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熊野純彦『メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』

 

 内容紹介:

哲学者は、客観世界や言葉として認識される以前の「ありのままの世界」を見つめなおし、世界をめぐる経験を言葉に紡ごうと試みる。それは詩人の営為と似てなくはないか? 『知覚の現象学』を元に詩的な言語が可能となるような経験とは何か、その成り立ちを問う。


 わたしは熊野さんの書く日本語がすきで,ときおり著書を手にとるのであるが,今回この小さな本を図書館で借りてきたのは,上のリンクの選書にあたって立てられた軸の最後が「詩と思想の交錯へ」というものだったことによっている.この興味深い問題設定にかんして熊野さんの考えていたことを,ほんの一端ではあろうけれども,読んでみたかった.漢字をひらがなへ開く箇所が多いというのはよく言われることであるが,じっさい,やわらかな印象を与える抒情的な文体は,本書の副題の問いに分け入るだけの力をもっているのではないか,という期待も否みがたくあった.肝心のところについてはたぶん引用しかしないけれども,それは魅力あるテクストそのものに対する敬意の表明である,と懶惰の言い訳をしておく.

 

 一書はランボーを引いて始まっている.

また見つけたぞ!        Elle est retrouvée !
—なにを?—永遠を.      — Quoi ? — l'Éternité.
それは,太陽と混じりあう    C'est la mer mêlée
海だ.             Au soleil.

ひとの生はそれぞれにかぎりのあるものなのだから,永遠とはなにかを,ほんとうはだれも知らない.ひとりも見たことがないものについて,ただことばがある.ことばだけはあるのだから,永遠とはどのようなものであるのかを,ひとは問うことができる.答えのない問いに,詩人は,けれどもひとことで応えている.海と番う太陽こそが永遠なのだ.

詩のことばは見えないものを見えるようにする.詩は世界の風景を変貌させ,世界をめぐる経験を一新する.そうしたことばこそが詩であるとするならば,詩のことばは,哲学のことばとかよいあうものではないだろうか.哲学もまた,見えないものを見ようとするこころみであり,世界を見つめなおし,世界をめぐる経験に新たな光を当てようとするいとなみであるからだ.

世界とはなにか.経験とはなにか.世界を経験するとは,なにか.こうした問いに,一挙に回答が与えられることはない.問いは,だから,繰りかえし問われる.反復して問いが問われることそのものが,ある意味では問いに対する答えとなっている.詩は答えのない問いに答えを与え,その答えそのものが,やがて問いの反復となる.哲学もまた問うことそのものであり,問いのまえで立ちつくし,繰りかえし問いつづけるこころみにほかならない.哲学的な思考のいとなみは,そのかぎりで,詩人がことばを探しもとめる場面にほど近いものとなる.世界と,世界をめぐる経験のすべてが,そこに結晶しているような一語を語りだすために,いくえにも錯綜したことばのすじみちを,あらためて辿りなおさなければならない.そのとき哲学的思考が抱えこむことになる困難は,日常の風景を反転させて,世界の相貌を一変させる一行の詩句を探しあぐねる詩人の困惑と,その質において,ほとんどひとしいものとなる.

 

日常の言葉をすり抜けてゆく経験をめぐる思考,それがなお紡ぎだす言葉の成り立ちをめざして,本論では,主に『知覚の現象学』を繙いていくことになる.非常におもしろいことに,本書で紹介されるメルロ=ポンティの身体論の一部が(文字通り)身にしみるようにわかったのである.そうざらにある体験ではなかろうから,書き残しておきたい(というか,今回はただそれが書きたかっただけだ).なぜそういうことが起きたのか.メルロ=ポンティは,わたしがまさにそれを生き,アクチュアルに経験している身体を「現象的身体」と呼び,これとたんなる物体としての客観的な身体との差異を問題にするが,それが際だってあらわれるケースとして,通常の状態からの逸脱,典型的には身体の「欠損」に注目する.有名な(もしかすると『MGSV:THE PHANTOM PAIN』が浮かぶかたもおられるかもしれないが)「幻影肢」の現象である.手や足の切断を余儀なくされたひとたちのなかには,術後に回復してからも,あたかも欠損部位が存在するかのように感じ,そこに痛みを覚えたりするケースがあるのだ.そして実は,わたしは先日,不注意から左手親指の爪の先端を,いくらか肉ごと欠く怪我をしてしまったのであった.

 

幻影肢において,「身体は二重のしかたで経験されている」.

患者は,「現在的な身体 le corps actuel」においては手足が欠損していることを知っており,他方で,「習慣的な身体 le corps habituel」にあってその欠損を否認しているのだ.

『知覚の現象学』が引かれているのを,孫引きだが,ここにも示す.

私たちに手足の切断や欠損をみとめようとさせないものは,物理的であるとともに間人間的なものである世界に巻きこまれている「私」であり,その「私」こそが,欠損や切断にもかかわらず,じぶんの世界に向かおうとしているのであって,そのかぎりで切断や欠損を,だんじてみとめまいとしているのである.欠損の拒否とは,私たちが一箇の世界に内属していることのうらがえしであるにすぎない.私たちを,じぶんの仕事,関心,状況,じぶんが慣れしたしんだ地平へと投げこむ自然な運動に対立するものを,暗黙のうちに否定しているのである.たとえば,腕の幻影肢をもつとは,その腕だけがなしうる行動のすべてに対してなお開かれていようとすることであり,切断のまえに有していた実践的な領野を,それでも保持しようとすることなのである. 

 

四肢の切断に引き較べれば,爪はゆっくりにせよいずれ伸びてきてほぼ元通りになるのだし,痕も残らないでしょうと伝えられたのだから,たいして大げさなことではないのだが,爪は指の微妙な力の入れ加減を制御するために不可欠なものであり,誰しも知るように指先の感覚は鋭敏である.怪我をしてから一週間もすれば,もう痛みなどはまったくなくなったので包帯をとってしまおうとしたが,まさに患部が見えようというとき,えもいわれぬ悪寒が走り,伸びきるまではそのままにしようと決めたのだった(いま,思い出しながらこう書いていてもいやな感じがする).

 

わたしは,「習慣的な身体 le corps habituel」において爪の欠損を「だんじてみとめまいと」する.いわば幻影として,爪は依然としてそこにあり,欠けていない.患部に包帯を巻き,左手を自然なしかたで宙に浮べているかぎりでは,「現在的な身体 le corps actuel」においてもそうである.しかしながら,いったん患部を直接に目にしてしまえば,あるいはついうっかり親指を机や壁に押しつけてしまえば,爪は「現在的な身体」において欠けてしまう.二重の身体のあいだの乖離が一挙に起こり,前者ならば脂汗のにじみ出るような思いをし,後者ならばあの気持ちの悪い感覚が指先を走ることになる.

 

わたしはまさに怪我をしたその十数分後,病院の駐車場で血管迷走神経反射を起こして倒れ込み,歩けなくなってしまった.医学をほんのわずかすらも学んだことがないから極めていい加減なことを書くが,あの目まいを引き起こした原因の一端は,(もちろん血もぼたぼたと流したけれども)応急処置を終えて冷静になってのちに,身体の欠損をありありと意識することからくる強烈な違和感および恐怖感が荷っていたように思えてならない.わたしは左手親指へ幾重かに被せたガーゼをおさえるとき,その先端にわずかあるであろう「へこみ」を右手が触覚してしまうことをなにより恐れていた(ここまで一気に筆が走ったが,もしかすると完全に的を外しているのかもしれないという疑念は晴れない.識者のかたは教えてください).はてさて,以上のことは怪我の功名と呼べるような類いのものなのであろうか.

 

いささか性急であるが,結びへ移ってしまおう.

 詩のことばは,いわば永遠の現在において紡がれる.詩人がことばを撚りあげ,詩句を編みあげようとするとき,通常の意味での時間は流れていない.詩のことばは瞬間をとどめ,現在を永遠なものとして語りだすことができるのである.哲学のことばはこれに対して,あくまで時間のなかで紡ぎだされるほかはない.哲学者はいつでも,時間のなかで永遠に追いつこうとする.経験の総体を賭け金として,時間を永遠の模像として語りだそうとするのである.それは,だから,およそ完結することのありえないこころみとなることだろう.

 哲学者は詩人であろうとして,しかし最終的には詩人そのものであることはできない.だが哲学的思考の,その宿命は,哲学が知を愛すること(フィロソフィア)でありながら,哲学者自身はけっして知者ではないことの,ひとつのあらわれではないだろうか.だからこそ哲学的な思考は,不断に問いを繰りかえし,おなじ場所から絶えず再開されることになるのである.

 

台風は過ぎ去っていったのだろうか,外で低くうなっていた風も凪いだようだ.代わりに鈴虫の鳴く高く怜悧な声が聞こえてくる.枕に頭を横たえ,ぼーっとしてふと思考が止むのを自ら意識すると,室内で静かに空気をかきまぜる扇風機の音と,窓の外から透明に響く虫のそれとが,まったくの無音よりもむしろ世界を森閑に感じさせる.わたしはこういうときにほんの束の間,幸せだと思う.