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『長谷川龍生詩集』現代詩文庫

 

長谷川竜生詩集 (現代詩文庫 第 1期18)

長谷川竜生詩集 (現代詩文庫 第 1期18)

 

 

先日,Twitter 上でかの有名な(?)@fumiya_iwakura 氏が,長谷川龍生と関根弘のある対談の一部を抜粋して投稿していたのが,思わず手を叩いて笑いたくなるくらいおもしろかったので,さっそくそれが収録されている現代詩文庫の『長谷川龍生詩集』を手に入れて読んでみた.わたしの気に入った箇所をここにも引用してみたい.詩集なのに詩を引かないけれども,悪しからず.件の対談より.

 

関根 じゃ,まあね,詩をなぜ書くかと言われたら,ひとことでなんと答えますか?

長谷川 そうね,復讐かな.

関根 何に対する復讐?

長谷川 自分自身以外のもの…….

 関根 ひとの評判を気にしますか.

長谷川 非常に気にするときと,ポカーッと抜けたときと,時期によってちがいますね.しかしほとんど評判されたことがないから.孤立無援だからね.昔から.だから,まあいいんじゃない?……孤立無援だよね.

関根 遊ぶことは好き?

長谷川 あんまり好きじゃない.

関根 仕事は好きなの?

長谷川 仕事も好きじゃない.

関根 一番なにが好きなの?

長谷川 ……

関根 どういう状態が一番,自分にとってはいい状態なの?

長谷川 やっぱり自閉症だからね.みずから閉じるという…….一つのことに熱中するということですね.それが自分の気に入ったことであるという…….

関根 じゃ,日本の家屋なんていうのはあんまり好きじゃない?

長谷川 ……

関根 ホテルは好き?

長谷川 ホテルあんまり好きじゃない.日本の家屋も好きじゃないですね.

関根 密室?

長谷川 密室ですね,そう,密室ですね.

関根 密室,好きでしょう.

長谷川 非常に古くさいような,暗いとこね.

関根 密室でお酒飲むなんてことないの?

長谷川 ありますね.そりゃありますね.

関根 そうしてこう,幻想をたのしむという…….

長谷川 うん,たのしむっていうの,あるね.

関根 しょっちゅう?

長谷川 しょっちゅうね.毎晩ねる前には幻想をたのしむってことあるね.だから,ちょっと病気になって,二,三日会社休んで,ゆっくり幻想にひたれるっていうのはこれはまあ,まったくすばらしいことだなあ.

 関根 (略)……それから,ちょいちょい自殺したがってるねえ.

長谷川 うん.

関根 いまでも自殺したいですか.

長谷川 そうねえ,やっぱり,自殺したいような気持になることがあるね.

関根 どうしてえ?

長谷川 エッ?

関根 どういうときに?

長谷川 そりゃあやっぱり,才能もないし,それから,生きる力もないし,誰からも愛されないし,自分自身で一人で生きていこうという強固な精神も,やっぱり,疲労してくると衰弱するしね.だから,思い残すことがなにもない時があるわけですよ.そういう時はやっぱり,飛躍しそうな時がありますね.たいへんもう,いまになって自殺にあこがれをもつなんて,古くて,古めかしくて,はずかしいようだけれども,ピュウーッとなにか,入ってくるときがあるね.

関根 人を殺したくなることはありますか.

長谷川 ありますねえ,それはもうしょっちゅうありますねえ.

関根 特に憎いのは?

長谷川 特に憎いのはねえ,いるねえやっぱりたくさん…….文学のわからない奴は全部殺してやりたいねえ(笑).

関根 じゃまあ……会社で働いてんのは,あんまり好きじゃないわけ?

長谷川 好きじゃないね.

 

自伝「自閉症異聞」より.

私は,小さい時から,そのような環境の中で,自らと世の中との通路を閉ぢた.明らかに自閉症として,詩人の道をえらんだ.しかし,自閉症としては生きていくことはできない.私はそこで亡霊を創造した.現在,街をあるいたり,会社に勤めたり,他人と会話したりしているのは,私の亡霊である.亡霊だけが,自閉症の壁を,何んの制約もなくすり抜けていくことができ,社会への唯一の交流媒体として働いている.

私の深き欲望とは,自閉症にかかっている真の私の存在と,社会に仮の姿として行動している私という亡霊の存在を逆転することにある.

人間,最期に,勝てばいいのだ.暗い,狂った,呪われた,被害妄想の人生の最後の時間には,颯爽たる加害者でありたいと思う.

自閉症としての生涯における,反自閉症としての明るい一日,それが私の目的である. 

 

久しぶりに朝まで飲んだ

さほど友人が多くもなく出不精であるわたしにとっては,ときたま気心の知れた人間と飲みに行くだけでもそれなりに特筆すべきイベントである.よい酒席というのはなにかしら感銘を与えてくれて,まあ,さしあたり明日からもまた生きていくかという気分にさせてくれる.せっかくなので,ちょっと筆を執ることにした.

 

今日は出かける予定もあるし,このあいだ珍しく買った煙草の残りもひとりでは喫まないし,というわけで久々に友人を誘うことにした.摂食が苦手なので夕方になってもろくになにも口にしておらず,コンビニで景気づけにストロングゼロを買って呷りながら大学の周りを彷徨っていたら気分が悪くなった,当たり前である.わたしはもちろんおいしいお酒は好きだが,舌に露骨にエタノールを感じるタイプのお酒も自傷の感があってそれはそれで悪くない(さいきんは強くて安いチューハイなどがぞくぞくとお店に並べられつつあるが,終末っぽくてよい).それと,図書館で借りた大量のハードカバーが重かった,もうすこし先のことを考えて行動しないといけないと思う.不忍池をぐるりとまわると,蓮の葉がずいぶんと繁茂してきているのが見える.てきとうに時間を潰して合流する.

 

娘の名前は万葉集からとろうとか(結婚できると思っているのか),漢字の部首で一番好きなのはどれかとか,牛丼には無限に七味をかけるとか,玉音放送のどこがお気に入りかとか,パンクロッカーは二十代で死なねばならないとか,古井由吉が読めるのは日本語話者の喜びだとか,大江の『われらの時代』を読めとか,コードギアスはおもしろいから観ろとかとか,いろいろ話したのだが,たぶん一番盛り上がってえんえんと続いたのが部落についての話である.ふたりともけっこうな田舎の出身なので,地元に暮らしていたころの思い出話をすると自然に(?)部落の話題が出て,これがそこそこ通じるのだ.東京の大学に来てこれはなかなかに稀有な体験であろう.やはり,もつべきはお互いに部落の話ができる友人である.もっとも,わたしは関東で彼は関西ということもあってか,被差別部落ということになると彼のほうがより問題を身近に感じながら育ってきたようである.

 

さて,なんでもかんでも本に結びつけてしまうのがわたしの悪いところであり,こういう談笑のなかで頭に浮かんだのが,野間宏『青年の環』であった.サルトルのいう「全体小説」を,野間が二十年以上を費やして実践した畢竟の大作八千枚である.第二次大戦が始まる年の大阪を舞台に,被差別部落解放運動が描かれる.これがとにかく尋常でなく長い,たぶん『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』をつなげたくらいに長い.サルトルの『自由への道』でさえ,まあ,「分別ざかり」まででいいか,と投げてしまったかたは多いはずである(わたしもそう).以前,岩波書店が出している「図書」の臨時号に「岩波文庫 私の三冊」という特集があり,たいへんおもしろく読んだのだが,この冊子のなかで熊野純彦が挙げていたうちの一冊が『青年の環』であった.いわく,大学生のときにこれが岩波文庫に入り,二晩徹夜して全五巻を読み通したそうなのだが,三日で読めるものなのかと驚いた覚えがある.

 

実は,岩波文庫の全五巻セットが大学近くの古書店にお手頃な価格で並べてあるのを知っている.はたして買うべきだろうか.でもわたしのことだから,きっと買うのだろうな.いや,それにしても外的な経験をその通りに書き起こすのはほんとうに楽である.いつもこのくらい筆がするすると動いてくれると嬉しいのだが.終わり.

あつき日は心ととのふる術もなし心のまにまみだれつつ居り

このあいだの連休ですこし実家へ戻り,久しぶりに間近で生い茂る植物を見るような思いがした.きれいに晴れて,ときおり着衣の下を吹き抜ける風が汗を乾かしていく日であった.とくに柿の木は,年季が入ってごつごつした,あまり健康そうには見えない樹皮と裏腹に,先のほうから細い枝を長く伸ばし,若々しい黄緑色の葉をたくさん茂らせていた.昔から蕗も大きな葉を地面の上に広げて群生しているが,この煮物もずいぶんと口にしていなかったので,懐かしい味がした.雑草を片づけて,少々のトマトやきゅうりなどの野菜の苗を植えた.夏には実をつけることだろう.

 

ご近所さんの育てているラズベリーやブルーベリー,小ぶりないちごなどが青い実を結び始めている.気が滅入っていても,なんとか外に出るとこれらが目に入って少し救われるような思いがする.植物の力は偉大である.そういえば以前,友人から鉢植えでレモンの木を育てるとじっさいに実るし楽しいという話を聞いたことがある.部屋も明るくなるだろうか.

 

わたしは冬の生まれだからか,自分では寒い季節のほうが好きだと思っている.関東では雲ひとつない青空の広がる日がずっと続き,深く吸い込むと肺に沁みるような清冽な空気はからっとして気持ちがよい.たまに雪の降り積もる年もあるが,一夜にして窓の外の景色が一面に陽光をはね返す白で覆われてしまうのを目の当たりにするのは,幼少のときから少しも変わらず心躍る経験だと思う.夏は蒸し暑く,外を出歩くと汗が噴き出してくるのが不愉快であるし,実家にいたころは庭の雑草が日ごとに芽吹いては伸び,樹木は好き勝手にこんもりと繁り,また虫が,とくに蚊が多くて寝苦しくもあった(それにしても,あの蚊の鳴く音のなんと耳障りなことか).

 

それでも,季節の変わり目にあたるこの頃というのは,どうしてもじきに到来する夏に対して,なにか理想的な期待を抱きたくなる時期だ.といっても別にメディアの騒ぎ立てるようなひととの出会いとか,とくにそういうものではないけれど.季節というのも不思議なもので,内心わくわくしながらそれを待ち構えているうちに,気づけば終わりに差しかかっているというような,そういうたぐいのものである.よく春や秋は短くて,もう夏だ,もう冬だ,と言われるのを耳にするが,わたしにとっては,四季のどれも同じように短いように思われてならない.

 

道の向こう,建物の陰から立ち上がっている入道雲が目に入るとわくわくしてくる.あんなに厚みがあって陰翳がくっきりとわかり,まるでそびえ立つ山のような存在感を示す雲が見られるのも,これからの季節だけである.ほんとうはビルもなにもない,だだっ広い草原で,地平線の下から湧き上がるそれを眺めていたいような気もするが,とりあえず東京にいるなら仕方がない.それからもちろん,積乱雲は夕立を連れてきてくれる.外にいるとちょっと悲惨な目に遭うかもしれないが,屋内ならこれほど愉快なこともないと思う.猛烈な雨がたちまちアスファルトの熱を奪い,その叩きつけられる音が耳に心地よく響く.窓の外へぼーっと顔を向けていると稲妻の走るのが見えるかもしれない.昔から雷の好きな子どもだったように記憶している.雨雲が過ぎ去ると,雲間から光の帯が細く差し込んでくるのが見えるだろう.外に出れば,冷えて湿った外気がむき出しの温い肌にまとわりつき,雨と陽の入り混じった匂いが鼻をつくはずだ.

 

さて,雨ということで,書いているうちに『群青日和』を聴いたり『言の葉の庭』を観たりしたくなった.みなさんは夏の雨はお好きであろうか.そういえば,マルグリット・デュラスには『夏の雨』という小説があったのをたったいま思い出した,これはおもしろいです.まとまりがないけど終わり.タイトルは斎藤茂吉『白桃』より.

本好きの幸と不幸

この記事であるが,ちょこちょこいじるうちに,書き始めてからとうとう三ヶ月も寝かせてしまった(時季のことなのに!).いつまでも下書きで引っ張るわけにもいかないので,そろそろ公開する.

 

京都で,みながよくやるように持て余した時間を使って鴨川の河川敷を歩いていた.なにせ寒かったものだから,ひとの姿もまばらであった.わきの小さな流れの底に凧がへばりついて,その尾がひらひらと揺れていた.並行して流れる(あの『高瀬舟』の)高瀬川沿いをしばらく散策したりもした.川のある街というのはすてきではないかと思う.粉雪の舞うなか永観堂へ参ったりもしたが,ぼんやりと水の流れ落ちる音が聞こえ,奥まったほうへ歩いていくと,小さな滝があったのだった.ほかに誰もおらず,しばらくその前でぼーっと佇んでいた.水の流れは定常であっても平衡ではない.『方丈記』を引くまでもないが,そこには動き,場所を変え続けるものの新しさ,絶え間ない更新性のようなものが感じられる.わたしはわたしの外からやってくる新しさに,いつでも揺さぶられるような気がしている.そういうわけで,わたしは河川に惹きつけられるのかもしれない.

 

気だるい休日になにかしら行動を起こすには,一定の気力を必要とする.正直なところ,本を開くのにも一苦労するのだが,それでも,いったん読み始めてしまえばわりと入っていける.わたしには,言葉のそのままの意味で,自分にはなにもないという感覚が根強い.それゆえ,外部から摂取する文章は新鮮さをもってわたしに迫り,強く影響を与え,わたしをその度ごとに様々に異なった心持ちにしてくれる.それは何度読み返した本であろうと変わることはないし,きっと,すべて憶えた本でもそうではないだろうか.言葉がひとの認識を縛る力ほど強力なものもない.読んだ言葉は,すっかりわたしを満たす.「ゆく河の流れ」に臨むときと対照させても,そう大きく外れてはいまい.その感覚が好きで,わたしは本を読む.

 

本のことについてなにか書いてみたいと,いつも漠然と思っている.定義から始めるならば,ここでいう本好きとは,日に日に部屋の空間を書物が浸食していき,そのうち主人の寝る場所がなくなるのではないか,終いには(紀田純一郎『古本屋探偵の事件簿』の「書鬼」のごとく)その重みで家がどうかなるのではないかなどと考えているひとのことである.ちなみに,もちろん条件は建物によってまちまちであろうが,そんなに頑強な建築でないなら,床が抜けることを危惧し始めるのは五千冊くらいからであるらしい.わたしなどもっているのは文庫ばかりであるし,(たぶん)未だ千にも満たないくらいなのでまだまだであろう.いまの部屋で冊数を五倍にしたら,文字通り足の踏み場はなく,とうてい生活ができなくなることは間違いない.将来的には書庫が欲しいと思っている.

 

本好きの不幸のひとつは,つねに興味があらゆる方向へ広がっていくことにあるだろう.この運動はある本のリファレンスからまた別の本,そしてまたリファレンスへと,留まることを知らないものだ.全体への志向とでも言おうか.人間の幸せの一端は,なにかに「ハマる」ということが担っている.拡散と集中とのあいだでうまい収まりどころを見つけなければならない.読むことが拡散的である一方,書くことは集中的であるような気がする.一般的に無からなにかを創ることは集中的であり,それもまた大切なことだ.

 

むかし,新聞の広告で『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズの発刊を知り,なんとなくおもしろそうだと思って買いに走って読んだところ嵌ってしまったのを思い出す.それからしばらく古書もの,愛書ものを読んでいた.『せどり男爵数奇譚』などの,古本マニアの狂気じみた生態を垣間見る古書ミステリもよいのだが,もっとしみじみとした,本好きの悲しい性癖を感じないわけにゆかないような作品もまたよい.古いものだとフローベール『愛書狂』がもっとも有名であるような気がするが,わたしのお気に入りはアナトール・フランスシルヴェストル・ボナールの罪』である.同好の士は,手にとられるとなにか感じるところがあるかもしれない.

 

ところで,わたしは初版本や稀覯本には特に興味が湧かないが,古書店を巡っていてたまに安価な絶版本を見つけることができるとやはり嬉しくなる.例えば新潮文庫で挙げるなら,アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ』,マラマッド『マラマッド短篇集』,マルロー『人間の条件』などがある.

雑記,というより断片

無聊を持て余している.だんだんと日記や Twitter との区別がつかなくなってくるかもしれないが,まあそれでもよかろう.

 

家の近所の方で,プランターや植木鉢をたくさん並べて幾種類もの植物を育てておられるひとがいる.ついこの間まで葉のすべて落ちたか細い枝えだは寒々しく,枯れてしまったのではないかとすら思えたが,いまや若々しい緑色を茂らせており,その見た目の嵩の違いは驚くほどである.そういえば,街路わきに植えられているツツジは鮮やかな花を咲かせていたが,それもだんだんと萎れてきた.時の経つのは早い.田舎育ちのわりに草木の名前をたいして知らないのは恥ずかしい気がするので,ちゃんと覚えようと思う今日この頃.

 

先日,気分が沈んでいるときにふと『暗夜行路』を引っぱり出して読み始めた.ページを繰るうちに気持ちがすーっと落ち着いてくるような,とてもよい作品である.どの一部分を切り出してきて読んでも価値があると感じられるような,そういう小説が好みだ.プロットあるいは内容がおもしろいと言われるような作品はだいたいそんなにおもしろくはない.筋に少しでもリアリティの欠如が感じられるとすぐに醒めて投げ出したくなってしまう.「深さ」や「全体」はたいてい胡散臭いもので,より大切なのは「表層」や「部分」のほうだ.

 

ひとと会うのは重労働だ,会う前から疲れている.誰かと相対していて,相手のちょっとした仕草や振る舞い,発話の断片などに嫌悪そして失望を覚えることもあるだろう.わたしは厭な人間なので,ひとの長所よりも気に障るところばかり目につくのだ.しかし,そうしたことからすぐに,内心で相手を切り捨ててしまうことは避けたほうがよかろうと思う.ある程度の期間は付き合ってみないことには,人間のことなどわかるものではない.簡単に割り切らないこと.それにわたしは,なにかもっと根っこのところで,どうしても人間が好きな気がする.

 

話題の『リズと青い鳥』を観た.初見のときはやや引き伸ばしすぎではないかと感じられたが,二回目の鑑賞では強く印象に残った.儚げな画がとても作品に合っていてきれいだし,その動きも感情を語りだすよう非常に繊細に作られている.例えばみぞれの髪の数本が浮いている無頓着な感じや,横に垂れた髪を触る癖など,こちらに訴えかけるものがある.みぞれは周りに無関心なようでいてその実よく見ており,真似するのが好きである.本作では図書委員とのくだりや「ハッピーアイスクリーム」であろうが,そういえば本編でも,大会後に握りこぶしを仲間と合わせるのにはまっていたのではなかったか.オーボエのソロも圧倒されるものがあった.ヴァイオリンではないが,まさに「節ながき啜泣」のごとく歌い上げる,彼女のその表情は物悲しげに映った.

 

都美術館のプーシキン美術館展へ足を運んだ.けっこう楽しめたし,図録の装丁もお洒落で,ロシアに関連するグッズも並んでいたりするのでおすすめである.ところで,わたしはセザンヌを見ると小林秀雄『近代絵画』とメルロ=ポンティ『眼と精神』が頭に浮かんでくる.同時代のルノワールが明朗な社交家であり,そして若く美しい女性の身体を豊穣なる色彩に描いたのと対照的に,セザンヌは大の人間嫌いで気難し屋,その求めるところはモチーフの本質へと内向的にずんずん下っていく.この画家の描こうとしたものはいったい何なのか,そのいわく言い表し難い様相はいかにも分析好きな批評家や哲学者を惹きつけそうである.後者の扉には次の引用がある(みすず書房より).

「私があなたに翻訳してみせようとしているものは,もっと神秘的であり,存在の根そのもの,感覚の感知しがたい源泉と絡みあっているのです.」

J・ガスケ『セザンヌ』 

この詩人ガスケによる画家の回想録は,小林も折に触れて引いている.分析の糸口としては,まず画家自身の言葉に耳を傾けなければならないだろう.この機会に岩波文庫版を買ってしまおうと思ったのだが,なんと絶版になっており,Amazon ではプレミアがついている.本は少しでも欲しいと感じたときが買いどきである.

「人薬」の験あらたか

ひとと会うとたいがいはなんともいえない居心地の悪さを覚えるわたしであるが,そのぶんたまには感動するほどの出会いもある.これほどに気分がよくてはしゃいでいるのはほんとうに久しぶりかもしれないので,書き留めておくのも悪くないだろう.「人薬(ひとぐすり)」というのは精神科医斎藤環が著書でよく持ち出す概念だが,よかれ悪しかれやはりひとの精神に大きな影響を与えるのは同じひととのやりとりなのであろう.

 

いつも通り虚無を煮詰めたような朝を迎え,晴れやかな空のもと最終日であるらしい池袋西口公園の古本市をさまよって子規の歌集など手にとっていたが,ひょんなことから友人とカフェで作業することになった.これはどうでもいいことだが,彼は首にチョーカーを巻きヘットフォンをかけている.ひとがひとを判断するのに第一印象は極めて重要な材料となるのだから,身なりによる差別化は有効な手段であると,いたって当たり前なことを今更に納得する.わたしもブログの記事をプリントしたTシャツを着るべきかもしれない.あと,もっとどうでもいいけれど,彼に「おまえ声出てなくない?」と言われてしまった.ほんとうにひとは声の出し方を忘れるのである.

 

閑話休題.差し出がましいことだが,彼が別の友人ふたりとご飯に行くというのにご一緒させてもらうことにした(いつでも人恋しいので).一抹の不安と期待を抱えつつ実際に話してみると,それぞれ煙草を喫むひとと三島を好むひとであったので,ごくごく自然に信頼することができた.わたしの乏しい経験に照らして,喫煙者と三島を読むひとにろくなのはいない.急いでつけ加えるが,これはもちろん褒め言葉である.あまり内容を詳らかにはできないのでもどかしいところだが,久方ぶりに邪悪で愉快な会話ができて数ヶ月ぶんは笑えた.あるひとの見た目から受ける印象が,話すにしたがって明らかになる内面からのそれと著しく乖離していくのを目の当たりにするのは実におもしろい体験である.もちろんこれはわたしの側からの勝手な像の構成にすぎないことは承知しているが,今日わたしは『禁色』の南悠一のごとき人間に出会ったような気がしたのだ.少なくともわたしのこの感動そのものは錯覚ではありえないのだから,それはそれで大切にするとしよう.

 

「生きていればなにかしらいいことがある」などというのは虚言だと信じているが,生きていれば存外いいこともあるらしい.とりあえずしばらくは生きていてもよさそうだ.あと,もう少し活動的になりたい.終わり.

吉本隆明『エリアンの手記と詩』

軒場の燕の掛巣などを

珍らしげに確かめていたおまえの影よ!

 

おまえは何かを忘れてきたように

視えたものだ!

抱えこむような手振りで

けれど何も持つてはいなかつた

あずけるような瞳で

けれど何も視てはいなかつた

それから

亀甲模様の敷石によろめいたりして

おまえの肢は重たそうだつた

 

誰も知らなかつたろう

あふれるもの想いが

おまえの影を浸していることなんか

風が思いがけない色彩をして

おまえを除けていつたことなんか……

 

いつか友人にこれを薦めたことがあったが,酒の席であったし,たしか夜通し飲んでいたはずだからどうせ憶えていないであろう.ここに書き留めておけばそのうち目に触れることになるだろうから,都合がよい.面と向かって以前にも一度したことのある話をくり返すのは間が抜けている.

 

 本作は戦後詩壇を代表する詩人である吉本隆明の,最初期の長篇散文詩である.くり返し読み込んだ作品なので,愛着がある.これを読まれる同年代の方々に自信をもって薦めたい.わたしは吉本隆明の詩が好きで,まえから詩全集を手元に揃えたいと思っているのだが,費用と置き場所のことを考慮するにいまだ果たせずにいる.詩を紹介するにあたって下手な解説を添える愚を犯したくはないが,本作ならばいささかやり易かろうと思われる.詩であることに間違いはないのだが,読んでいくとストーリーがあるということが明確にわかり,なかばは小説のようでもあるのだ.上に引いたのは主人公エリアンが最後にものする詩の一部で,いわば「詩中詩」である.

 

本作はとにかく暗い,どうしようもないほどに暗い.まったくおどけたところもなく,まじめで思い詰めている.若き日の詩人が,絶望と深刻さのどん底で綴っているような印象を受ける.ある程度,吉本本人の遍歴に重なるところもあるようだ.思いをのせた硬質で怜悧な言葉は,壮烈にひたむきさや切実さを伝えてくれる.全体を総合すると一種のビルドゥングスロマンのような構成になっており,わたしの感覚ではヘッセの小説,例えば『トニオ・クレエゲル』や『デミアン』などと雰囲気が似通っているように思える.

 

十六歳のエリアンは,イザベル・オト先生のところで詩を教わっていて,そこで一緒のミリカを秘かに恋している.「如何に細い計算をしても意識は死の方へ流れてい」くような気質のエリアンは,オト先生もやはりミリカを恋していることを告げられ,ある日ついに小刀で咽喉を突くが,死にきれない.病院で目覚めたエリアンは,傷が癒えたら都を離れることを心に決め,退院すると遠い北国へ旅立つ.そこで孤独を噛み締めつつどうにか暮らすうちに成長したエリアンは,都のミリカへ便りを送る.オト先生からの年長者としての便りと,病を得たミリカからの便りが最後に添えられている.先生の慈しみにあふれた助言は胸を打つものであり,とくに「イエスではなくパウロのように生きなさい」というくだりは印象深い.気に入った箇所を引いているときりがないし疲れるので,オト先生の詩をだけ引用して終わろう.

 

お聴きよ!

おまえの微かな魂の唱……

夜更けの風の響きにつれて

さだかならぬ不安を呼び寄せている

 

〈エリアン!〉

みしらぬ愛の戦きをいつ覚えた?

未だ言葉も識らないのに

どうやつて伝える?

 

さりげない物語が

異様なおまえの重たさを運んで

いつたどり着くのか

 

なりわいも苦しさも知らぬ

ひとりの少女のところへ!

 

〈エリアン!〉

おまえは未だわからないのだ

おまえの求めているものが

天上のものか地にあるものか

 

それから

おまえの想うひとりのひとが

はたして

そのように美しい魂なのか……