは色々の農具をもつて、まづ一番ちかい狼森オイノもりに行きました。森へ入りますと、すぐしめつたつめたい風と朽葉の匂にほひとが、すつとみんなを襲ひました。
 みんなはどん/\踏みこんで行きました。
 すると森の奥の方で何かパチパチ音がしました。
 急いでそつちへ行つて見ますと、すきとほつたばら色の火がどん/\燃えてゐて、狼オイノが九疋くひき、くる/\/\、火のまはりを踊つてかけ歩いてゐるのでした。
 だん/\近くへ行つてみると居なくなつた子供らは四人共、その火に向いて焼いた栗や初茸はつたけなどをたべてゐました。
 狼はみんな歌を歌つて、夏のまはり燈籠とうろうのやうに、火のまはりを走つてゐました。
「狼森のまんなかで、

火はどろ/\ぱち/\
火はどろ/\ぱち/\、
栗はころ/\ぱち/\、
栗はころ/\ぱち/\。」
 みんなはそこで、声をそろへて叫びました。
「狼どの狼どの、童わらしやど返して呉けろ。」
 狼はみんなびつくりして、一ぺんに歌をやめてくちをまげて、みんなの方をふり向きました。
 すると火が急に消えて、そこらはにはかに青くしいんとなつてしまつたので火のそばのこどもらはわあと泣き出しました。
 狼オイノは、どうしたらいゝか困つたといふやうにしばらくきよろ/\してゐましたが、たうとうみんないちどに森のもつと奥の方へ逃げて行きました。
 そこでみんなは、子供らの手を引いて、森を出ようとしました。すると森の奥の方で狼どもが、
「悪く思はないで呉けろ。栗くりだのきのこだの、うんとご馳走ちそうしたぞ。」と叫ぶのがきこえました。みんなはうちに帰つてから粟餅あはもちをこしらへてお礼に狼森へ置いて来ました。

 

このお話では,子どもたちは「向こう側」へ漂い行くすんでのところで「こちら側」へ連れ戻されている.本文中にもいくどか触れられている絵本の『かいじゅうたちのいるところ』では,オオカミの着ぐるみを身にまとった少年マックスは,いつの間にか怪獣たちの世界へ,一度とはいえじっさいに行ってしまう.人間と動物との境界がどこか曖昧で,互いに変身して移り変わることができる,そういう始原への考察は本書のひとつのテーマである.ちなみに現実の例もあって,著者が聞き書きした山形県のあるムラでの狩猟の情景が参考に挙げられている.曰く,「はじめて春の熊狩りに参加した少年は,獲物の熊が捕れたときには,解体されたばかりの熊の毛皮をかぶせられた」そうだ.

 

「食べちゃいたいほど,可愛い.」に着想を得て説き起こされる,いわばコインの裏表である食欲と性欲,その複雑に絡まり合った二本の幹を言葉をよすがとしてたどりながら,「この世のはじまりの風景」を見定めようとする道程,それが本書の全体を成している.しかしこの試みは,いずれ「薄明のなかの不定形としかいいようのない影の部分」にはばまれることを避けられない.そのことが理由かどうかはわからないが(それと,岩波書店のウェブ連載がもとになっているので),本書は終始ひとつの論旨に貫かれた書き方がなされているというよりは,各章が比較的に独立したエッセイとして,多角的な視座から「影の部分」の周りを輪郭づけていこうとしているように思われる.そういうわけなので,けっこう気楽に,たのしく読める(散漫に感じられる部分も多いといえば,その通りであるが).

 

書き起こしに,芥川龍之介が,のちの妻となる文(フミ)へ宛てた手紙が引かれているが,実は同じ手紙の内容が以前に Twitter で流れてきたのを見たことがあったので,少し驚いてしまった.ここにも引いてみよう.

 二人きりでいつまでもいつまでも話してゐたい気がします  さうして kiss してもいいでせう  いやならばよします  この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい気がします  嘘ぢやありません  文ちゃんがボクを愛してくれるよりか二倍も三倍もボクの方が愛してゐるような気がします  何よりも早く一しよになつて仲よく暮しませう  さうしてそれを楽しみに力強く生きませう

 もちろん,これが引かれているのは「頭から食べてしまひたい位可愛いい」というフレーズがあることによるのであるが,なんというか,こんな手紙が残っていては彼の自死もかたなしという気がしなくもない.気の毒なことである.

 

閑話休題.本書では実に多種多様な民話や昔話,童話がとり上げられているが,宮沢賢治の『蜘蛛となめくぢと狸』の分析には舌を巻かざるを得なかった.誰しもかつて一度は聞いたことのある童話であろう.注目されるのは,へびに足を噛まれたとかげを,なめくじが嘗めて治してあげましょう,という場面である.青空文庫より引く.

そしてなめくじはとかげの傷に口をあてました。
「ありがとう。なめくじさん。」ととかげは云いました。
「も少しよく嘗めないとあとで大変ですよ。今度又また来てももう直してあげませんよ。ハッハハ。」となめくじはもがもが返事をしながらやはりとかげを嘗めつづけました。
「なめくじさん。何だか足が溶とけたようですよ。」ととかげはおどろいて云いました。
「ハッハハ。なあに。それほどじゃありません。ハッハハ。」となめくじはやはりもがもが答えました。
「なめくじさん。おなかが何だか熱くなりましたよ。」ととかげは心配して云いました。
「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ハッハハ。」となめくじはやはりもがもが答えました。
「なめくじさん。からだが半分とけたようですよ。もうよして下さい。」ととかげは泣き声を出しました。
「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ほんのも少しです。も一分五厘りんですよ。ハッハハ。」となめくじが云いました。
 それを聞いたとき、とかげはやっと安心しました。丁度心臓がとけたのです。
 そこでなめくじはペロリととかげをたべました。そして途方とほうもなく大きくなりました。

 一読してみて奇妙に思えるのは,なぜ「丁度心臓がとけた」とき,とかげは「安心」するのか,ということだ.著者はこれを,「恐怖にまみれた快楽の果て」,「性的なエクスタシーへと押しあげられてゆく」末の,「永遠の切断としての死」の訪れとみる.すなわち,このなめくじととかげとの絡みあいは,「嘗める」ことの意味が,傷を治すことから愛撫することや味わい食べること,ついには殺すことへと重層的に変化していく様を表しているのだという.本書で問題となっているいくつものモチーフが,この小品のなかに巧みに編み込まれていると考えると,この作品の魅力はいや増すであろう.

 

このほかにも,サルトル存在と無』の「穴の実存主義精神分析」や,夢野久作ドグラ・マグラ』における,絞め殺した美女をその白骨化に至るまで観察し写生した絵巻物など,興味をそそる題材がそこかしこに散りばめられている.もしよかったら,手にとってみていただきたい.