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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』

 

ウィステリアと三人の女たち

ウィステリアと三人の女たち

 

 

それを読むことそのものが愉悦であるようなひとつづきの文章というのがある.そういう言葉の連なりに運よくめぐり逢い,自分がすっかり満たされてしまうあの恍惚とした体験を,わたしはいつもどこでも待ち望んでいる.このたび出会った一冊は,さいきん出版された川上未映子による本短篇集である.

内容紹介:

 どんな夜にも光はあるし、どんな小さな窓からでも、その光は入ってくるのだから――。
真夜中、解体されゆく家に入りこんだわたしに、女たちの失われた時がやってくる。三月の死、愛おしい生のきらめき、ほんとうの名前、めぐりあう記憶……。人生のエピファニーを鮮やかに掬いあげた著者の最高傑作。

 

これを手にとったきっかけは,あの蓮實重彥が書評において手放しで絶賛しているのを読んだことである(本筋とは関わりのないことだけれど,二年前に三島賞を受けて記者会見がはちゃめちゃにおもしろかった『伯爵夫人』をいまごろようやく読みました,話題になっているうちは手をふれない天邪鬼なので).ほんとうにすばらしい読書ができた.文章はこなれているから,読もうと思えばするするとすぐに終えられてしまうであろうが,ページを繰るのがどうにも惜しくて,まえへ戻ったり,声に出したりしながらゆっくりと読んでいた.

書評のリンクはこちら.

素晴らしきものへの敬意 蓮實重彦――『ウィステリアと三人の女たち』川上未映子 | レビュー | Book Bang -ブックバン-

 いまあらためて目を通すと,蓮實御大の仰ることでわたしのいい表したいことはすべて尽きているような気がするので,とりあえずこのレビューを読んでみてほしい.そして興味をそそられた方が,この新著を手にとっていただければ,わたしは嬉しい.

 

さて最後に,わたしも作品に「敬意」を表して,ほんの些細なことではあるが,印象深い一節を引用したい.短篇『彼女と彼女の記憶について』より.

 それからわたしたちは,かつてどこかで同級生だった人たちがするような他愛のない話をしたけれど,こういう場合にありがちな,誰がいまどこでどうしているとか,あのとき誰と誰がどうだったとか,そんな話にはならなかった.彼女は購買部で売っていたパンの種類のことを話し,保健室の真ん中にあった不思議な柱のことについて話し,それから一年の一学期の美術の時間に写生した神社について話し,そして今からじゃ到底考えられないけれど,ブルマという下着となんら変わらないかっこうで体育をやらされていたということについて話をした.

 いいなあと思った.わたしもかつての同級生と(あるいは将来にいまの同期と)いつか会うことがあれば,「誰がいまどこでどうしているとか」の話もまあ悪くはないけれど,どちらかといえば「一年の一学期の美術の時間に写生した神社について」とか,ある意味においてどうでもいいような話がしたいなあと思う.

24時間営業のファミレスはとてもありがたい(と,すこし映画のこと)

インターネットには一切の人間味を感じさせないひとというのがたまにいるものである.生活感や私情をその投稿のどこにも読みとることができず,ただその類いまれなる日本語のセンスだけで勝負しているような,そういうひと.正直けっこう憧れるところがあるのだが,こんなところである程度の長さの散文を綴ってしまっているわたしには,どだい不可能なことだと諦めるほかはない.人間っぽいのはダサいと思うけれど,わたしは根っから人間っぽいようだし,やっぱり人間が好きである.それに非人間の道は,おそらく自死へつながる道なのではないかという気がしなくもない.

 

上はただの思いつきで,深夜のファミレスにこもるのが好きという話.24時間営業を縮小するファミレスチェーンが多いなか,近所のところは変わらずやってくれており,わたしにとっては嬉しいかぎりである.大学生活を送るなかで,レポートを書いたり,なにか計算をしたり,本を読んだり,書きものをしたり,ずいぶんとお世話になってきている.ひとはまばらで机は広く,コーヒーや紅茶はいくらでも飲めるし,家と違ってすぐ寝転がってしまうようなこともない.それから,大学が比較的そばにあるからかもしれないが,ひとりでなにやら勉強しているらしき同類が大抵いるので,なんとなしに心強い(?).仲間に見張られているというような感覚は,集中を保つうえで役に立つ.不思議とマイノリティー同士の連帯感みたいなものを(わたしが勝手に)感じるのだ,喫煙所と同じである(知らないけど).

 

長いこと通っていると,深夜ということも手伝ってか,ちょっと特殊な場面に出くわすこともある.別れ話(かそれに準ずるもの)をしているらしきカップルの,女性のすすり泣きが聞こえてくることが数回あった.両親と高校生くらいの娘が非常に深刻そうな雰囲気で話し合っている,その隣の席に通されたこともあった.しかしもっとも印象的だったのは,以前しばしば見かけた,五六十代の男女ふたりである.どういう間柄なのかよくわからないが,とても夜遅くに来店して,女性のほうが露骨に性的な話をしていたのが強烈でよく憶えている.いつだったかある日の朝早く,近隣を歩いていたところ道端に救急車が停まっており,何人かの救急隊員に交じって件の女性が立っているのを見かけた.おそらくあれ以来,ふたりの姿を目にしていない.

 

それにしても,夜中から東の空が白みはじめるまでのあいだというのは魅惑的な時間帯である.まともな社会はすっかり眠ってしまっているわけで,ひとびとは日中の義務から解き放たれて自由になる.そしてどこか人知れぬ場所で,非日常への裂け目が口を開ける予感がする.都市におけるこうした空気を描きだした作品として,村上春樹アフターダーク』が頭に浮かんだ(ちなみに映画なら,スコセッシの名作『アフターアワーズ』だろうか).日付が変わるころの都会のファミレスで,ひとりハードカバーを読み耽る女性,そこへ男がやってきて彼女に声をかける,ここに始まる陽が昇るまでの一夜の物語.いま読み返すとハルキ節がいささか鼻につくけれども,でもそれがうまく決まっている箇所もあって悪くない.

「しかし裁判所に通って,関係者の証言を聞き,検事の論告や弁護士の弁論を聞き,本人の陳述を聞いているうちに,どうも自信が持てなくなってきた.つまりさ,なんかこんな風に思うようになってきたんだ.二つの世界を隔てる壁なんてものは,実際には存在しないのかもしれないぞって.もしあったとしても,はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない.ひょいともたれかかったとたんに,突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない.というか,僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに,そのことに気づいていないだけなのかもしれない.そういう気持ちがしてきたんだ.言葉で説明するのはむずかしいんだけどね」

 

最後に,本題とはぜんぜん関係ないけれども,さいきん観て好みだった映画をいくつか書き出してみたい.

あの @kentz1 氏がずいぶん浸っていたようだったので.とてもすてきな作品.舞台は美しい緑に陽の光がさんさんと注ぐ1980年代の北イタリア.ふたりの青年の出会い,書物,ギター,ピアノ,たまに水泳.瑞々しく早熟なアプリコット.きっとみなさんもお好きなはず.

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大学の先輩が推していたので.これもすごくよかった.教師を辞し,蕎麦屋で働いていた女性だが,そのお店も畳まれることに.そんな彼女が巡る,ありふれていそうでなさそうな,静かな人間模様.川上弘美的だと思った,わたしは川上弘美が好きだ.挿入歌の「書を持ち僕は旅に出る」もすてきな曲.

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  • 『少女』

湊かなえ原作.女学院高校に通う,死に憑りつかれた多感なふたりの少女のお話.個人的に『告白』よりずっとよかった.

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退職した刑事と余命いくばくもないその妻.ラストシーンは波の打ち寄せる晴れやかな海岸,キタノブルー久石譲の音楽があまりにもズルい.ヒロインの台詞がたった二言しかない.ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞.

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浅田次郎原作.北海道のとある鄙びた終着駅をずっと守ってきた「ぽっぽや」も定年間近.詩情ゆたかな雪景色のカット.(たぶん)18歳の広末涼子がかわいらしい.

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『長谷川龍生詩集』現代詩文庫

 

長谷川竜生詩集 (現代詩文庫 第 1期18)

長谷川竜生詩集 (現代詩文庫 第 1期18)

 

 

先日,Twitter 上でかの有名な(?)@fumiya_iwakura 氏が,長谷川龍生と関根弘のある対談の一部を抜粋して投稿していたのが,思わず手を叩いて笑いたくなるくらいおもしろかったので,さっそくそれが収録されている現代詩文庫の『長谷川龍生詩集』を手に入れて読んでみた.わたしの気に入った箇所をここにも引用してみたい.詩集なのに詩を引かないけれども,悪しからず.件の対談より.

 

関根 じゃ,まあね,詩をなぜ書くかと言われたら,ひとことでなんと答えますか?

長谷川 そうね,復讐かな.

関根 何に対する復讐?

長谷川 自分自身以外のもの…….

 関根 ひとの評判を気にしますか.

長谷川 非常に気にするときと,ポカーッと抜けたときと,時期によってちがいますね.しかしほとんど評判されたことがないから.孤立無援だからね.昔から.だから,まあいいんじゃない?……孤立無援だよね.

関根 遊ぶことは好き?

長谷川 あんまり好きじゃない.

関根 仕事は好きなの?

長谷川 仕事も好きじゃない.

関根 一番なにが好きなの?

長谷川 ……

関根 どういう状態が一番,自分にとってはいい状態なの?

長谷川 やっぱり自閉症だからね.みずから閉じるという…….一つのことに熱中するということですね.それが自分の気に入ったことであるという…….

関根 じゃ,日本の家屋なんていうのはあんまり好きじゃない?

長谷川 ……

関根 ホテルは好き?

長谷川 ホテルあんまり好きじゃない.日本の家屋も好きじゃないですね.

関根 密室?

長谷川 密室ですね,そう,密室ですね.

関根 密室,好きでしょう.

長谷川 非常に古くさいような,暗いとこね.

関根 密室でお酒飲むなんてことないの?

長谷川 ありますね.そりゃありますね.

関根 そうしてこう,幻想をたのしむという…….

長谷川 うん,たのしむっていうの,あるね.

関根 しょっちゅう?

長谷川 しょっちゅうね.毎晩ねる前には幻想をたのしむってことあるね.だから,ちょっと病気になって,二,三日会社休んで,ゆっくり幻想にひたれるっていうのはこれはまあ,まったくすばらしいことだなあ.

 関根 (略)……それから,ちょいちょい自殺したがってるねえ.

長谷川 うん.

関根 いまでも自殺したいですか.

長谷川 そうねえ,やっぱり,自殺したいような気持になることがあるね.

関根 どうしてえ?

長谷川 エッ?

関根 どういうときに?

長谷川 そりゃあやっぱり,才能もないし,それから,生きる力もないし,誰からも愛されないし,自分自身で一人で生きていこうという強固な精神も,やっぱり,疲労してくると衰弱するしね.だから,思い残すことがなにもない時があるわけですよ.そういう時はやっぱり,飛躍しそうな時がありますね.たいへんもう,いまになって自殺にあこがれをもつなんて,古くて,古めかしくて,はずかしいようだけれども,ピュウーッとなにか,入ってくるときがあるね.

関根 人を殺したくなることはありますか.

長谷川 ありますねえ,それはもうしょっちゅうありますねえ.

関根 特に憎いのは?

長谷川 特に憎いのはねえ,いるねえやっぱりたくさん…….文学のわからない奴は全部殺してやりたいねえ(笑).

関根 じゃまあ……会社で働いてんのは,あんまり好きじゃないわけ?

長谷川 好きじゃないね.

 

自伝「自閉症異聞」より.

私は,小さい時から,そのような環境の中で,自らと世の中との通路を閉ぢた.明らかに自閉症として,詩人の道をえらんだ.しかし,自閉症としては生きていくことはできない.私はそこで亡霊を創造した.現在,街をあるいたり,会社に勤めたり,他人と会話したりしているのは,私の亡霊である.亡霊だけが,自閉症の壁を,何んの制約もなくすり抜けていくことができ,社会への唯一の交流媒体として働いている.

私の深き欲望とは,自閉症にかかっている真の私の存在と,社会に仮の姿として行動している私という亡霊の存在を逆転することにある.

人間,最期に,勝てばいいのだ.暗い,狂った,呪われた,被害妄想の人生の最後の時間には,颯爽たる加害者でありたいと思う.

自閉症としての生涯における,反自閉症としての明るい一日,それが私の目的である. 

 

久しぶりに朝まで飲んだ

さほど友人が多くもなく出不精であるわたしにとっては,ときたま気心の知れた人間と飲みに行くだけでもそれなりに特筆すべきイベントである.よい酒席というのはなにかしら感銘を与えてくれて,まあ,さしあたり明日からもまた生きていくかという気分にさせてくれる.せっかくなので,ちょっと筆を執ることにした.

 

今日は出かける予定もあるし,このあいだ珍しく買った煙草の残りもひとりでは喫まないし,というわけで久々に友人を誘うことにした.摂食が苦手なので夕方になってもろくになにも口にしておらず,コンビニで景気づけにストロングゼロを買って呷りながら大学の周りを彷徨っていたら気分が悪くなった,当たり前である.わたしはもちろんおいしいお酒は好きだが,舌に露骨にエタノールを感じるタイプのお酒も自傷の感があってそれはそれで悪くない(さいきんは強くて安いチューハイなどがぞくぞくとお店に並べられつつあるが,終末っぽくてよい).それと,図書館で借りた大量のハードカバーが重かった,もうすこし先のことを考えて行動しないといけないと思う.不忍池をぐるりとまわると,蓮の葉がずいぶんと繁茂してきているのが見える.てきとうに時間を潰して合流する.

 

娘の名前は万葉集からとろうとか(結婚できると思っているのか),漢字の部首で一番好きなのはどれかとか,牛丼には無限に七味をかけるとか,玉音放送のどこがお気に入りかとか,パンクロッカーは二十代で死なねばならないとか,古井由吉が読めるのは日本語話者の喜びだとか,大江の『われらの時代』を読めとか,コードギアスはおもしろいから観ろとかとか,いろいろ話したのだが,たぶん一番盛り上がってえんえんと続いたのが部落についての話である.ふたりともけっこうな田舎の出身なので,地元に暮らしていたころの思い出話をすると自然に(?)部落の話題が出て,これがそこそこ通じるのだ.東京の大学に来てこれはなかなかに稀有な体験であろう.やはり,もつべきはお互いに部落の話ができる友人である.もっとも,わたしは関東で彼は関西ということもあってか,被差別部落ということになると彼のほうがより問題を身近に感じながら育ってきたようである.

 

さて,なんでもかんでも本に結びつけてしまうのがわたしの悪いところであり,こういう談笑のなかで頭に浮かんだのが,野間宏『青年の環』であった.サルトルのいう「全体小説」を,野間が二十年以上を費やして実践した畢竟の大作八千枚である.第二次大戦が始まる年の大阪を舞台に,被差別部落解放運動が描かれる.これがとにかく尋常でなく長い,たぶん『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』をつなげたくらいに長い.サルトルの『自由への道』でさえ,まあ,「分別ざかり」まででいいか,と投げてしまったかたは多いはずである(わたしもそう).以前,岩波書店が出している「図書」の臨時号に「岩波文庫 私の三冊」という特集があり,たいへんおもしろく読んだのだが,この冊子のなかで熊野純彦が挙げていたうちの一冊が『青年の環』であった.いわく,大学生のときにこれが岩波文庫に入り,二晩徹夜して全五巻を読み通したそうなのだが,三日で読めるものなのかと驚いた覚えがある.

 

実は,岩波文庫の全五巻セットが大学近くの古書店にお手頃な価格で並べてあるのを知っている.はたして買うべきだろうか.でもわたしのことだから,きっと買うのだろうな.いや,それにしても外的な経験をその通りに書き起こすのはほんとうに楽である.いつもこのくらい筆がするすると動いてくれると嬉しいのだが.終わり.

あつき日は心ととのふる術もなし心のまにまみだれつつ居り

このあいだの連休ですこし実家へ戻り,久しぶりに間近で生い茂る植物を見るような思いがした.きれいに晴れて,ときおり着衣の下を吹き抜ける風が汗を乾かしていく日であった.とくに柿の木は,年季が入ってごつごつした,あまり健康そうには見えない樹皮と裏腹に,先のほうから細い枝を長く伸ばし,若々しい黄緑色の葉をたくさん茂らせていた.昔から蕗も大きな葉を地面の上に広げて群生しているが,この煮物もずいぶんと口にしていなかったので,懐かしい味がした.雑草を片づけて,少々のトマトやきゅうりなどの野菜の苗を植えた.夏には実をつけることだろう.

 

ご近所さんの育てているラズベリーやブルーベリー,小ぶりないちごなどが青い実を結び始めている.気が滅入っていても,なんとか外に出るとこれらが目に入って少し救われるような思いがする.植物の力は偉大である.そういえば以前,友人から鉢植えでレモンの木を育てるとじっさいに実るし楽しいという話を聞いたことがある.部屋も明るくなるだろうか.

 

わたしは冬の生まれだからか,自分では寒い季節のほうが好きだと思っている.関東では雲ひとつない青空の広がる日がずっと続き,深く吸い込むと肺に沁みるような清冽な空気はからっとして気持ちがよい.たまに雪の降り積もる年もあるが,一夜にして窓の外の景色が一面に陽光をはね返す白で覆われてしまうのを目の当たりにするのは,幼少のときから少しも変わらず心躍る経験だと思う.夏は蒸し暑く,外を出歩くと汗が噴き出してくるのが不愉快であるし,実家にいたころは庭の雑草が日ごとに芽吹いては伸び,樹木は好き勝手にこんもりと繁り,また虫が,とくに蚊が多くて寝苦しくもあった(それにしても,あの蚊の鳴く音のなんと耳障りなことか).

 

それでも,季節の変わり目にあたるこの頃というのは,どうしてもじきに到来する夏に対して,なにか理想的な期待を抱きたくなる時期だ.といっても別にメディアの騒ぎ立てるようなひととの出会いとか,とくにそういうものではないけれど.季節というのも不思議なもので,内心わくわくしながらそれを待ち構えているうちに,気づけば終わりに差しかかっているというような,そういうたぐいのものである.よく春や秋は短くて,もう夏だ,もう冬だ,と言われるのを耳にするが,わたしにとっては,四季のどれも同じように短いように思われてならない.

 

道の向こう,建物の陰から立ち上がっている入道雲が目に入るとわくわくしてくる.あんなに厚みがあって陰翳がくっきりとわかり,まるでそびえ立つ山のような存在感を示す雲が見られるのも,これからの季節だけである.ほんとうはビルもなにもない,だだっ広い草原で,地平線の下から湧き上がるそれを眺めていたいような気もするが,とりあえず東京にいるなら仕方がない.それからもちろん,積乱雲は夕立を連れてきてくれる.外にいるとちょっと悲惨な目に遭うかもしれないが,屋内ならこれほど愉快なこともないと思う.猛烈な雨がたちまちアスファルトの熱を奪い,その叩きつけられる音が耳に心地よく響く.窓の外へぼーっと顔を向けていると稲妻の走るのが見えるかもしれない.昔から雷の好きな子どもだったように記憶している.雨雲が過ぎ去ると,雲間から光の帯が細く差し込んでくるのが見えるだろう.外に出れば,冷えて湿った外気がむき出しの温い肌にまとわりつき,雨と陽の入り混じった匂いが鼻をつくはずだ.

 

さて,雨ということで,書いているうちに『群青日和』を聴いたり『言の葉の庭』を観たりしたくなった.みなさんは夏の雨はお好きであろうか.そういえば,マルグリット・デュラスには『夏の雨』という小説があったのをたったいま思い出した,これはおもしろいです.まとまりがないけど終わり.タイトルは斎藤茂吉『白桃』より.

本好きの幸と不幸

この記事であるが,ちょこちょこいじるうちに,書き始めてからとうとう三ヶ月も寝かせてしまった(時季のことなのに!).いつまでも下書きで引っ張るわけにもいかないので,そろそろ公開する.

 

京都で,みながよくやるように持て余した時間を使って鴨川の河川敷を歩いていた.なにせ寒かったものだから,ひとの姿もまばらであった.わきの小さな流れの底に凧がへばりついて,その尾がひらひらと揺れていた.並行して流れる(あの『高瀬舟』の)高瀬川沿いをしばらく散策したりもした.川のある街というのはすてきではないかと思う.粉雪の舞うなか永観堂へ参ったりもしたが,ぼんやりと水の流れ落ちる音が聞こえ,奥まったほうへ歩いていくと,小さな滝があったのだった.ほかに誰もおらず,しばらくその前でぼーっと佇んでいた.水の流れは定常であっても平衡ではない.『方丈記』を引くまでもないが,そこには動き,場所を変え続けるものの新しさ,絶え間ない更新性のようなものが感じられる.わたしはわたしの外からやってくる新しさに,いつでも揺さぶられるような気がしている.そういうわけで,わたしは河川に惹きつけられるのかもしれない.

 

気だるい休日になにかしら行動を起こすには,一定の気力を必要とする.正直なところ,本を開くのにも一苦労するのだが,それでも,いったん読み始めてしまえばわりと入っていける.わたしには,言葉のそのままの意味で,自分にはなにもないという感覚が根強い.それゆえ,外部から摂取する文章は新鮮さをもってわたしに迫り,強く影響を与え,わたしをその度ごとに様々に異なった心持ちにしてくれる.それは何度読み返した本であろうと変わることはないし,きっと,すべて憶えた本でもそうではないだろうか.言葉がひとの認識を縛る力ほど強力なものもない.読んだ言葉は,すっかりわたしを満たす.「ゆく河の流れ」に臨むときと対照させても,そう大きく外れてはいまい.その感覚が好きで,わたしは本を読む.

 

本のことについてなにか書いてみたいと,いつも漠然と思っている.定義から始めるならば,ここでいう本好きとは,日に日に部屋の空間を書物が浸食していき,そのうち主人の寝る場所がなくなるのではないか,終いには(紀田純一郎『古本屋探偵の事件簿』の「書鬼」のごとく)その重みで家がどうかなるのではないかなどと考えているひとのことである.ちなみに,もちろん条件は建物によってまちまちであろうが,そんなに頑強な建築でないなら,床が抜けることを危惧し始めるのは五千冊くらいからであるらしい.わたしなどもっているのは文庫ばかりであるし,(たぶん)未だ千にも満たないくらいなのでまだまだであろう.いまの部屋で冊数を五倍にしたら,文字通り足の踏み場はなく,とうてい生活ができなくなることは間違いない.将来的には書庫が欲しいと思っている.

 

本好きの不幸のひとつは,つねに興味があらゆる方向へ広がっていくことにあるだろう.この運動はある本のリファレンスからまた別の本,そしてまたリファレンスへと,留まることを知らないものだ.全体への志向とでも言おうか.人間の幸せの一端は,なにかに「ハマる」ということが担っている.拡散と集中とのあいだでうまい収まりどころを見つけなければならない.読むことが拡散的である一方,書くことは集中的であるような気がする.一般的に無からなにかを創ることは集中的であり,それもまた大切なことだ.

 

むかし,新聞の広告で『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズの発刊を知り,なんとなくおもしろそうだと思って買いに走って読んだところ嵌ってしまったのを思い出す.それからしばらく古書もの,愛書ものを読んでいた.『せどり男爵数奇譚』などの,古本マニアの狂気じみた生態を垣間見る古書ミステリもよいのだが,もっとしみじみとした,本好きの悲しい性癖を感じないわけにゆかないような作品もまたよい.古いものだとフローベール『愛書狂』がもっとも有名であるような気がするが,わたしのお気に入りはアナトール・フランスシルヴェストル・ボナールの罪』である.同好の士は,手にとられるとなにか感じるところがあるかもしれない.

 

ところで,わたしは初版本や稀覯本には特に興味が湧かないが,古書店を巡っていてたまに安価な絶版本を見つけることができるとやはり嬉しくなる.例えば新潮文庫で挙げるなら,アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ』,マラマッド『マラマッド短篇集』,マルロー『人間の条件』などがある.

雑記,というより断片

無聊を持て余している.だんだんと日記や Twitter との区別がつかなくなってくるかもしれないが,まあそれでもよかろう.

 

家の近所の方で,プランターや植木鉢をたくさん並べて幾種類もの植物を育てておられるひとがいる.ついこの間まで葉のすべて落ちたか細い枝えだは寒々しく,枯れてしまったのではないかとすら思えたが,いまや若々しい緑色を茂らせており,その見た目の嵩の違いは驚くほどである.そういえば,街路わきに植えられているツツジは鮮やかな花を咲かせていたが,それもだんだんと萎れてきた.時の経つのは早い.田舎育ちのわりに草木の名前をたいして知らないのは恥ずかしい気がするので,ちゃんと覚えようと思う今日この頃.

 

先日,気分が沈んでいるときにふと『暗夜行路』を引っぱり出して読み始めた.ページを繰るうちに気持ちがすーっと落ち着いてくるような,とてもよい作品である.どの一部分を切り出してきて読んでも価値があると感じられるような,そういう小説が好みだ.プロットあるいは内容がおもしろいと言われるような作品はだいたいそんなにおもしろくはない.筋に少しでもリアリティの欠如が感じられるとすぐに醒めて投げ出したくなってしまう.「深さ」や「全体」はたいてい胡散臭いもので,より大切なのは「表層」や「部分」のほうだ.

 

ひとと会うのは重労働だ,会う前から疲れている.誰かと相対していて,相手のちょっとした仕草や振る舞い,発話の断片などに嫌悪そして失望を覚えることもあるだろう.わたしは厭な人間なので,ひとの長所よりも気に障るところばかり目につくのだ.しかし,そうしたことからすぐに,内心で相手を切り捨ててしまうことは避けたほうがよかろうと思う.ある程度の期間は付き合ってみないことには,人間のことなどわかるものではない.簡単に割り切らないこと.それにわたしは,なにかもっと根っこのところで,どうしても人間が好きな気がする.

 

話題の『リズと青い鳥』を観た.初見のときはやや引き伸ばしすぎではないかと感じられたが,二回目の鑑賞では強く印象に残った.儚げな画がとても作品に合っていてきれいだし,その動きも感情を語りだすよう非常に繊細に作られている.例えばみぞれの髪の数本が浮いている無頓着な感じや,横に垂れた髪を触る癖など,こちらに訴えかけるものがある.みぞれは周りに無関心なようでいてその実よく見ており,真似するのが好きである.本作では図書委員とのくだりや「ハッピーアイスクリーム」であろうが,そういえば本編でも,大会後に握りこぶしを仲間と合わせるのにはまっていたのではなかったか.オーボエのソロも圧倒されるものがあった.ヴァイオリンではないが,まさに「節ながき啜泣」のごとく歌い上げる,彼女のその表情は物悲しげに映った.

 

都美術館のプーシキン美術館展へ足を運んだ.けっこう楽しめたし,図録の装丁もお洒落で,ロシアに関連するグッズも並んでいたりするのでおすすめである.ところで,わたしはセザンヌを見ると小林秀雄『近代絵画』とメルロ=ポンティ『眼と精神』が頭に浮かんでくる.同時代のルノワールが明朗な社交家であり,そして若く美しい女性の身体を豊穣なる色彩に描いたのと対照的に,セザンヌは大の人間嫌いで気難し屋,その求めるところはモチーフの本質へと内向的にずんずん下っていく.この画家の描こうとしたものはいったい何なのか,そのいわく言い表し難い様相はいかにも分析好きな批評家や哲学者を惹きつけそうである.後者の扉には次の引用がある(みすず書房より).

「私があなたに翻訳してみせようとしているものは,もっと神秘的であり,存在の根そのもの,感覚の感知しがたい源泉と絡みあっているのです.」

J・ガスケ『セザンヌ』 

この詩人ガスケによる画家の回想録は,小林も折に触れて引いている.分析の糸口としては,まず画家自身の言葉に耳を傾けなければならないだろう.この機会に岩波文庫版を買ってしまおうと思ったのだが,なんと絶版になっており,Amazon ではプレミアがついている.本は少しでも欲しいと感じたときが買いどきである.